18. 燃えて明王にまゐらせめ
憂鬱が五割り増しの月曜日。
「今日、ちょっと吉宗たちと弁当食べるからさ」
「おお、そっか」
そう言う陽子に弁当だけ渡された俺は、なおもジャスティス・ウイングの噂で賑わう教室に居づらくなって、雨上がりの屋上に出ていた。
俺たちの戦いでしっちゃかめっちゃかになった校庭はママがそれなりに均してくれたようだし、真っ二つになった倉庫のモノも悪質ないたずらと注意喚起されて終わった。
破損したスプリンクラーが発覚するのは雨の季節が終わってからだろう。
「おい」
弁当箱を巾着袋に収めたところで、声がかかる。
出入り口から登場したのは、赤いジャージに竹刀、ほんの数日前と変わらぬ暴力教師の姿だった。
いや、一つ問題が残っているのだ。
数日前と変わらぬ、劣化赤羽根のままなのだ。
ちなみに本日は俺と間違えて教頭を打ち上げホームランしてしまったらしい。
どんどん暴力の制御がきかなくなっているあたり、そろそろ元に戻ってもらいたいところだ。
俺はてっきり、チョークスリーパーのときに心の支えだったお守りを紛失して、それからぐだぐだになってしまったのかと思っていたのだが……。
「時に貴様、一人暮らしらしいな」
「そうだけど」
「家事は?」
「自分でやるよ、そんくらい」
「よし」
何が「よし」なんだ。
言葉数のわりには「助けてくれ」という非常にわかりやすい内容の会話の末、俺は貴重な放課後を赤羽根に付き合うハメになった。
難しい顔で赤羽根が案内したのは、華武吹町内では良治安四丁目の隅っこ。
数年前に建てられた新築マンションの最上階だった。
俺はなんで男の自宅にのこのこついて行ってるんだ、という疑問は脳裏を掠めつつ。
突き当りの部屋のドアの前で鍵を構え、赤羽根はらしくもなく慎重に念を押した。
怪獣でもいんのかよ。
いや、だとしても赤羽根なら三枚におろして食いそうなものを。
「鳴滝、頼んだぞ」
「はあ?」
臙脂色のドアが開け放たれた瞬間、俺はサイケデリックな情報の津波に吐き気さえ覚えた。
単身者向けで白を基調としたシャープなデザインだからこそ、その異様に色彩鮮やかなフワフワモコモコしたブツや空間を飛び回る黒い点の存在が目立った。
ビニール袋に入った元プラスチックが菌糸やカビと融合して別のものになろうとしている、そんな墓標が足元にいくつも転がっていた。
頭痛さえ催す腐臭。
耳のすぐ横を往復する黒い羽音。
「人は死んでいない」
赤羽根は必要最低限の不安だけ払拭した。
汚部屋だ。
ゴミが積み上げられているとかではなく。
空間が腐敗している。
「な、なん……なん、でこれ……こんなっ……ええぇ?」
「アキラがしばらく帰ってこなかったので、掃除するヤツがいなくてな。人間の住む場所ではないので調子も狂う」
そうか、そういえばアキラとは知り合いだったな……。
アキラを掃除夫のように言った赤羽根の態度からすれば、仲良しこよし、ましてや以上のBのLな関係ではなさそうなのだけど。
どちらかというと、凶暴な猫チャンと甘やかし飼い主ってな印象を受けた。
そんなことはさておいて、俺はまっとうな、まっとうすぎる提案を示した。
「自分でやれよ」
「出来ない」
しかし、簡潔かつ残念極まりない答えが返ってくる。
赤羽根はそういって、情報過多の汚部屋に土足のまま入っていくと、バッグを乱暴に投げやり唯一菌の繁殖から免れているベッドに横になる。
アメリカンスタイル……ではなく、足元が謎の液体と原初の色彩で覆われ、動き回るヤツの音が這い回っていたのだ。
冗談だろう、と思っていた俺の前で赤羽根はすでに試合放棄の姿勢で無防備に目まで閉じた。
――出来ない。
この年、この図体ではっきりとそう言った。
子供みたいに。
劣化の原因は、衛生面での問題だったらしい。
この地獄の有様になろうとも、自分のパフォーマンスが落ちようとも、改善してこなかったのだから……マジで出来ないのだろう。
そんなもん、自己責任だろ!
はい、解散!
…………。
…………。
……いや、でも。
もちろんこれは俺が観測した事柄から導き出した推測でしかないのだけれど、この男は存外、脆い。
強固なヒーロースーツ、ヒーローとしての外殻であるジャスティス・ウイングを精神的にも着こなしてしまっているせいで、理解されにくいのだろうが。
そんな独りで戦うことを宿命づけられたが、一人で生きてきた男の頼み……か。
この無防備な姿勢は、信頼の印と見ていいのだろう。腹立たしいが。
「チッ……ったく、しょうがねぇなッ!」
何より、その態度を無碍に出来る空気ではなかった。
俺は学ランを脱ぎ、掃除用具の探索から開始した。
黒いブツとの遭遇、得体の知れない卵、狂乱の末に掃除道具を手に入れ、ゴミ捨て場を往復し、その間にもさらにおぞましいものを見て、ドタバタと文化的領地を広げていく。
教師として、ヒーローとして完璧超人――ただし、それ以外では底辺レベルのダメ人間であった赤羽根はこの状況でまさかまさか……寝入ったのである。
その一室が人間の住処と言って良い状態になったのは、ゴミ袋約三十個分を破棄した四時間後。
夕食時などはとっくに過ぎていた。
「ったく、こんなやつと同居できるなんて、アキラは菩薩か釈迦如来かよ……」
「如来の化身だ」
おうおう、都合のいいタイミングで起きやがったのか、陰湿クソ眼鏡……。
――って。
「お前、いま何て……?」
面倒くさい。
鬱陶しい。
顔面いっぱいに書かれた感情とは裏腹に、掃除の件が効いたのか赤羽根は、それでも気だるく言った。
「如来の化身、正真正銘の明王様だ」
即身明王ではなく。
正真正銘の?
「はっ! そしたらお前は明王様に炊事洗濯させといてその態度かよ」
「他人に興味がない。利用できるものは利用するだけだ」
「お前、ヒーローとして言っちゃいけないこと言ったな」
「俺は実力主義なんでな」
だからその態度かよ……って。
心底、そういうヤツなのか。
「アキラ・アイゼン……愛染明という名前を聞いて俺はすぐさま何者か問い質した。アキラ自身がそう答え、そして実際に人間の身では到底成し得ないことをいくつもやってのけている」
…………。
ちょっと待て。
アキラ・アイゼン……。
愛染明王……。
そういうことだったのか?
あいつが愛染明王!?
――きゅる……?
わかりやすい疑問符の回転。
「だ、だとしたらこのベルトちゃん――何なんだよ!」
「鳴滝、お前……ベルトに名前つけてるのか。本当に気色の悪いヤツだな」
「そうじゃなくて! ベルトにはベルトの意思があるんだって!」
「システムメッセージのようなものだろう」
「いや、確かに喋ってはいるんだけど……!」
「はあ?」
とうとう赤羽根の声に気の毒そうなニュアンスが混じった。
煩悩ベルトは、五十年前の夢を見せてくれた。
きっと優月と俺のことを思ってそうしたんだ。
それだけじゃない、今までヒーローとして至らない俺を、仕方ねえなって見守ってきてくれた存在なんだ。
その老婆心溢れるベルトが、ただのシステムメッセージなわけが……。
「お前はそのベルトこそ、愛染明王だと言いたいのか?」
「それ以外なんだってんだよ!」
「ならば、アキラ・アイゼンは何だというんだ」
「えと……何だろう」
「…………」
「…………」
まあ、いずれ現れるだろうアキラをとっつかまえて問い詰めればいいだろう。
俺たちはそう決着してお開きとした。
だがその時、既に次の事態は始まっていた。
アキラ・アイゼンの失踪。
俺をパイパンにしやがったあの日を境に、アキラは忽然と華武吹町から姿を消したのだ。
*
――鳴滝禅が赤羽根宅清掃に励む同時刻。
「ベルト所持者二人が華武吹町一丁目の事件を解決したとか」
黒い円卓、頭上から降る無機質な光。
六つの席は五つほど埋まっていた。
「とうとう即身明王が結託したか」
「優月が復活し、即身明王も動き出した今。我々への畏怖……信仰も薄れてきたな。五十年、世代が変われば当然か」
「であれば、多少は今の世代にも脅威を感じてもらわねばならないかしらね。町中が観音で溢れ返る脅威を」
「何にせよ、ベルトに華武吹町の膨大な煩悩を浄化する力は無いのだ。五十年前同様、観音をもう一度騙す他あるまいて。そして我らが災厄を封じ、この地を救済しよう」
古参の三人分の視線が声を漏らさぬ風祭に刺さる。
否定が出来るはずもなく、風祭は黙秘を貫いた。
吉原遊女組合長の老女が扇子の向こうで嘲笑し、三瀬川の恰幅の良い院長が同じく卑屈な笑みを浮かべた。
「次なる贄を用意しよう」
<第四鐘 真赤な煩悩・終> To be Continued!





