11. アイアンメイデン
目が覚めたのはゴールデンウィーク二日目の――昼だった。
昨日、正しくは本日の午前四時に眠りについたが、何度も起きて、最適解を探していた。
沙羅の長話は俺を新たな局面に突き落とした。
今日こそジジイにタッチダウン、デレた優月と甘い関係に……という俺の安っぽい計画は根元からばっきり折れてしまったのだ。
根元どころか、いまや当たり前になっていた優月と壁一枚隔てた生活さえ。
*
昨晩。
警戒心バリバリの優月は、まだ飲みすぎの影響があるのか、うずくまったまま俺と沙羅の間で話が進むのを聞くのが精一杯だった。
一方、沙羅はいつもの人を小馬鹿にする口調、さしてなんでもないことのように淡々と述べていた。
結果から言うと、一瞬たりともエロい空気にはならなかった。
「双樹コーポレーションは剣咲組から優月様を守りたいの」
「何で? 剣咲組が狙っているのは沙羅なんじゃないか?」
「うーん。順を追って話すと……先代の逝去によってアタマすげ変わりたてホヤホヤの剣咲組は他組織が邪魔なんだよ。本来であれば遊女組合やタクシー会社が、ヤクザに匹敵するなんて、ありえないじゃない」
当時は煩悩大迷災があって横並びだったかもしれないが、現在の吉原遊女組合や風祭タクシー、三瀬川病院には権力はあるものの武力行使されたらひとたまりもない。
かろうじて財閥である双樹コーポレーションは金の力をもってして水面下では剣咲組に睨みを利かせているという構図だ。
「その上、決定打であるベルトは曼荼羅条約外の手に渡り、武力まで危ぶまれてる」
それが、俺……か。
「新しい剣咲組は早いとこ、他組織やベルト所有者相手に武力行使に出たい。であれば曼荼羅条約――まずは華武吹曼荼羅の存在を無きものにしなきゃ体裁が悪い」
「つまり、優月さんを……」
優月は眉をしかめると自らの胴に腕を巻きつける。
「でも剣咲組はまだ華武吹曼荼羅のありかに気がついてない。だから何かを知っていそうな沙羅のことを狙ってたんだよん。ま、私が返り討ちにしちゃったってのもあんだけどね」
つまり。
剣咲組は、沙羅をとっちめて痛い目見せた後、華武吹曼荼羅のありかを吐かせる。
そして華武吹曼荼羅そのものである優月を始末。
不穏分子であるベルトネコババ野郎を片付け、他の組織を黙らせた後、晴れて華武吹町を自分たちのシマとする……ってところだろう。
「禅ちゃんを轢いたのも、ベルト所有者の力を見せてもらいたかったのよ。万が一大怪我して入院してくれちゃったほうが、優月さまを攫いやすくて沙羅的には良かったんだけど」
なんちゅうことするんだ。
俺が顔をしかめると沙羅は厚ぼったい唇の両端を、不自然に吊り上げた。
「沙羅は目的のためならなんでもする強い女になったのよ。禅ちゃんのおかげでね」
「……そうかよ」
「曼荼羅条約維持のため、武力対抗できる双樹コーポレーションが華武吹曼荼羅をお守りするってこと」
話は俺ですら理解が出来るものだった。
剣咲組にとって曼荼羅条約が邪魔。
その象徴である華武吹曼荼羅――つまり優月を消したい。
双樹コーポレーションは条約維持が目的で優月を保護する。
では、沙羅は信用できるのか?
計画のために俺をバイクで轢くような、この冷酷な女ボスを。
作り笑いばっかりの、鋼の女を。
「お話は以上。あとは囚われの身を納得の上、ウチの車に乗ってもらうだけなんだけどな」
「囚われ……?」
「そっ。自由の無い囚われのお姫様ってこと。こことはサヨナラだね」
そんな沙羅に対する俺の疑いを、胸の奥が焦げるような気持ちが上書きした。
言葉の意味と事実を受け入れるのに時間がかかって何度か口を開閉させる。
「は……そんな――きゅ、急に囚われの身とか言われても困るよな、優月さん!」
アドリブにしては上出来な誘導尋問だったが、優月は無反応だった。
ただ足元一点を見つめて下唇を噛み、思い詰めていた。
今まで通りでいいじゃん。
せっかくこの生活にも慣れてきたんだしさ。
お断りしようよ。
俺がそんな軽口を喉に詰まらせるくらい、真剣な表情で。
「俺が……守るから」
やっと出てきた俺の言葉に、「守れてないから今ここに沙羅がいんの」と高慢に鼻を一つ鳴らす沙羅。
革張りのバッグを乱暴に漁ると一センチほどの厚みをもった紙の束を俺のほうへと放る。
変わった形のメモ帳……ではなく。
「前金一割の百万円」
「まえ、きん?」
ひゃくまんえん。
価値にして――約百万円、それ以上は思い浮かばない。
とにかく、これは金だ。
一割ってことは……一千万円。
沙羅のヤツ、優月を売れっていうのか。
やってることが完全に悪党じゃないか。
いいや、俺が知っている沙羅はこんな悪党みたいなことする女じゃなかったのに。
やっぱり俺のせいで、こんな風になっちゃったっていうのか?
目前の束の存在感に思考がじゃりじゃりと踏みつけられて、俺の声は自然と大きくなっていた。
「おい! いくら貧乏してる俺でもこんな悪趣味な取引は――!」
「どうかなあ――優月様。一千万くらいあれば、しばらく禅ちゃんを支えることが出来る。少なくとももう少しいい生活できるし、ズボンだって買えちゃうよん、ふふ」
「……は」
力なく声を漏らす。
人質にとられているのは俺のほうで、選択を迫られたのは優月。
俺が想像している以上に悪趣味な取引だった。
囚われの身。
どこかに閉じ込められる。
この部屋から、望粋荘から、俺の隣からいなくなっちゃう。
そんなのいきなり言われて受け入れるわけ――。
「わかった。言うとおりにする。それで何もかも丸く収まるのなら」
――。
いくらなんでも。
そんな素直に、受け入れるとは思わなかった。
「優月さん、そんな簡単に受け入れちゃダメだ!」
「パンツ一枚で何を言ってるんだ」
「優月さんッ! 俺、あんたの事情、何もわかってないけどそんなの納得するはずが無いだろ!」
「何もわからないままでいい」
「おい、優月ッ!」
「いいからその金でズボンくらい買え、ばか」
一ヶ月前と同じ、とげとげしい言葉。
何で……。
何でそんないつも通りに言えるんだ。
俺は愕然として呼吸するのが精一杯になっていた。
ただ優月の唇の動きをひりついた目で見つめる。
「……その代わり一つだけわがままを言わせて欲しい」
切り替えした優月の言葉に、俺は逆転の希望があるのではないかと縋るように期待を抱いていた。
優月はどうしてか俺に同じような視線を向けた。
彼女の申し出は俺の考えとは正反対だった。
「鳴滝豪に、会わせてくれ」
今それかよ……。
最っ低……。
*
「禅ちゃん」
眠れぬまま朝がきて、力尽きるように眠りに落ち、昼に目覚めた。
目の周りがしばしばと痛む。
悪夢とかじゃないのか。
俺の枕元で胡坐をかいて左右にフラフラと暢気に揺れながら沙羅は俺が起き上がるのを待っていた。
そして俺の心象なんてお見通しのはずなのに、軽い調子でずばずば聞いてくる。
「豪さんって亡くなってたんじゃなかったっけ? ゆづきち知らないっぽいけど。どうすんの?」
優月の願いに、俺はいつもの生返事をしただけだった。
もちろん、まだ事実を言えていない。
「禅ちゃんとゆづきちがくっついてなくって良かったなあ。沙羅にもまだチャンスがあるってことだあ」
嘘つき沙羅の戯言には何も返せず、俺は起き上がり窓辺に干していた一張羅の乾き具合を確認した。
しっかりと乾いて、外出しない言い訳にならない。
学ランに袖を通すと、胸ポケットに不愉快な札束の感触があった。
「入れといたよん。禅ちゃんの部屋、あの変態も出入りしているみたいだしさ」
あの変態――アキラか。
確かに「地獄のサタデーナイトも金次第」とか現金なことを抜かしていた。やりかねない。
俺は黙って襟元を正した。
答える言葉がなかった。
「禅ちゃん、あの時と同じ顔してる。マジウケる」
あの時。
あの時……な。
そりゃ、同じ気持ちだから、同じ顔もするよ。
俺は沙羅の幸せを願って……沙羅を変えなきゃ、止めなきゃって、必死で土下座した。
節操が無いからって、嫌いになったわけじゃなかった。
悲しかったけれど。
迷っていたけど。
大事だから、我慢した。
そのせいで沙羅はこんな悪者みたいなことできるようになっちゃったのか?
西日が照らす冷酷な鋼の女は、唇の両端を無理に吊り上げていた。