07. 六観音と物理攻撃タイプのジジイ
楚々とした香りと静けさ、豪奢な装飾に包まれた梵能寺の仏殿。
その中央には、華武吹曼荼羅――のレプリカが不自然なモノクロを携えながら偉そうに鎮座している。
表では筋肉隆々の男たちが憎まれ口など叩きあいながら祭り準備を進めているせいか、参拝客もいない。
ガランとしている。
この何も無い寺にしてみれば、今日に限ったことではないけれど。
「あのな、あのな、禅兄」
歯を見せて笑いながら、陽子はとうとう俺を華武吹曼荼羅 (のレプリカ)の前まで引っ張ってきて、コホン、と咳払いを一つ。
「この周りに描かれてる観音のこと、昔じっちゃに教えてもらってたんだ。この間、掃除したら小さい頃のノートが出てきてさ!」
そう言いながら、携帯電話を操作した陽子。
撮影しておいたのだろう。
画面には、学習帳の枠線を無視した丸い図形と、漢字とカタカナ混じりの名前が書かれていた。
小学生くらいの陽子が書いた文字を、高校生の陽子はたどたどしく読み上げる。
「周りの小さいのが六観音っつって、馬頭観音ハヤグリーヴァ、十一面観音エーカダシャムカ、千手観音サハスラブジャ――」
ハヤグリーヴァ、エーカダシャムカ、サハスラブジャ……。
そうか。
怪仏観音連中が関係しているのだから、ここに描かれているのも俺が倒してきた連中と同じものを示しているのだろう。
となれば、残り三体がこれからの相手になるってことだ。
それは確かに、俺や赤羽根の現状維持、もとい手詰まりを打破できるかもしれない。
イイコトだ。
陽子は当時の自分の字の汚さに、ブツクサと文句を言いながら続けた。
「それから、准胝観音チュンディー、聖観音アーリヤ・アヴァローキテーシュヴァラ、如意輪観音チンターマニチャクラ……っていうんだ」
「チンターマニ……チャクラ」
「ちんたまとは関係ないからな」
「こら! 陽子!」
言うと思ったよ!
俺だって言ったからな!
お陰様でというか、残念ながらというべきか、如意輪観音チンターマニチャクラだけ頭に入ったわけだが!
しかし、観音の中に入ってるチンターマニは、こいつが関係しているのだろうか?
今考えても仕方が無いことではあるが、アキラに聞いておきたいこととして頭の隅の目立つところに積んでおいた。
陽子は続ける。
「で、中央が観音菩薩!」
「観音菩薩……は、よく聞く名前だな」
「《なんとか観音》っていうヤツはみんな、観音菩薩の化身なんだ。いろんな人を救済するために、いろんな姿になるんだってさ。その姿が六観音」
"六"観音。
俺がまだ出会っていないのは、准胝観音、聖観音、如意輪観音ってやつらだ。
そして親玉は、中央に座する観音菩薩と仮定する。
こいつらはどこにいるんだ?
現れてないってことは、まだチンターマニが植えつけられてないってことか?
第一、目的はなんなんだ。
くそ、わからないことが多すぎる。
アキラがいれば、縛って吊り上げてボコボコにしてでも全部聞き出すのに……!
何か他にヒントはないものかと、再び華武吹曼荼羅に目をやった。
曼荼羅の中央に配置された姿は、薄布に身を包み穏やかな瞑目で両手を合わせる、いわゆる誰もが想像するような菩薩様だった。
俺は仏教に詳しいわけじゃないが、そんな俺の目から見て特筆するようなことはない。
全体において、他に変わっている点といえば、六観音の配置された隙間に、蛇が這いずったような文字で曼荼羅条約加入組織の名が刻まれていることくらいか。
双樹株式会社。
吉原遊女組合。
三瀬川病院。
剣咲組。
風祭タクシー。
曼荼羅条約加入組織の名前が、それぞれ……。
「あれ……?」
聖観音、如意輪観音の間には文字がなかった。
いや、水にでもさらして墨をぼやかしたような跡がある……ような? 気がする? たぶん?
ピンポイントだけ灰色にくすんで、意図的に名前がぼやけているのは確かだ。
携帯でアップして、沙羅に解析してもらえば、もしかしたら……。
そう思い、仕切り代わりにされている黒檀色の台に手を乗せて身を乗り出しながら携帯電話のカメラを向けたときだった。
「禅兄、避けろおぉおっ!」
場に似つかわしくない陽子の声。
ははん、さては精神攻撃タイプのババアのご登場だな!?
ケツでも引っぱたかれるのだろう、と俺が飛び退いた直後、聞こえたのは破裂音――警策が黒檀色の台に打ち付けられた音。
視界の端では、その一閃の躊躇いのなさを物語るように、黒衣と金の輪袈裟が垂直に靡いていた。
布の中に埋もれたミイラのようなしわくちゃ顔、皺だらけの薄い肉に縁取られた双眼と視線が合う。
「儂の警覚策励を避けるとは、無礼な黄色猿め。それ以上、華武吹曼荼羅に近寄るでない!」
警策が空を切る音と共に小柄な身体を翻し俺の前に立ちふさがったのは、精神攻撃タイプのババアじゃなくて……物理攻撃タイプのジジイ――梵能寺の諦淨和尚だった。
畳の耐久度など意に介さず、警策を上下左右にブン回す。
ベルトの力もあって、攻撃を避けるなんてことは簡単だったが問題は舌戦のほうだった。
「やはり禅か! 見ないうちにずいぶんと落ちぶれた風体になったな、悪がき小僧! 花江が言っておったわい! 陽子にちょっかいを出しとる男というのは貴様だな!」
花江ってのは恐らくばっちゃのことだろう。
あのババア、あらぬウワサで今度はジジイをけしかけてくるとは……!
事実として、陽子にちょっかいを出したというか、出されたというか。
それをああだこうだと説明するほど無粋ではなく、それでも上手い返しが出ずに俺からタレ流れる論法なんて、いつものしどろかつもどろそのものだった。
「言いがかりだって和尚さん! そりゃ貧乏だから弁当の世話にはなってるけれど!」
「まさか! 花江にまでちょっかいを出しておるのか貴様!」
「そんなディープな趣味は無ぇ!」
「ええい、何の画策か知ったことではない! 忙しい今どき、貴様のようなモンが何の用事でうちの孫娘と仏殿をうろちょろと……!」
これはこれは鋭いご指摘!
何度も言うが、この仏殿には華武吹曼荼羅 (のレプリカ)以外に何も無いのだ。
俺は後ろ向きのホップステップジャンプで壁際の掲示板まで追い詰められ、とうとう警策の先端を向けられる。
「ぜぇ……はぁ……こ、答えてみい、不届き者!」
諦淨和尚は息は切れても、覇気は衰えない様子。
しかし、怪仏観音や曼荼羅条約について嗅ぎまわってました、なんて言えるわけがないよなあ……。
「えっと……!」
このジジイを力で振り払うことは出来る。
逃走する事も出来る。
だが――そのツケは全部、ジジイの後ろで俺の身を案じている陽子に行くのだ。
逃げるわけにも、痛い目にあわせるわけにもいかず、俺はやっぱり二枚舌の舌先三寸に頼る他無い。
「ええと、前に来たとき、落し物しちゃったみたいで……!」
苦し紛れに出た言葉のワリには中々良い出来だぞ、俺!
内心ではパレードが起きるほどに自分をほめたものの、じっちゃの返答はこうだ。
「ふぅむ、後ろめたいことは無いというのだな」
返答の質は全く意味を成さなかった。
枯れ柳のような眉から覗く目を光らせ、諦淨和尚は警策を――スッと俺の肩に置く。
「……あれ?」
「……ううむ」
まるで座禅のような状態になってしまい、俺はついつい居住まいを正す。
邪念を見せれば、容赦なく引っぱたくつもりなのだろう。
そこまでわかっていればどうすべきかなど、簡の単だ。
心は清廉潔白。乙女のパンツのように……いいや、ダメだ。
無だ。
無我の境地だ。
無……自然体……裸の……。
ノーパン。
「…………」
「……邪なものが見えるわい」
くっ……。
ノーパンは確かに邪だな……っ!
下着のことを忘れろ、邪な俺!
よこ、しま?
横縞……?
横縞柄の……パンツ!
「喝ッ!」
ブァァァアアアアンッ!
俺の耳元で強烈な破裂音が響き、重い警策の衝撃が肩を押しつぶした。
焼けるような痛み、アンバランスな重力が走り、俺の身体が横「く」字に曲がる。
「なあああぁぁんッ!」
情けないことに喧嘩中の猫のような声をあげて、俺は畳の上に崩れ落ちた。
変身ヒーローの肉体強化という加護があっても、神官や僧侶などの聖職者には一方的にブッ叩かれる。
世知辛い世の中だ。
正しさとは暴力だ。
もしかしたら、俺は今、社会の縮図を味わわされているのかもしれない。
「痛むフリなどしよってからに! さっさと立たぬか、うつけ! それともまだ儂の目を誤魔化せると思うておるのか!」
ペタリ、と俺の背中にまたしても警策が置かれた感触。
こうなったら、綺麗なお姉さんにでもイジメられていると思うしか……いや、それは邪念と警覚策励の無限ループに突入だ!
ジジイめ! 健全極まりない男子高校生に対して、なんて卑怯な手を使いやがる!
「ほれほれ、何暴れてるんだい」
さらに気配が加わり、俺は身を縮めた。
ばっちゃこと花江こと精神攻撃タイプのババアが出現。割烹着の裾で手を拭いながら俺と諦淨和尚を交互に見て溜息をついた。
「昼食だよ」
戦闘に加わるのかと思いきや、呆れ顔だった
あの精神攻撃タイプのババアが救いの女神に見えるだなんて。
物理攻撃タイプのジジイも大人しく警策を外して、嫌味な鼻息を一つ落とし、踵を返す。
当然じっちゃも生物である限り食事をするわけで……。
でも、この時間にじっちゃがここにいるってことは……。
「アタシもう腹ペコ! 禅兄、じっちゃ、遊んでないで早く行こ!」
「……マジ?」
俺は遊んでいないし、ジジイも遊んではいなかっただろう。
そして俺が言いたかったのは、その点だけではない。
ジジイと一緒なのか、という話だ。
そりゃ家主なんだから当たり前なんだろうけど。
修羅場は続く。