邪悪なものありけり⑦
◇◇◇
ごうごう……と風が嘶いていた。
濡羽色に艶めく黒髪をめちゃくちゃに掻き回されながら、クロートは遠くに見えた『それ』に息を呑む。
その隣で、レリルも蜂蜜色の髪を押さえながら不安そうに頬を強張らせていた。
多くの建物を悠々と超える体高を持った黒い蜘蛛……例えるならこれで十分かもしれない。
恐ろしいことにその腹は家ほどもある巨大な『宝箱』の形をしており、底から八本の脚が生えているようだった。
薄く開いた蓋の隙間から、黒い触手が四方八方に伸ばされて踊り狂っている。
「なんだよ――あれ」
目に映る光景が信じられず思わずこぼしたクロートに、紅色の帽子の男がつと蒼い目を細める。
「あれは山岳の町を襲った魔物ではないのか?」
「……いや、違う。山岳の町を襲ったのは人型だった。あれは初めて見る……でも率いている奴らはきっと同じだからやることは変わらないよ」
クロートが答えると、レリルが肯定するように頷いてみせる。
……黒い蜘蛛は町を破壊しながら進んでいるのだろう。
魔物の後方ではあちらこちらで噴煙が上がっており、ときおり響く地鳴りのような音が耳朶を打つ。
「……酷い」
一際強い風が頬を打つとレリルは呟いてぎゅっと拳を作り、踵を返した。
「町の人たちを避難させる時間を稼がなきゃ。行こうクロート!」
クロートはその勢いに苦笑して紅色の帽子の男に向き直る。
「『メルカトーレ』ならほかの組織とも連携できるよな? 俺たち、戦わなくちゃいけないんだ。そのあいだに町の人たちを避難させてほしい」
すると紅色の帽子の男は心外だとでも言いたげな顔をした。
「避難を手伝うのは王都に本部を置く組織として当たり前の行動だ。……しかし失礼を承知で言わせてもらうが、少年。君のような者も避難すべきだろう。もっと熟練の冒険者がこの王都にはいくらだっているはずだ」
クロートはゆっくり首を振って、遠くに蠢く黒い蜘蛛を見遣った。
「――俺たち『ノーティティア』には戦う理由がある。俺とレリルには、いま戦いに走ってるはずの大事な仲間もいる。行かないと駄目なんだ」
「…………」
紅色の帽子の大きな唾を引き下げ、男はため息とともに沈黙する。
――確かに俺みたいな経験も浅そうな冒険者が戦うなんて言って、死ににいくようなもんだと思われるよな。
冷静にそう思いながらクロートはすうっと息を吸い込んだ。
……まだ甘ったるい臭いはここまで届いておらず、少し埃っぽい王都の匂いが肺に満ちていく。
――でも、退くわけにはいかない。レザはいまごろ『アルテミ』たちと合流したくらいかも。早く行かなくちゃ。
クロートは腹に力を入れると踵を返しかけ……立ち止まる。
「……俺は『ノーティティア』のクロート。えぇと……」
「私は『メルカトーレ』代表クラビッツ。……少年、いや……クロート。私は『ノーティティア』の内情は知らないが、なにも君やあの少女のような前途有望な若者たちが、みすみす……」
「敢えて失礼な物言いをさせてもらうけど、クラビッツ。こんなときに見た目で判断するのは悪い癖じゃないかな。ハイアルムを見たことあるか? きっと驚くよ」
「……む」
クロートは笑ってみせると、レリルを追って走り出した。
******
日は高く、本来であれば王都は華やかな空気と賑やかな喧騒に包まれている時間帯であった。
しかし町の中心部から郊外へと向かうにつれ、阿鼻叫喚の地獄絵図さながらの光景が飛び込んでくる。
逃げ惑う人。
家族を捜して泣き叫ぶ子供。
荷車に家財道具を載せて運ぼうとした結果、どこに向かおうとも押し合いへし合いとなって詰まってしまった長蛇の列。
そこに鳴り響く轟音は人々を震え上がらせ、あちこちから叫び声が木霊し、混乱が混乱を呼んでいく。
「……レリル!」
「だい、じょう、ぶっ」
その隙間をなんとか掻い潜り流れに逆らって、クロートとレリルは必死に進む。
細い道が絡み合う裏路地でさえこの有様だ。
このままではたどり着くまでに日が暮れてしまうのではないだろうか。
クロートは焦りを隠せず、小さく「くそっ」とこぼしてあたりを見回した。
……そのとき。
「! レリル、あれ!」
クロートは息を呑む。
その視線の先を目で追ったレリルも、はっとして黄みがかった新芽のような翠色の目を大きく見開いた。
屋根の上を――いくつかの影がものすごい速さで渡っていく。
その中に『黒いバンダナ』を靡かせた見慣れた顔があったのだ。
紅い上着の下には黒い魔装具。細身の黒パンツに紅いブーツで、手には黒い双剣『メリディエースアゲル』が握られている。
「レザ……!」
クロートは思わず呼んだが、怒号と悲鳴によって声は届かない。
すぐに見えなくなった影たちにクロートとレリルは視線を合わせて頷いた。
「俺たちも屋根に登ろう!」
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年末年始はちまちま更新予定です。
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