17. 感応道交
望粋荘に戻るなり、俺の部屋の前で仁王立ちしていた優月は目を丸くして「バカなのか?」とご挨拶だった。
あれだけの殴り合いをしておいて体がばっきばきなのに出歩いていることを言っているらしい。
俺だって南無爺から色々聞いて落ち込んだり、頭にきたり、それで痛む身体を引きずって華武吹町をほっつき歩いた挙句だってのに。
人の気も知らないで。
知らないで……。
いんや、知らんでいっか。こんな薄暗い気持ち。
「心配してくれた?」
予定通り、帰り際に練習しておいた作り笑いで誤魔化すと優月はすっかり騙されてくれた。
警戒心が強いのに、どこか無垢な感じ。
戦後の動乱の中で出来ない責務を背負わされて強がる他無かった、女性として成長する時間さえ奪われた少女の、そのままだった。
「別に、してない」
「海に行きたかったんだよねえ~、よしよし」
案の定、跳ね返った態度をとった彼女の頭に手を置いて、俺は誤魔化しを畳み掛ける。
そして案の定、優月は眉間にシワを刻み真っ赤な顔をして払い除けた。
「……ッるさい! 第一、お前がいなくても海くらい一人で行ける。海に到達するまでは陸続きだ、徒歩でいける!」
「なかなかの真理ですなあ」
「しかし、お前一人では心もとないというのなら、致し方なく……同行してやると言っているのだ」
「無理するんだったら別にいいけど」
「無理では、ない。遠出するのなら望粋荘の備品の用意など必要だから忙しくなって……少し気乗りしていない、だけだ」
「気乗りしない、ねえ……」
「そうだ」
唇を噛み締めて目を泳がせる優月。
わかりやすい……。
わかり易すぎる。
こんな人種に祭政なんて絶対に無理だ……。
その点考えれば、コレにありとあらゆる責任をブン投げた南無爺の罪は重い。
というか何よりも、優月は運と間が悪い。果てしなく。
まあだからといって、そんな簡単に不運も降りかからぬだろう――なんて思っているうちにそれは起こった。
「優月さーん! アカウント作れてましたけど、注文できてなかったすよー!」
ダミ声と共に二○三号室からのっしと現れるきょたい肉だるま、マスクド・珍宝。
印籠のように掲げていたのは、貧乏具合は俺と同じはずなのに最新型のデカい携帯電話で、その液晶には白地に赤い紐が通った水着が映っている。
「ぐあぁあアアアぁぁァああッ!」
必死すぎる優月の悲鳴。
俺は状況を理解し、かつ理解し過ぎていた。
「珍宝くん。商品名を読み上げてくれたまえ」
「《和装水着ボリュームワン・巫女装束》っすね」
罵詈雑言を上げながら襲い掛かった優月だが、珍宝は高価な電子機器を取られまいと腕を高く掲げた。
結果、プロレスラーともあり腹回りも背の高さもある珍宝の周りを、優月がアホみたいにぴょんこぴょんこ飛び回るだけ。
「カートには何が入っているのかね」
「何点かコスプレ衣装が入ってるっす」
「検索履歴はどうだね」
「大雑把に言うとえっちな布地っす」
「大変趣き深いな。後ほど共有を頼む」
そのあたりで優月は足元に崩れ落ちた。
久々の完全勝利に俺と珍宝は「いえーい!」とハイタッチ。
見たか、望粋荘の節操の無さを!
人の弱みに付け込んで家賃の話を回避する俺たちの心の汚さを!
よろよろ、ぐずぐずと立ち上がった優月は俺たちを睨みつけてまたしても暴言。
「もう知らん! バカ禅! バカちんぽ! 滅びろ!」
「今すげえ事、サラっと言ったな」
ドアの安否が心配になる音で開閉し、彼女は自分の部屋に逃げ込んだ。
「まったくもう……何してんだい」
入れ替わりに階段を上がって登場したのは十歳くらいの少年……に見えるジジイ、一○三号室の天道さんだった。
今日も白衣を引きずって望遠鏡を背に担いでいる。UFO探しに行くのだろう。
「それだから君達はいつまでも童貞なんだよ」
「天道さん、違うんすか……!?」
「世の中には僕みたいなショタジジイにもニッチな需要というものがあってだね……はあ、くだらな。とにかく人の性癖は笑うべからず、だよ。優月ちゃんの場合はどっちかっていうと変身願望っぽいし」
俺と珍宝は気まずく顔を見合わせる。
いや、俺はともかく!
確かに珍宝はダッチワイフにヨシコという名前をつけて話しかけているし、風呂も一緒に入っている気持ちの悪いヤツだ。気持ちの悪いヤツだ。
ショタジジイから説教受けても仕方が無い。
だが、どういうわけか珍宝は俺と同じ表情、鏡のように見合わせていた。
「君達の家賃払いが悪いから大家さんからは怒られてるみたいだし。しかもそのしつこい催促を抑えてくれてるのは優月ちゃんなんだから、もうちょっと優しくしてあげるべきなんじゃないかな」
「え、優月が……?」
「マジっすか」
「じゃ、僕は出かけるから。最近、未確認飛行物体の目撃情報が多くてねえ」
今度は神妙な面持ちで顔を合わせる俺たち。
珍宝の指先が動き、液晶画面上では注文の手続きに進んだ。
*
だもんで、俺は部屋の中に残る覗き穴の前で早々に謝罪した。
「誠に申し訳ございませんでした……」
返事がない。
俺と優月の部屋を繋いだ覗き穴に張られたチラシ紙を指であけると、その先の壁に「五月蝿い」と書かれたチラシが張られている。
行動を先読みするとは、優月も成長したもんだ。
天道さんの言うとおり、優月のソレが変身願望説に俺は深く納得した。
彼女は巫女でいたくないのだ。
その宿命から逃げたいのだ。
他の何かになりたい、他の人生を歩みたい、そんな心を守るための変身スーツなのだ。
それをバカにして、楽しんで。
俺は毎度ながら最低だった。
「どうかわたくしめに視覚的ご慈悲を頂けないでしょうか」
「もういらない」
「注文しました」
「……ほんっと不愉快」
優月の声は俺が思っていた以上に近く――穴の隣あたりから聞こえてきた。
しかし「不愉快」ときたか。これは「最低」の新しいシリーズだな……。
度合いとしては「最低」より強いらしい。
そしてここで一つ疑問が。
「でも優月さんが巫女装束水着を採用してくれたのはどういう風の吹き回しかと」
「寝言が五月蝿い」
優月の返事は単純明快で、複雑怪奇だった。
単純明快なほう。
俺が想像している以上に俺の夢はお隣さんに駄々漏れだったらしい。
それはそれとして非常にマズい。最近見た夢の内容はピンク一色だった。不愉快なのも頷ける。あれ、俺もしかして授業中も?
とりあえずそれは置いといて。
複雑怪奇なほう。
つまり、俺が巫女装束にこだわっているということを知っていて何故……。
いや、一応答えは導き出されているのだが。
俺は解釈のブレと誤解と混乱が起きないようにストレートに、丁寧に訊いた。
「要するに、優月さんは俺の性癖を十分理解した上で、俺にエロスをサービスするという意図の下、巫女装束をセレクトしてくれたという解釈でよろしいか?」
「知らん、勝手にしろバカ」
「そう……」
「…………」
いたたまれない沈黙。
探り合うような呼吸音。
「……じゃあ、寝まーすっ!」
「……そ……うか、そうか貴様は……寝言、五月蝿いから呼吸するな」
「はーい」
俺は大人しく引き下がり、薄い布団に横になる。
優月の部屋のほうでも同じような布ズレの気配がした。
海へ行こうと提案したとき、巫女装束って言った途端、あれだけ即答で――最早、拒絶反応だったのに。
どんな形だとしても、どんな気持ちだとしても、俺のために煩悩大迷災のあんなに辛い思い出を乗り越えてくれたのだとしたら、それってすっげー嬉しい。
多分、今日はそんな夢を見ちゃうな。
長くて明瞭で五月蝿いと思うけれど、寝言だから聞いて欲しい。
嬉しい。
嬉しい……。
それから……。