08. 不動
オカマバー《シャンバラ》の裏手ドアを開けると、薄暗く静かな店内、いつものハズレ席で太い指をトントンとテーブルに打っているママと目が合った。
「一時間も遅刻してんじゃない。時給のくせに」
「あの……人命第一といいますか……」
「アンタまたベルトだ観音だって話に巻き込まれたのね」
「そう! そうなんだよお~! 今回もまたややこしいことになっちゃってさあ~!」
「……もう、いいから早く着替えなさい。アケミとウンケミ来ちゃうわよ」
それこそ猛牛級の溜息一つ落としたママ。
助かった……。
俺は「はいは~い」とすっとぼけた返事をして裏手からウエイター服を引っ張り出してテーブルに置いた。
キッチンのさらに向こうにはオネェさんたちのロッカールームがあるが、俺がおいそれと入れる空間ではない。相手は自称といえど女の子だし。
もちろん男性用の着替え室など気の利いたものは無いので、俺は遠慮なくママの目の前でパンツ一枚になるわけだ。
「あ、そんでさ。ゴメンついでなんだけど今週の土曜日のバイト、休ませてほしくて……」
「何よ、アンタ金が無いっていうからわざわざ皿洗いの枠あけておいたのに」
ママは怒るというよりも目を丸くしていた。
一応、ママの前ではいい子ちゃんしてきた俺はそれなりに信用されている……はずだ。
なんだかんだいって真面目で純粋で可愛い禅ちゃんが、わざわざ入れてもらったバイトを休みたいと言い出すなんてきっと深い事情があるに違いない。
という感じで怒ってはいないのである。多分。
「それが……喧嘩を売られて明珠高校にいかなきゃいけなくなってしまいまして……」
乱暴に学ランをテーブルの上に放り投げた拍子にポケットに入れていた輝夜神社のお守りが顔を覗かせる。
学校で忘れ物として届けるつもりだったのに、赤羽根がぶっ壊れていたインパクトが強烈すぎて完全に忘れいてた……。
ママはそれを大きな手で摘み上げて視線の高さに掲げるとしげしげと見つめていた。
煩悩大迷災のことを思い出しているのだろう。
「そんでさ……ママ、即身明王って……知ってる、よな?」
着替え終わり襟元を調えた俺に、ママは呼吸を詰まらせぎょっと目を見開く。思っていた以上に大げさなリアクションに俺はフォローも利かなかった。
お守りを丁寧にテーブルに置くと、その口から出たのは「あんた、とうとうそこまで辿り着いちゃったのね……」とらしくもない震えた声。ハイパー失礼な話だが、俺は始めて、ママにか弱い女の子の像を見た。
「辿り着いちゃいました。そんで……そのジャスティス・ウイングってヤツと戦わなきゃで……」
やっとこさおどけた俺に、ママは何度か頷いて口を割る覚悟をしたようだった。
しかしタイミングの悪いことに、裏口側が賑わい始める。
仲良しこよしの二人組、アケミとウンケミだろう。
「後で話すわ。土曜の件もわかったから、今日分はしっかり働いてちょうだい」
ママはそう言うといつもより明るく振舞って、スタッフたちを迎え入れた。
そして今夜も空騒ぎ……というかカマ騒ぎ。
アケミは緑、ウンケミはピンクのリオのカーニバル衣装で狭い店内を駆け回る。
ママはお得意様周り、俺は裏方皿洗いだ。
一旦の日常。
単純作業につい煩悩大迷災のことが頭を過ぎる。
優月も、ママも……他にもたくさんの人の運命がそこで日常と切り離されてしまったのだろう。
ジャスティス・ウイングもそのうちの一人で……。
この日は稲妻を伴う悪天候のため、客足はまばら。スタッフたちもだらしなく飲み始めてしまった。
「あんた、休憩入っていいわよ。何か作ってあげるから」
手持ち無沙汰になって裏の作業場をデッキブラシで磨いていた俺に、ママがいつものように声をかけてくれた。
俺もいつものようにハズレ席で携帯電話を取り出した。
着信があるわけじゃないけれど、内心これから長話が始まるのだろうとがっちがちに心を構えていたから、緊張してないぞってポーズなだけで。
携帯電話には明王の忿怒相を調べたページが残っていた。
即身明王。
屍の上に仕立て上げられたヒーロー。
ジャスティス・ウイング。
「ほら、おあがりなさい」
目の前に登場した湯気踊るオムライス、その香りが俺の食欲を呼び起こす。
そういえば、ママはこれが得意料理だと、もう食べてくれる人がいないと言っていたな。
両手を合わせて、いただきますと口に運び始めると、ママは重苦しく語り始めた。
「確かに、私は不動の丹田帯に適合できず、適合者の育成係の主任となったわ。こう見えて昔は鍛えていたのよ」
こう見えて……?
昔は……?
筋肉組織の鎧は健在のように見えるけど、当時はそれ以上だったってことか……。
「何の因果か、不動明王は十歳にもならない少年を候補者にした。少年は……両親を殺したベルトに適合し、即身明王の宿命を背負うことになった」
「……親を殺したベルトと……か。そりゃ、ヘヴィな話だな」
「彼は厳しい修行に耐え、間違えたときは猛牛殺し怒りの鉄拳を受けた。海外で無法者と戦ったこともあったわね。戦う術を飲み込む速度は抜群だったわ。だけど精神的に追い込まれていった。優しくて泣き虫だったあの子を正義という大儀だけが支えた。あの子は逃げなかった。いいえ、逃げられなかった。ベルトから逃げることは両親との繋がりを捨てることになるもの。私も、本当の意味で彼を理解してあげることが出来なかった……生きながらにして人々の望みを背負う、たった一人の明王」
「……たった一人」
俺には、強烈な重圧と孤独のジレンマが想像できた。
俺だったらどうするだろうか。
俺だったら……多分、逃げちゃうな。
「それも十数年、彼は密命の下、華武吹町に溶け込んだ。今の彼がどこで何をしているのか、私にはわからないわ……」
鼻をすすったママはテーブルの紙ナプキンで目頭を拭う。
そして確信があったのか、お守りを自分のほうに引き寄せて中を覗き見た。
「これは私が、あの子の両親の結婚指輪を入れて渡したものよ……華武吹町の闇に触れた者にお墓なんて無いの。あの子の、拠り所のはずだわ」
そんな大事なものが、何で俺の手元まで転がり込んできたんだ……。
「……禅ちゃん、土曜日……戦うのね」
「っそ! そういうギスった感じだから、ソレは俺からじゃなくてママから返したら」
「…………」
両手で小さなお守りを包み、ママは「そうね」と体格に似合わぬ弱々しい返事をした。
そして続ける。
「こんなことあなたに言える立場でないのはわかってる、でもあの子が抱えた宿命を本当の意味でわかってあげられるのは……禅、あなただけよ。あの子はきっと、救いの拳を求めている」
何が起きるのか、どうなってしまうのか、俺には全然想像がつかなかった。
けれど、こう答えないと粋じゃない。
「俺、ヒーローだから。助けを求めてるヤツを救うの、当たり前じゃん」