05. 煩悩大迷災
ラブホテルの一室という限られた空間で変身ベルトを探し回った挙句に見つけられず、俺は二人用のベッドに一人で仰向けになっていた。
変身ベルトはやっぱり得体の知れない力を持っている。
水面下で剣咲組や黒服が妙な力を持ったベルトと優月を追っている。
そしてベルトは俺のせいで紛失、現在は所在不明。優月はそれに気がつかず華武吹町をさまよっている。
俺のせいで事態は悪化……という状況だ。
「優月……」
待て待て。
俺は、ゴミ塗れの彼女にシャワーと休憩時間を提供して、服だって買ってあげたんだ。
十分過ぎる人助けをした。
罪悪感なんて抱えているはずがない。
はずが、ない。
…………。
……どんなに自分を持ち上げても、ダメだ。
ベルトを無くしてしまったことの埋め合わせは出来ない。
いや……どっちかというと、優月が治安劣悪な華武吹町でろくでもない男につけ込まれてしまわないかの方が気がかりだった。
滅茶苦茶に自分のことを棚に上げているのはわかってる。
でも食べかけた据え膳を他の野郎が食うのは許せない。
探すしかない!
ベルトも、優月も。
時刻は午前一時を過ぎたところ。
華武吹町の夜は始まったばかりだ。
ロビーを出る前に「おもちゃのベルトの忘れ物があったら連絡ください」と携帯の電話番号を書き記したメモを受付の老婆に差し出す。
顔は見えなかったが、しわくちゃな指がするりと引き寄せた。
ホテル前では相手待ちの男女が暇そうに携帯電話を弄繰り回していた。
雨は少し弱まり再びの霧雨。
スモッグが叩き落された冴えた空気に包まれている。
俺は彼らに紛れて携帯電話を取り出し、登録済みの電話番号にかけた。
三コールほどで応答がある。
「お蝶さん!」
『今、休憩中』
物理的に何か歯に挟まった――多分タバコだろう――気だるい声が聞こえた。
もちろん、休憩時間を把握して連絡している。
「実は折り入ってお願いしたいことが」
『禅ちゃん。女に自分の言うこと聞かせるときは――』
「獅子屋の特選いちご大福十個でお願いできないかな……」
『よし。言ってみそ』
微妙にキャラが違うが営業時間外ということで。
「女を一人、匿って欲しいんだ」
『何? 浮気?』
「マジで存在するんだよ、ベルト。その女が持ってて……追われてるんだ」
『あ~……おもちゃのベルトだっけ?』
剣咲組が追ってるっていう、とお蝶さんは声を潜めた。
『その噂、別のお客からもちらほら聞いてんのよね。神通力を授かるありがたい代物だとか、はたまた人を化け物にする呪具だとか。もちろん皆信じちゃいないんだけど。カマトトぶるのも一苦労だわ。でも電話する相手は私じゃないなあ』
電話越しで呆れが伝わるほど、長い吐息でタバコの煙を吐いた。
『のっぴきならない事情があるのはわかった。だけど私も吉原遊女組合の一員。剣咲組の邪魔はできないよ。まさか五十年前の煩悩大迷災、知らないってわけじゃないでしょ?』
その言葉も、お蝶さんは周囲に気を配ったようだった。
煩悩大迷災。
五十年前に華武吹町で起こった不可解な……人災だ。
原因はいまだに不明。
突如として暴動が発生し、人々は欲望を思い思い解き放った。
その時に暴力に対する抑制を行ったのが、皮肉にも暴力団の剣咲組。
そして、肉欲の受け入れに貢献したのが吉原遊女たちである。
当時の功績もあって、吉原遊女組合は剣咲組に匹敵する強い権力を持っている。
煩悩大迷災から華武吹町を救った組織同士は一つの曼荼羅を描き名前を寄せ、不可侵条約を結んだ。
それが――。
「……曼荼羅条約」
例え俺やお蝶さんが生まれる前の出来事だとしても、曼荼羅条約が生きている以上、組織同士の干渉が出来ない。
確かに、お蝶さんが変身ベルトを持っているとされる優月を匿うのは条約違反になる。
『わかってるじゃん。じゃあ――あ、話は聞いてあげたのでいちご大福の件は有効だから』
「……はい」
貧乏学生から容赦なく金品を吸い上げるとは、お水の鏡だぜ。
来月も貧乏生活確定に涙を呑んだところで、お蝶さんから「にしてもさ」と切り替えしが差し込まれた。
『元気ないね。さっきまであんなに元気だったのに。ここ数時間でどんなおセンチイベントがあったんだい? 並のスケベではない禅ちゃんのことだから、その女を自宅に匿って強引に押し倒した挙句にケンカしたとか?』
「……ぅう~ん? 違うよ? 全然違うよ?」
だいたいあってる……。
とりわけ、人心掌握が本職のお蝶さんには俺の微妙な変化など手に取るようにわかるわけで。
「で、でも危なっかしいから、今から探して、安全なところに……」
『そこが禅ちゃんのいいとこだよね』
お、褒められちゃった。
『スケベ目的なら並々ならぬ努力ができるところ』
「…………」
『かっこいいところ見せてマイナスになった分の点数稼ぎたいんだろう? あわよくば食べちゃいたいんだろう?』
「ち、違うよぉ? 全然違うよぉ?」
俺の言葉はどんどん頼りなく痩せ細って、最後には裏返る。
まな板の上の鯛等しく、言葉の暴虐を待つ姿勢になった俺を憐れんだかお蝶さんはそのあたりで慈悲を見せた。
『ま、私にゃ関係ないんだけどね……ところで禅ちゃん、猛牛殺しの源三、知ってる?』
「……誰?」
話が切り替わった上に、物騒な名前が出てきて俺は顔をしかめた。
その顔が見えたかのようにお蝶さんは天を仰いで頭に手をやる……姿が俺にも見えた。
『三丁目にシャンバラっていうバーがあるから、そこの大将を頼ってみ。禅ちゃんの頼みだったらきっと聞いてくれるから』
どこか含みのある言い方だ……と感じたのはあながち間違いではないようで、鼻で笑った後、お蝶さんは逃げるように通話を切る。
俺は一息吐いて携帯電話を引き続き操作した。
「シャンバラ……」
お蝶さんはそこを頼るようにと言っていたな。
先に電話したほうがいいだろう、ブラウザを開くと、そこには「ふしど」を調べたページがそのまま開いていた。
優月……。
シャワーに入りたてで(俺が部屋代を払いました)、
コスプレセーラー服で(俺が買って着せました)、
電気マッサージャーを持ち歩いている(俺が持たせました)、優月。
…………。
俺のせいで、カモ度まで上がってる……。
とにかく早く優月を見つけなければ。
優月に安全な場所を紹介して、俺は変身ベルトを探す。。
それだけでいいんだ。
あわよくば……いや、集中しろ、俺。
華武吹町、シャンバラ。
聞いたことのない店名だった。
俺とて華武吹町を網羅しているわけではなく、入れ替わり立ち代りの早い区画やこぢんまりとした狭い店については特に記憶が無い。
遊ぶところは専ら派手な一丁目大通り沿いや二丁目歓楽街、三丁目ならなおさら馴染みが薄かった。
はて、どのような……と検索フォームに打ち込んで――いる最中。
周囲でざわめきと、中には悲鳴があがり、何事かと思った頃には俺の視界は不自然に翳る。
ゾンビでも現れたのかっつーの、と顔を上げた俺の前にはふんどし一丁、上半身を赤く染め上げ霧雨を蒸発させて湯気を上げた……赤鬼竹中の姿だった。
「あ」
完ッ全に、忘れていた。
人間ここまで完全に忘れることがあるんだなあ、と完全に感心するほどの完全に忘れていた。
優月。
黒服。
変身ベルト。
竹中。
偏差値三十以下の俺の頭では、どれか一つが抜ける、そういう仕様らしい。
蒸気で動く装置のように口と鼻からしゅーしゅーと白い湯気を上げる竹中に、俺はまるでイカサマ花札の件などなかったようにいつもと同じ明朗な調子で話しかけた。
「ああ、あわあわひたた、あたたけな、かッ! さんッ! あひゃは、hyひい、いいおお天ティン気ですねッ!」
俺の言葉に反応はなく、引き続き黙して、湯気を上げている竹中。
ああ、もしかして俺なんか眼中にないってことなのではないだろうか。
そうだ、そうに違いない。
こんな長い時間、怒り狂っているわけが無い。
だったら今のうちに退散するのが親切というものだ。
そっと横を抜けて……。
「ぬぁるだぁぎぃいッ!!」
「うぅひゃあェえあアァッ!」
竹中の太い指が学ランの胸倉を掴んだかと思うと、身長百八十二センチの俺のつま先は地面から二十センチは簡単に浮いた。
「話し合いでの解決を求めますッ! 暴力反対! 安全第一!」
「しゅー……しゅー……なるだぎ、なるだぎ……」
竹中の返答はそれだけだった。
聞く耳持たない……ではなく、聞こえていない、そんな状態だ。
よく見れば唇の端から泡さえ漏れている。
まるで、悪霊にでもとり憑かれているような有様だった。
突然のことだった。
ぱかり、と口を開けた竹中の口から聞こえたのは――
「ッヒヒーンッ!!」
「ヴえええッ!?」
――どう頑張ってもどう引っくり返しても、馬のそれでしかない嘶きだった。
嫌がらせにしたってギャグにしたってシュールすぎて俺には全く理解が出来ない。
目を見開き口を開き仰天のまま震え上がるだけだった。
ぐるん、と竹中の黒目が勢い良く上瞼の中へ隠れ、白一色をむき出しにしたかと思うと今度は顔の筋肉をあちこちに動かし顔芸を始める。
もちろん笑わせようとしているわけではないのは窺い知れる。
次第に顔芸は激しさを増し……いや、それは筋肉の限界を超えているだろ!
パチパチと小さな破裂音が聞こえた。多分、筋肉組織の変形が立てる音で……。
それどころか竹中の頭は骨に対して無遠慮に盛り上がり、不行儀に栗毛が生い茂り、怒髪天のたてがみを揺らし、あっという間にその頭部は巨大な馬のものに再構築された。
こんなの人間じゃない!
こんなの人間じゃない!!
ミノタウロス、なんて怪物の名前は知っている。
牛頭人身の怪物だ。確か、ギリシャ神話の。
竹中が変貌した姿はそれの、馬バージョンだった。
ウマタウロスだ!
周囲に立っていた人々がとうとう悲鳴を上げて逃げ出していく。
胸倉を捕まれた俺は成す術も無く、雑食動物から草食動物と変貌を遂げた竹中と目が合った。
もしかしたらまだ人間の心が残っているかもしれない、せめてこの腕を放してほしい。俺は一目散に逃げるから。
「た、たっ、たたッ竹ぇ中ぁ……ッ?」
「ブルルルルッ」
病気持ちの鶏でしかない俺の呼びかけに、竹中は馬そのものの返答をした。
拳がそのまま入りそうな巨大な穴と舌垂れっぱなしの口から飛沫が飛んでくる。そしてくちゃくちゃと何かを噛み締めていた。
馬の頭なのだから当然かもしれないが、人間の動作とはかけ離れていた。
今度は鼻が隆起し、掴みあげた俺の匂いを嗅いだかと思うと、今度は人間風に首を傾げた。
「ぢがう……べるど、うつわの、おんな」
優月のことか……?
「きゅう、さい……力ずく……強制、救済……! 心を、無にせよ! 望みを、無にせよ!」
舌が別の意思をもった生き物のように跳ね上がり、劈くような嘶き。
再び飛沫。
「汚い! 手ぇ離せ! 俺に馬菌をくっつけんじゃねえ! 馬が感染すんだろ!」
そんな心配はいらんといわんばかりにウマタウロスの口が開閉し、太い腕はその口に俺の頭を運んでいく。
頭から食べられてしまうというやつ!?
馬に!?
草食動物に!?
動物性タンパク質であるこの俺が!?
「ひ、ぃい! 誰かッ! た、たす助け――!」
情けない俺の絶叫は尻すぼみになって、消えた。
タイヤが見えた。
そして、馬の頭が薙ぎ払われた。
目の前で起きたのはそれだけのことだった。
俺の身体は雨に濡れたアスファルトに叩きつけられたが幸いにしてウマタウロスの腕からは逃れられたようだ。
誰かが俺のピンチを救ってくれた、それだけはわかって咄嗟に姿を探す。
ウマタウロスが膝をつくその向こうに、一台の白いスクーターが後輪を大きく滑らせ方向転換していた。
その騎手が視界に入った途端、俺は異国の王子様という恥ずかしい言葉を浮かべた。
だが、よくよく見るとベクトルが真逆の存在だった。
白いスクーターには"タイ料理大和"と、俺も知っているレストラン店の名前と電話番号がコテコテな創英角ポップ体で書かれており、乗っている男は厨房からそのまま出てきました、と言わんばかりのシミが点在したアジア風のコックコート、気休め程度のゴーグル付き白ヘルメットをかぶっている。
こんな時間までデリバリーとはご苦労なこった。
そして俺が王子様だなんて柄にも無く思ってしまった要因は、かっこよすぎる登場の仕方と、その男の容貌にあった。
俺はひねくれている。
その俺が、一目で認めてしまうほどの美丈夫だった。
浅黒い肌に黒髪の長い三つ編み、服装に不釣合いな黄金のアクセサリ、肌の色からしてインド系だろうか。いや、淡白な眉目はアジアン……中国人のようにも見える。
とにかく人種はよくわからんが、明らかに職務中、しかも下っ端の風体をしているのに高貴さを感じる色黒の外国人美青年だった。
「僕が配達帰りで良かったな、禅! 無事か!」
何故か俺の名前を知っていて、まるで旧知の仲の如く馴れ馴れしく呼びかける。
「た、助かった……ありがとう、でもお前……」
誰なんだ?
立ち上がり息を整えながら問いかけた俺だが、外国人美青年の視線は鋭くウマタウロスに突き刺さっていた。
それはよろめきながら姿勢を整え、まるで青年の隙をうかがい、しかしそんなものが無いと見越したかのように逆方向に走り出す。
低い姿勢、巨躯からは想像もできぬ速さは数時間前に見た竹中のラリアットそのものだった。
一つ違いがあればその勢いは衰えず、真っ直ぐに人波にぶつかっては通行人をなぎ倒し悲鳴の渦を作っている。
なんて恐ろしいことが起きたんだ……。
知った顔が目の前で突然バケモノになって、別のものに乗っ取られてしまったかのように暴れ始めて……。
呆然としている俺の奮起を促すように美青年は人差し指をウマタウロスの去った方向に示す。
「禅、追うんだ! やつを倒せ!」
「倒せ!?」
「お前ならできるはずだ」
「あんたっ……あんたは何者でっ……いや、そんなことはとりあえずどうだっていい、あんたはどうするんだ!?」
追いかけるにしたって一人じゃ心細いし、走ったって追いつけるかどうか。
そのスクーターに乗せてくれるんだよな?
そんな期待があった。
「僕は仕事に戻る。SMクラブで時間を潰し過ぎた、これ以上遅れると店長に怒られてしまうのでな」
「え?」
「時給なので」
SMクラブ?
何の話?
俺の頭の上に疑問符が浮いては消えを繰り返しているうちにスクーターは再び向きを変えて走り去っていった。
情報飽和状態の俺は彼のことを一旦忘れることにして――ヤバいヤツだということだけは念頭に置いておく――そうだ、ウマタウロスだ。
変身ベルトを追っている。
優月を追っている。
ぼんやりとした不安ではなく、早急な危機が彼女に迫っていることとなる。
点数を取り返したいだけ。
そのハードルは、異形のバケモノの登場で一気に高さを増したが、俺はすでに巻き込まれているということを――むしろ事態の中心にいるのではないかと薄々自覚して、知らないフリをするという最も賢くて安全な選択肢を失っていた。