華武吹町の女王-(1)
それが、煩悩ベルトの夢だということに気がつくまで半日ほどかかった。
その昼下がり、俺は概念上マイナスになった財布を引っさげて華武吹町銘菓の獅子屋前に並んでいた。
「まさかベルトちゃんが愛染明王様だとはね」
きゅるるるる。
はっきりしないが、否定とは思えない返事があった。
名物とあって外国人観光客が半分ともなる長蛇の列。
店頭間近になってメニュー表を手渡される。
人気の喫茶店並みだ。
「期間限定みかん大福……」
初めて見る。
*
そう、夢を見たんだ。
凍えるような寒さに意識が融けこみそうになる。
六畳一間――いやそれよりもずっと狭い四畳半の板間は黴臭く、淀んだ冷気に沈んでいた。
石造りの壁。
高い木の格子から注ぐ薄い光だけが視界だった。
まさしく牢屋だ。
その隅に、薄い白装束の膝へ顔を埋めた女。
夢の視点はその正面からただ彼女を見るしか出来なかった。
彼女が――優月が一日中そうしていることをベルトは知っていた。
普段は寝台の裏、日中は彼女の膝の上と共にあったからだ。
光が色濃い茜色に染まった頃、声が転がり落ちてくる。
少年が二人だった。
「豪ちゃん、やめなよお。泣き女の幽霊にとり憑かれちゃうよ」
「大丈夫だよ、源ちゃん。オイラが守ってやるよ!」
言っているうちにがさがさと聞こえて優月は顔を上げる。
疲れ果てた、まさに幽霊のような表情と、天井近い格子から覗く少年たちの目が通じ合う。
「きいやああぁぁぁあ!」
二人のうち一人の声は遠のいて、残った猿顔の少年はけらけらと歯を見せて笑った。
「源三は怖がりだなあ!」
優月は顔――涙の跡だったのかもしれない――を擦り、毅然とした面持ちを作る。
「おい、お前……悪ガキ大将!」
そういう感じだった。
当時の彼女は。
「貴様のような破廉恥たわけ小僧が来るような場所ではない。去れ」
「お、泣き女のくせに泣いてないぞ! や~い、泣け~!」
子供の頃の鳴滝豪も、そういう感じだった。
「わきまえろ! 私を誰だと――!」
「へへ、高い柵を乗り越えてきた甲斐があったぜ! やっぱ泣き女の幽霊は、神社の偉そう姉ちゃんだったんだな!」
「何度言ったらわかるんだ、悪ガキ。偉そうなのではなく、偉いのだ。私はこの土地を千年守ってきた輝夜の末裔だぞ。地主だ!」
「地主? 女王様ってことか! 最近見かけないから、性格悪いのに嫁にもらわれちまったかと思った」
「ふん、兄が呪術にかまけている今、私が当主も同然。嫁になど出されるものか」
「その偉い女王様姉ちゃんがなんでそんなところにいるんだ? 悪いやつに閉じ込められてるのか? 性格悪くてお仕置きされちゃったのか?」
「……やかましい」
「オイラが悪いやつ、やっつけてやろうか?」
「…………」
優月は再び顔を伏せ、豪はただ一方的にませた男語録を垂れ流していた。
「でもオイラは男なんだ、幽霊でも妖怪でも偉そうでも泣いてる女をほっとくわけにいかねえよ」
「……子供に何が出来る」
「へへ、偉そう姉ちゃんの泣くとこなんて見たくねえしな」
豪がやってきた理由は、たったのそれだけだった。
この子供が華武吹町の無頼漢として伝説になるというのも頷ける。
「オイラ、鳴滝豪! 泣き虫偉そう姉ちゃんの名前は?」
「ふん……優月。優劣の優に、年月の月だ」
「優しい月、だな!」
それからだった。
その後も、豪は次第に寒くなる牢に足を運ぶ。
優月は曼荼羅を刻まれるためか時折連れ出されて青い顔をして帰ってくる。
背中の痛みに耐えかねて泣き女の幽霊になる。
「へへ、寺の木からとってきてやったぜ! 甘くてうまいぞ!」
一週間もしないある日のこと。
頭上から転がってきた果実を慌てて受け止める優月に豪は言葉を被せた。
「このごろ物騒なんだ。源ちゃんもみっちゃんも家から出してもらえないんだって。それに大人が話してるの聞いちまった。優月はニエにされちゃうのか? その変なベルトのせいなのか?」
と、ベルトであろうこちらに視線を向けた。
「いや……きっと、私があまりにも土地の主として無能で横柄だったから……何も出来ないのに、誰かに助けを求めず偉そうな態度で誤魔化してきたから……お仕置きされているのだ」
「難しい言葉、よくわからないけど……ニエになったら優月死んじゃうのか?」
「私には何もわからない。もうひとつのベルトが完成すれば、ベルトが扱える人間が現れれば……兄はそういっているが……」
「じゃあオイラが――!」
「巻き込まれるな、これが私の役目で――いや、大人になったらな。大人になって……ベルトに適合するのなら……」
適合云々を度外視に八つから指折り数え、口を尖らせながら「じゃあ十年くらいか」と豪。
すきっ歯で笑った。
「十年経ったら迎えにくるから! 悪いやつら懲らしめてやるよ! そんでずーっと遠くまで、一緒に逃げよう!」
「……お前、何故」
「顔に書いてある。目のところに。助けてほしい、逃げたいって。優月、そんな顔すんな」
「……豪」
「絶望すんな。オイラが助けてやっから! 逃がしてやっから! そしたらオイラが性格悪くて偉そうでも優月をお嫁さんにしてやっから!」
「おッ、お嫁さん……! 馬鹿言え、そもそも私に自由な人生なんて……だいたいお前のような悪ガキ隙っ歯小僧など……」
「うーん、でももうちょっと可愛く喋ってくれたらなあ」
大して深い考えなんてないのだろう。
少年が聞きかじった愛と正義と慈悲なのだろう。
十年も待ってはいられない。
事実、この後すぐに彼女は贄にされる。
優月は言葉を詰まらせて、歯を食いしばり戸惑い、やっぱりちょっとツンケンした感じで――
「マセガキ、もう知らん!」
そんな感じで。
そんな感じで溢れる思いを誤魔化す際には口が悪くなって、しかし陰鬱を押し込めぎこちなく微笑んだ。
ちょっとだけ、希望を見ていた。
――暗転。
がさがさと揺れる窮屈な中。
「どっかで会った?」
俺の、鳴滝禅の声が聞こえた。
それから――。
「一緒に逃げよう」
ああ……。
そうか。
あの夜、俺はそう言ったんだ。
*
沙羅に借金を作ったにもかかわらず老舗和菓子屋の獅子屋に並んだのは、そんな夢を見せられてしまったから。
喋らなくなったベルトの意思を正確に汲み取ることが出来ないが、優月に対する老婆心がそうさせたのだろう。
華武吹町の女王から、贄への転落。
俺だって、あんなすっかすかの優月を見せられたら、何とかしなきゃって思うわけで。
残念ながら俺は、とりあえず女性には糖分を摂取させておこうと考えるくらいにかわいくて初心なのだけど。
子供相手じゃないんだし。
でも俺も特選いちご大福好きだし。
俺の好きなもの、知ってもらいたいし。
ってか、そういう気持ちって――。
「次の方、どうぞ」
行列に対してあまりにも小さな売店の売り子が手を上げる。
気が付けば俺の前に並んでいた観光客が紙袋いっぱいの大福を受け取っているところだった。
考えを零しながら小走りになる。