紅に濡れにけりて④
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はあ、はあ、と激しく乱れる呼吸に構う暇はない。
迷宮の深部だというのに、美しく煌めく発光石によって地面や壁には小さな植物が芽吹いている。
本来それは生命の神秘を感じる絶好の場所と言えようが、それを踏み締め蹴散らしながら、私は走るしかなかった。
……『マナレイド』によって凶悪な魔物――『レイドボス』がリスポーンし、協力要請を受けたアーケインは私を誘って迷宮に赴いた。
今回の迷宮はとても深く、現れる魔物は恐ろしく強いことが知られている。
そのためアーケインだけではなく数人の【迷宮宝箱設置人】が同行していたのだけれど……そうね、警戒心は持つべきだった。
私とアーケインは――罠に嵌められていたのだ。
こんなに息を切らせたのはいったいいつぶりなのかしら。
私には【監視人】としての生を心から誇りに思い、強くなろうと努力を重ねてきた自信があった。
だからこそ長く生きるエルフと同じ高みに立っている――そのはずなのに。
『お前がマナの生命体なんだろ? 死んでくれれば、世界は救われる!』
張り裂けんばかりの声で笑った【迷宮宝箱設置人】の顔は、醜く歪んでいた。
情けない……あんな奴らのことを信用してしまったなんて。
アーケインはその【迷宮宝箱設置人】たち――いいえ、無法者で十分ね――に押さえ付けられ、私が追い立てられるを見て『やめろ!』なんて獣のように咆えていた。
はあはあ、から、ぜえぜえ、に変わりつつある呼吸を感じながらも、私は思い出し笑いを浮かべてしまった。
彼ったら、怯えた犬みたいな顔だったわね!
――そう。だから私は……そんなアーケインのためにもなんとか『レイドボス』を倒して帰らなければならない。
そして、ハイアルム様に無法者を裁いてもらうべきなのだ。
だって、そうでしょう? 世界を救うのに、どうして誰かが犠牲にならないといけないの?
私は私の友人であり、大好きなローティを思った。
彼女は本物の『マナの生命体』で……明るくて真っ直ぐな女性だ。
私に『自分がマナの生命体だ』と話してくれたときも、『でもそれがどうかした?』と笑い飛ばす強さを持っていた。
――お腹に子を宿しているって言っていたっけ。ふふ、まさかあのガルムがね。……彼らのことも必ず守り通さなくちゃならないわ。
心に灯る強い気持ちをしっかりと感じながら、私は走る。
……けれど無情にも飛び出した先は天井が高いだけの小さな部屋――つまり、行き止まりだった。
つるりとした岩壁は登るには向いていない。
それなのに見上げる位置に人が立てるくらいの足場がせり出し、そこで当然のように待ち構える無法者たちが見える。
どうやら私が走ってきたのとは違う道が足場に繋がっていたようね。
――なんてこと。追い込まれたんだわ、私。
先回りされていたことに気付いたけれど、もう遅い。私が走ってきた通路にぬうっと影が現れた。
「来たわね『レイドボス』……!」
それは大きな熊の形をしている。――けれど頭はフクロウのような魔物だった。
大きな丸い眼が血の色に光って私を映し、歓喜に歪む。
『グルルルルゥ』
唸り声を漏らす鋭い嘴は簡単に人を両断してしまうほど強靱で、大きな爪は岩でさえ斬り裂くといわれている『オウルベア』だ。
「カレン! 逃げろ、カレンッ!」
そこに、上から切羽詰まったアーケインの声が降ってくる。
ちらと窺えば、ほかの【迷宮宝箱設置人】に囲まれた彼は足場に這いつくばって、私に向けて必死に手を伸ばしていた。
「邪魔するなアーケイン! 俺たちは世界を守ろうとしているだけだ――そうだろ?」
「馬鹿を言うな、カレンはマナの生命体じゃない! こんなことをしても意味がない!」
ほかの【迷宮宝箱設置人】に向けて、アーケインは絶叫する。
「嘘つくな! 異常に強い【監視人】だってことは誰だって知ってる! マナの生命体だからなんだろう?」
そうやって咆える無法者には絶望しか感じなかった。
私はため息をついて、震える――ええ。恐怖は感じていたわ――手を握り締め、ナイフを構える。
小さな部屋は大きく立ち振る舞えるほどの広さはなく、とてもまともに戦える環境にない。
けれど私は意を決して、大きく息を吸う。
「……私はマナの生命体じゃないけど……どっちだったとしても死にたくないわ」
「カレン!」
アーケインの声が耳朶を打った瞬間、オウルベアと呼ばれる魔物が突進してくる。
身を躱し、耳元で唸る風を感じながら……私はありったけの脚力で跳んでアーケインへと手を伸ばした。
――いまは逃げるのが最善だわ!
しっかりと掴んだ力強い腕。彼の大きな手が私の腕を掴み返してくれる。
「ちゃんと、引っ張って――ねッ!」
「任せておけ!」
私は足を壁にかけて登ろうとした。
けれど……そのとき。彼の隣にいた【迷宮宝箱設置人】が剣を抜いて振りかぶったのが見えた。
「アーケインッ!」
思わず彼の名を呼んだけれど……間に合わない。
振り下ろされた刃が、彼の左腕――私が掴み支えにしている彼の腕を――斬り離す。
「――――ッ!」
悲鳴にならない悲鳴が、私とアーケインの口から弾ける。
アーケインの血が噴き上がって視界を染め、己の体が支えを失って後ろに傾く瞬間、私は本を収束させていた。
――ハイアルム様なら私が消えたあとでもこのマナを読んでくれる…………必ずッ!
マナを注ぎ込んだ本――アーケインの物語が私の意志を受け止める。
――アーケインの腕を斬ってまで私を殺したいなんて愚かだわ。だけど世界……私の命をあげる。だから彼と……私の大切な人たちを、どうか。……どうか幸せにして……!
「カレン――ッ!」
そう祈る私の体が待ち構えていた魔物の上へと落ちるのを……アーケインが見ていた。
――ねぇ、そんな顔しないで、アーケイン。
瞬間。
想像を絶する痛みと恐怖、アーケインへの思いが……自分のものとは思えない叫び声となって迷宮の闇に響き渡った。
ちょっと過ぎましたが昨日分です!
カレンという非マナ生命体の物語です。
よろしくお願いします!




