09. 愛染
一週間して今なお、水滴が窓を叩く音と冷え込みで気だるく目覚める、そんな豪雨の朝だった。
「くっそー! なんでよりにもよって一時限目が赤羽根だっつーときに!」
絵に書いたような二の舞、二番煎じで俺は再び遅刻したのである。
起きられないのは何もかも夢のせいだ。
望粋荘の暗く狭い部屋で巫女装束の優月が雷鳴に怯えて俺に縋りつき、しなだれかかり、とうとう押し倒し、装束に押さえつけられた胸元を息苦しそうにしながらだんだんと開いて、不釣合いにマジえっちな下着をどんな気持ちで選んだのか懇切丁寧に説明しながら上のみならず下のほうもとってもわかりやすい距離感で見せてくれたり――。
略。
とにかく俺の神経細胞まで巫女装束一色に侵食されている、そのせいだ!
一週間前と同じくして、廊下に小さな水溜りを作りながら走っていく。
本鈴は今まさに最後の音を歌ったところだ。
廊下の角を曲がった先、赤いジャージの陰湿眼鏡は――いない! 間に合う!
息を切らしながら教室の扉を開けばそこにも赤はない。
助かっ――ッ!?
背中に衝撃が走ったかと思うと俺は床に叩きつけられる。
何事かと背中を返り見上げてみれば、前髪から水を滴らせる赤羽根が俺を踏みつけながら息を切らしていた。
「俺としたことが危うく遅刻するところだった……おい、鳴滝。そこで何をしている。着席していないのはお前だけだぞ」
「だったらその足をどかしてくんねぇかなあ!?」
俺との漫才はいつものこととさておいて、ざわつく教室。
すんなりと足をどかした赤羽根に舌打ちして俺は席についた。
遅刻だと……?
ずぶ濡れ?
赤羽根が?
いよいよもって、恐ろしい。
明珠高校では、法ですらあった赤羽根の変調。
凝り固まった不穏、窓の外の分厚い雲、止まない雨。
言い知れぬ……凶報。
*
赤羽根ハザードによって全授業何も頭に入らなかったその日の帰り道。
久々に一人だった。
陽子はホームレスのいる公園でアイドルごっこをしてきた話をじっちゃに聞かれてしまい、とうとう出入りを厳しく制限されたらしい。
難儀ではあるが、華武吹町がやれ怪仏だ変身ヒーローだ剣咲組と騒がしくなっているのも事実だ。
まったく、誰のせいなのだか……ってのは、申し訳ないことに言えるわけも無し。
豪雨の勢いすさまじく足元をびしゃびしゃに濡らしながら望粋荘の玄関口に駆け込むと、モップを構えた優月が待ち構えていた。
早速、嫌な顔で俺の足元を見下ろす。
濡れたまま木造建築の二階に上がるな、なんて意思が読み取れた。
上がらなくてどうやって拭くんだ。
「言いたいことはわかるが優月さんや」
そこまで言うと優月は共同風呂場からご丁寧に俺のタオルを持ってきてぞんざいに投げ渡した。
そうです、これです、ありがとうございます。
「そんなびしょ濡れになるなら、学び屋なんぞ行かなければいいのに」
「一応、親の金で入った高校だからな」
ちょっとおセンチワードを出したところで優月は口を出さなくなる。
俺としてはどちらかというと、金払ったから卒業したことにしたいっていうもったいない精神のほうが上なのだけれども。
二階への階段に腰掛けて足を拭う。
ゲタニーカーの中はもう雨水でぐちゃぐちゃだ。
ズボンが無ければ靴も無いので、明日はこれで一日過ごさなければならない。気が滅入る。
「禅」
俺の横に同じく腰掛けて優月が覗きこんでくる。
なんだなんだ、急に距離を詰めてきやがって。
チッスじゃないことはわかってんだ。
不条理に俺を投げるかシメるかする気か?
チョークスリーパーか?
おっぱいが当たるなら多少我慢してやるけどな。
「ジャスト・スイングと決闘するというのは――」
「ジャスティス・ウイング」
「ソレ……と、決闘とは本当か?」
優月はぎらんと目を光らせた。
彼女にしては珍しく首を突っ込みたいらしい。
どこで聞いたのやら。どうせママか、手も耳も早い沙羅あたりだろう。
事情を話すと、少々もったいぶりながらも優月は「密告というわけではないのだが」と切り出す。
そうだ、優月は俺が千手観音にイライラさせられている間にジャスティス・ウイングに助けられたんだ、重大情報を握っている!
「途轍もなく強いように……見えた」
……はずもなかった。
「こう……かなり高く飛んだり……」
「知ってる」
「赤い剣を、持ってて……」
「知ってる」
「…………」
「…………」
長く息を吐いて膝に額を埋めたあたり、優月の情報はそれだけだったようだ。
最近、やっと自分がポンコツだということに気が付き始めたらしい。
優月は絶望的なその姿勢で言った。
「禅、私に出来ることは何か無いのか?」
そりゃあまあ何かって言われれば色々あるけれど。
メイド服とか、巫女装束とか、マジえっちな下着はどういう機能性のものなのかとか。
でも、今回は。
「んー……無いっ!」
「え、あ……そうか」
悪いな優月。
今回はヒーローの話なんだ。
男同士の話なんだ。
「ケンカ買っちゃったんだよ。俺、もうあいつには結構頭きちゃって。あいつを認めちゃうと俺の嫌いな華武吹町まで認めることになっちまう。そういう気持ちでぶん殴らないとすっきりしない。それってケンカじゃん。優月さんが入ってきちゃダメだよ」
顔を上げた優月を目が合う。
驚き、訝しみ、影を落とした。
「禅は、華武吹町が嫌いなのか……?」
「嫌いだね! 大嫌いだ。冷たいし、自分勝手だし、優月さんだってひどい目に合わされてたじゃん。好きになれるはずがない。優月さんだってそうでしょ?」
街の中さまよって、ぼろぼろで、諦めかけていて、臆面も無く助けを求めていた彼女を、俺はまだ覚えている。
だから、彼女の返答は意外だった。
「私は……守りたい」
「え?」
「ここはずっと昔から、私の先祖が守ってきた土地だ。戦争から、空襲から命からがら生き延びた父と母から託されたものだ。時間をかけて多くの人間と分かち合って、守っているものだ。今、輝夜のことを誰も知らなくても、私は……守りたいと思っている。こんな私では、力不足かもしれないが……いや、かもしれないではないか。私が華武吹町を治められていれば違っていたはずだ」
それからぼそりと「何も役に立たんな、一蓮托生なのに。この時代では初めてで不慣れなことが多すぎる」と。
優月は戦っている実感が欲しいのだろう。
でも、満ち足りちゃうとまたクソ仕様で変身出来ないとかになりそうだし……うーん、せめて半分、いや四分の一くらいでも……。
優月が役に立つといえば、やっぱ……。
「じゃあ、巫女装――」
「却下」
恐ろしく早い拒否だった。
そら嫌だわな。
優月は過去から逃げたいんだ。
いつも以上にぎろりと睨まれて俺は何事もなかったように言い直す。
「んじゃあ……俺が勝ったら、デートしてくれませんか」
俺としては非常にマイルド、十倍希釈くらいの提案だった。
首をかしげた優月。
そっか、カタカナ語だとよくわかんないか。
あれ?
日本語でなんて言うんだ?
まあいいや。
「優月さんは……そうだなあ、海とか行った事ある?」
「馬鹿にするな。知ってるし、テレビで……見た、そのくらい……」
「行った事ないんじゃん! 馬鹿にするわ!」
「……うるさい」
「文字面はなんでもいいや。行こっ!」
「ん……迷惑をかけないか? 初めてで不慣れなのに」
だからイイんじゃん。
その年で初めて本物の海見るとか、そんな絶滅危惧種がどういう顔すんのか見てみたいし。
だって……。
「いやあ、どうだろう。海は危ないって言うしなあ。お金もかかるからなあ。でも優月さんがご褒美になってくれるんだったら頑張っちゃおうかな~」
言葉が纏まらなくて、いつものチャラチャラへらへらした表面で誤魔化した。
ちょっと恥ずかしくて。
「そか……いいだろう。お前が行きたいのなら、海に……同行してやる」
「へへー、ありがたき幸せ」
「五体満足で戻ってきてくれるのなら……だぞ」
「あれ……めっちゃハードル下げたな」
「……ん、いや……困るだろ」
「行きたいのか? 優月ぃ、本当はすっげー海行きたいんだろ? なあ、なあ!」
「うるさい、わきまえろ! たわけが! なんだそのニヤついた顔!」
「いやー、優月さんがそんなに俺とデートしてぇんならしょうがねえなあ~!」
だって結局のところ、やっぱ俺の煩悩は相変わらず。
俺は真っ白すぎる優月の初めてを全部、染め上げたいって思ってて。
それを言うのってやっぱ雰囲気大事で。





