16. 潮垂るる罪人を誰れかとがめじ-(2)
五十年前。
観音に屈服し、優月を陥れ、権力者に成り代わった。
その証が華武吹曼荼羅。
その横暴が曼荼羅条約の本性である。
*
「曼荼羅条約……」
意図せず、ぽつりと言葉が零れ出ていた。
曼荼羅条約は華武吹町を救ったヒーローたちだったはずだ。
そして今も、街のバランスを取り持ってくれていたはずだ。
怪仏観音の大量発生は恐ろしい、太刀打ちできるかわからない。
でも。
華武吹町に生まれ育った俺にとって、絶対的な英雄――曼荼羅条約が、優月の大事なものを全て奪って我が物顔していたって話のほうが、ショックが大きかった。
「曼荼羅条約はワシの前に現れ嬉々として言っておった。仏を騙してやったと」
「騙した……?」
「……ワシら華武吹町の涅槃入りを誓っていたのじゃ」
「涅槃……」
鸚鵡返しになる俺に、南無爺は「若いモンにわからなくて当然じゃなあ」と前置きしながらあまりにもストレートに正解をぶつけた。
「生きる欲望、意思的エネルギーを手放すこと――つまり、死じゃ。曼荼羅条約はワシらが心底絶望し全滅することを誓った。怪仏観音連中は、それは殊勝とたいそう喜んだそうじゃが、この通り……ワシらはのうのうと生きておる」
「要するに、観音連中は……そのときの約束を果たそうと、果たさせようと――だから強制救済!?」
「観音の思惑などわからぬ。あやつらはあやつらの倫理観やら宗教観があるでの。しかし曼荼羅条約のことじゃ、また新たに贄を差し出すつもりじゃろう。それが通用するとは思えぬがな」
わけのわからねぇ難しい御託を並べる連中だが、怪仏観音の目的は思った以上にシンプルだった。
俺たちを絶望させる……いや、もっと端的に言えば絶滅させることが目的。
だったら一層、ブッ飛ばしやすい。
「はン、観音がしゃしゃり出てくるようなら俺が倒してやるっつの! 借金踏み倒すのは得意でなあ」
「なんとも不埒なやつじゃのう」
弱々しかったが南無爺は冗談に乗った。
強張った声色が少しだけ柔らかくなる。
「……ワシにはもう手立てが無い。これ以上役には立てんじゃろう」
「爺さんに諦められたら、俺らどうしたらいいんだよ。そこを頑張るのがヒーローじゃない? 男じゃない?」
「いいや。そもそも丹田帯が形になったのも偶然が重なっただけじゃ。ワシの手腕などではない。奇跡だったのじゃよ……その手記を、この手の話に明るい者に渡すといい。何かわかるかもしれん」
「つったって、怪仏観音のこと詳しいヤツなんて爺さん以外に――」
――いや、一人。
…………。
――アキラ・アイゼン。
チンターマニを弄繰り回せるんだ、観音のことも何か知っているかもしれない。
あいつが何者かはわからないが、今こそ頼るべきなんじゃないか。
アキラに会えば。
それが、優月を助ける可能性。
優月が、助かる。
「優月を、あのヤバそうな曼荼羅から解放できるかもしれない……!」
大きくサイレントガッツポーズをとった俺に、南無爺が静かに笑い、そしてこれまできいた中で最も弱々しく呟いた。
「優月には……ワシのことなど伝えんでくれ。聞かれたのなら死んだとでも」
「何で? 兄妹なんだろ? もうずっと会ってないんだから、すぐにでも連れて来れるし――」
懐中電灯を南無爺に向ける。
ぽろりと輝くものが落ちていたが、その表情は嘲笑だった。
「ワシは優月が贄になったときな……抵抗するフリはしたが、心の底では喜んだんじゃ……」
「喜んだ……?」
「贄がワシじゃ無くて良かった、まだベルトの研究が出来る、と……不動の適合者が現れたときは、それみろと思った。ワシはここで研究を続けた。観音の技術を知りたかった! 優月のことなど忘れ、オカルト呪術に夢中になっていた……!」
「は……?」
「ひひ、ワシは欲望に負けていたのじゃ……家督から逃げ、優月の一生を犠牲にしてでも知識が欲しかった……曼荼羅条約連中となんら変わらん……ひひ、ひひひ」
はらわたから頭にかけて熱が駆け上がる感覚。
同時に背筋に寒いものが下がっていく感覚。
俺はその小さな体躯が震えながら告白した罪に、慰めの言葉も怒りの反論も出ず困惑して……形容できない嫌悪感が――ようするにドン引きしていた。
俺は輝夜雪舟を、妹を奪われた被害者だとばかり思っていた。
だが違っていた。
オカルト研究に心奪われ妹さえ、腹の底では喜んで妹を差し出したのだ。
じゃあ優月は?
優月を守ろうとした人は?
……いなかった?
一人も?
責務を押し付けられ、忘れられ……。
そんなの、全部おっ被せられて、奪われて、街のみんなから捨てられたってことじゃないか。
――私は、守りたい。
まだそんな風に言っている、優月を。
みんな、とっくの昔に……捨てていた。
そんな。
あいつ一人が割り食ってバカみたいじゃないか。
「これが欲望。これが煩悩じゃ。こんなもの、誰かを犠牲にする身勝手な力に過ぎぬ……それでもまだこの街に渦巻いておる。誰も止められぬ静かな災厄なのじゃ。おぬしが今握った拳でさえ負の意志的エネルギーとして降り積もっておる……」
「…………ッ」
「観音の思惑通り、ワシらは滅びたほうが良いのかもしれぬ……」
――煩悩。
性欲、怒り、迷い、無知……ありとあらゆる心の穢れ。
ネオン街の華武吹町、そして俺とは切っても切り離せない概念だ。





