05. それでも昇る朝日のように
ベアトリーチェ騒動から数日。
いつものアラームに起こされた俺は、日付と時間を見て……もう一度横になった。
本日は終業式だ。
……出なくてもいいだろう。
さて、二度寝二度寝。
俺は再び、夢の中の優月と――。
はっ、と。
頭に走ったひらめきを理解する前に起き上がる。
制服の内ポケットに突っ込んでいた給料の茶封筒を握り締め、廊下に出た。
もちろん、望粋荘ユニフォームのままだ。
玄関先、靴箱の整理をしていた優月は俺の顔を見るなり手を差し出してくる。
「禅、早く家賃を――」
優月は、顔の横を通り過ぎた俺の腕に驚いたのか、それとも俺の差し出した茶封筒に驚いたのか、目を丸くしてぱちぱちと瞬かせた。
いわゆる壁ドン状態の急接近。
他の住人どもの気配は無い。
夢の中じゃない優月を畳み掛けるなら今!
「優月さん、どう思ってるか知らないけど、俺はちゃんと家賃を払う男だからな!」
「当然だ」
あっさり打ち返された。
優月は俺の近さなど意に介さず、茶封筒をひったくり中を検め数える。
「あれ……いや、その……ちょっとは褒めて欲しいっていうか、確かに当然なんだけど、当然の事を当然のように出来ることに対して何か褒めて欲しいっていうか……」
「当然がなんだって? あと三か月分」
「なんでもないです……」
逆に畳み掛けられ、俺は出鼻を挫かれるどころか粉砕された。
次は久々の暴言だろう。
むしろ楽しみだなあ、とヤケクソポジティブになっていた俺に、優月は存外穏やかな声色で返す。
「立て替えてあるけど……大家にバレるのも時間の問題だからな。私だって、その……ちょっと想定外のものを買い物してしまったし」
想定外のもの、というのはおそらく水着だろう。
だが、立て替えってのは……。
「え、もしかして……いままで俺の家賃を、優月さんが?」
ばつが悪そうな顔で見上げてくる優月だったが――重要:この角度の優月はめちゃくちゃ嗜虐心を煽る――すぐに視線を外し偉そうに胸と顎を張った。
「ベルト云々に巻き込んだせいもあるだろう。ならば、私にもその責任の一旦があって……少しは譲歩してやるべきかと。一蓮托生だし。追い出されてしまったら……困るし」
「困る……!? 俺がいなくなったら、困る!? 優月さん、どういう風に困るのかな! 寂しくて身体が夜鳴きしてしまう困り方かな!」
「お前は本当にばかだな」
「じゃあどういう困り方なんだよ!」
「……それは……多少は、心細いというか……ほんのちょっとだけど」
じーんと、くるものがあった。
少なくとも、俺の存在に家賃三か月分、約九万円ほどの安心感を見出しているということだ。それは大きい。
そして、イケる。
もう片方の腕も壁に押し当て、俺は精一杯顔面をシリアスに引き締めた。
心の中ではベッタベタに、ニヤついているのは言うまでもなく。
「優月さん、俺は突然居なくなったりしないから。優月さんも、もういきなり居なくなったりしないでしょ。一緒に頑張ろう、夏祭りも、海も一緒に」
「……うん」
久々の「うん」と同時に、尊大な姿勢は再び、窺うような上目遣いになる。
「じゃ、じゃあ……望粋荘には誰もいないみたいだし、もう一度、優月さんのお部屋で涼みながら、今度こそ俺のちんを入れて――」
「禅兄、何やってんの?」
「ひゃお?」
光射す玄関口に立った、小柄で美脚な天使。
あまりにも突然の声に俺は幻でも見たのかと思ったが、陰影に質量を見出して呼吸が躓いた。
え?
なんで?
何故、ここに陽子が……!?
真夏の蜃気楼!?
「あーあーあ」
「またブスにちょっかい出してんのか、禅」
「懲りないっすね」
続く、大中小の望粋荘三大悪魔ども。
一方、望粋荘ユニフォーム――パンツ一枚で優月に熱烈☆壁ドン中の俺。
「禅兄、何……してるの?」
陽子は固まった笑顔でもう一度訊いた。
陽子、まさか俺を向かえにきたのか……!
なんにせよ優月と陽子が同じ空間にいるのはマズい。
その上、悪魔どもが一緒にいるなんて、状況としてはこれ以上無いほどに最悪だ。
「あ、あのお……ええとお……」
本日の獲れたて新鮮なしろどともどろを陳列しようという、まさにそのとき。
俺のわき腹を刺したのは、氷川さんの跳び蹴りだった。
すっ飛んで防災用のバケツをひっくり返し、ずぶ濡れになった俺を尻目に、氷川さんは「おい、ブス。デケェ蝉が止まってたぞ」と人を性交渉騒音害虫呼ばわりだった。
そして、続ける。
「こいつ、お前の彼女だってな。ガッコに女作って、ここではブスにちょっかいか。いいご身分だな」
……ひっえー……。
俺が恐れていた文字列そのまんまを吐き出した氷川さんに、俺は起き上がる気力さえ無かった。
このまま気絶したフリをさせてくれ。
俺は、何も、知らない!
何もわからない!
「禅兄、大丈夫……? でも、遅刻しちゃうよ。終業式だぜ。今日は帰りにウチでご飯食べていくだろうと思って、ばっちゃがはりきってんだ! ほら、いこ!」
「え、禅くん。このコと家族ぐるみの付き合いなんすか……?」
「そだぜ! 幼馴染なんだ! ばっちゃもじっちゃも、禅兄のことよーっく知ってるし、付き合ってるのも知ってるよ」
「ほ~う」
「禅くん、このアパートではしょっちゅう優月ちゃんにちょっかい出して怒られてるの。昨日なんて夜這いして大騒ぎ」
ドカドカと地雷が踏み抜かれている音を聞きながら、俺は死んだフリを続行した。
戦場だ……頭を上げたヤツは死ぬんだ。
「禅兄が……?」
さすがにショックを受けたのか、陽子は揺れた声で言ってそれきり。
ぐろぐろと唸る暗雲のような沈黙がのしかかる。
そんな中だった。
鶴の一声を上げたのは、まさかの優月だった。
「何の問題があって禅が責められているんだ?」
「おい、ブス。今日はずいぶんと寛容だな」
「寛容も何も、他人なので。誰と恋仲だろうと、誰と家族付き合いしようと、私には関係ない。家賃さえ払ってくれれば」
その声は氷の槍のように俺の胸にぐさぐさと刺さり、思わず胸を押さえ込んで丸まってしまった。
さっきまで、「うん」って……上目遣いで言ってくれてたのに。
いい雰囲気だったのに。
「ほらほら、玄関前にたむろすな。掃除の邪魔だ」
そして、木造建築に相応しくない足音で二階に上がっていってしまった。
解散の気配の中、陽子が駆け寄ってきて顔を覗きこむ。
いつもの「にひひ」という笑顔だった。
「禅兄、どうせ終業式サボりそうだったから迎えにきちゃった!」
「あ、あ……そか」
「今日は早く学校終わるから、禅兄と家で昼ごはんも食べられるし、楽しみにしてたんだぜ! 早く準備してよ!」
きらきら輝く笑顔。
この状況で俺を待ってくれると……?
玄関から差し込む後光もあって、本当に天使みたいだ……。
とにかく、こんな悪魔の巣窟にはいられないし、天使陽子を遅刻させるわけにいかない。
優月はああなっちゃうと面倒くさいし。
ほとぼり冷めるまでほっとくか。
俺は瀕死の心を引きずりながら、逃げるように身支度を整えて、望粋荘を脱出した。