01. おはようパンジステーク!
そして来るゴールデンウィークの朝。
何かを予感させるように沙羅の夢を、見た。
自分の意識が、自分という肉の檻に無理やり詰め込まれるような……ごわついて、ぎこちない覚醒。
軋む身体の感覚を確かめて「ああ、これ俺か」と致し方なく起きようと目を開く。
と同時に、ピタリと頬に冷たい感触が落ちた。
……雨漏り?
「ひゅー……ひゅー……」
「は……」
まず、身体が冷えていく感じ。
五感は異常事態を即座に認識していたようだが、俺の思考は状況を受け止めきれていなかった。
望粋荘の薄暗い六畳一間。
部屋の天井と、薄い布団で横になっていた俺の間には……海老反り状態で吊り下げられた倫理感崩壊美形アキラ・アイゼン。
目隠しをされながら汚い十円玉二枚を晒し、苦しげに呼吸を重ねている。
それから、えっと……。
そしてまた、轡のピンポンから一滴、俺の頬に落ちた。
「ぬおわああぁぁッ! 汚ねぇッ!」
夢か現かはっきりしないまま――どちらにしたって!――その場から跳ね、あっという間に、壁沿いにッ、避難ッ、したはいいが、一体ッ!?
「ふん! ほふへふっていはは!」
「おおおおまお前ッ! 人の部屋で何やってんだよ! もう気色悪いを通り越して恐ろしいわ!」
アキラの身体に巻きついているロープやベルトは本格的な金具があれこれとついていたし、視線でそれをたどれば部屋の天井に見覚えの無い金具がいくつか打ち込まれている。
いつの間に……。
というか、ここ賃貸なんだけど。
「ひっそん、ひんほっしぼーッ!」
よく知った空間のちょうど中央にぶら下がった奇怪な蛹が奇声を上げている。
ちょっと待って。
状況を整理させてくれ。
それが何者であるのか一応は理解している。
今のところ、大きな害があるものではない。
同時に、心臓はばくばくと鼓動が跳ね上がっているのを手のひらで感じるほどに……俺は驚き、怯え、慄いている。
頬についた汚ねぇソレをTシャツの裾で拭いつつ、俺は何か戯言を言ってがちゃがちゃと悶えている蛹――アキラの轡と目隠しを外す。
人語を喋ってくれたほうがまだいくばくかマシなはずだ。
腹が立つことに、アキラはやはり……言葉尻だけは爽やかだった。
「ぅはッ……禅、良く眠っていたな!」
「どの口が何言ってんだよ」
こうも乱暴……を通り越してエキセントリックな起床を体験した身としては、次の睡眠の安寧が既に危ぶまれているのだが。
往復した深呼吸の末、頭も心臓も落ち着きを取り戻し、アキラが何かに乗っ取られたクリーチャーでもないとわかると俺は文字通り胸を撫で下ろす。いや、もともと行動面では理解を超えているのだけれど。
「一人でどうやってこの状態になったんだよ……つか、どうやって入ってきたんだよ!」
「随眠――それは未だ煩悩に至らぬ種を言う」
俺の問いをブッちぎりに無視したアキラはそのままの姿勢で話をゴリ押すつもりらしい。
どうせわかってなくても話が進むし……じゃあ、いいや。
枕元の携帯電話でいつもの起床時間と知り、ぶら下がったままのアキラが垂れ流す説法をBGMにしながら俺は出支度を整えていた。
今日の予定。
まずは病院に行って怪我の治療、及びナース鑑賞。
それから公園。煩悩大迷災について知っていそうなホームレスの爺さんがいると聞いたので、会いに行く。
あとはスーパーの安売りタイムで、せめて違う味のカップラーメンにありつければラッキーだけど。
と、俺が時計を見ながら時間の計算をしている間もアキラはつらつら説法を続けていた。
「随眠は煩悩にして煩悩にあらず。その眠りし煩悩、それを人はこう呼ぶのだ――迷い、と!」
「はいはい。解脱解脱」
祝日だというのに俺は一張羅の学ランに袖を通す。
さて、あとはぶら下がっているこの倫理的汚穢をどうしたもんか。
あーあ、賃貸なのに天井に穴あけやがって。
「時に禅。ここのところ、また黒服の連中が華武吹町をうろついているのには気がついていたか?」
「黒服……?」
「あの日、ウロウロとしていた連中だ。昨晩見たぞ、望粋荘でな」
あの日。
俺が優月と出会った日。
優月を追っていた黒服たち。
あいつらが――。
「望粋荘で……!?」
窓から外を見やるが、いつもの安閑とした風景が広がっていた。
「昨晩のことだ。僕がバイトから上がって、エーカダシャムカのチンターマニを君に装着しようと思いたち、君の部屋に忍び込んで、天井に穴をあけて設備を整え、服を脱いだあたりだったから……深夜三時過ぎだろう」
どうして他人を告発しながら、自らの不審者&変態行為をさも当然のように語れるのか、俺にはわからなかった。
アキラは何を勘違いしているのかシリアスに頷き、続ける。
「黒服連中を従えた女がやってきて、この周囲でこそこそと動き回っていたのだ。盗撮用カメラを設置していたがほとぼりが冷めた後、全部取り外させてもらった」
「盗撮用カメラ……? アキラ、やるじゃねえか!」
「当然だ! ついでにこの部屋に設置させてもらった」
「……はい?」
「連中は十数台ものカメラを使って、僕が君の上で悶えているのを、五時間ほど意味も無く観察させられていたというわけだ! まったく愉快だなあ!」
「五時間」
「ははははははははははは!」
前回終わったはずの敵キャラの真似をして、アキラは金具を揺らしながら楽しそうにしていた。
「つまり真の悟り、解脱とは――!」
しかもそこに繋がるのか、今の話。
「――《解》けんし、《脱》せぬと書く! 性欲や怒りを押さえ込むほどの強い迷いがあるなら、一旦保留! しがらみも解けぬし、脱せぬでいい! 縛られたままでも良いのだ、禅。解かり脱ぐ時を見定めるために迷ってよいのだッ!」
「脱ぐ時を見定めろって……お前が言うなよ。つか早くソレ解けよ、一人でその状態になったんだから、解くのも出来んだろ」
「見られていると……緊張してしまう、恥ずかしい」
「だから、どの口が言うんだよ」
否定形まで持ち出してきやがって、だんだん支離滅裂になってきたな。
俺が疑いと呆れに複雑な表情を刻んだ、その時だ。
「黙れ、クズ!」
え、ごめんなさい。
反射的に口の中で呟いてしまったがどうやら俺に対する罵倒ではないようだ。
声の反響からして、望粋荘の玄関口のあたりだろうか。
「うるせえな、ブス!」
小学生みたいな罵り言葉が重なる。
優月と――一○一号室、剣咲組のヤクザ氷川さんだ。
氷川さんはまだ優月が煩悩ベルトを持って逃げていた張本人だと知らないようで、だからこそこの有様である。
二階廊下から窺うと、階段下ではいつかと同じように険悪ムード、犬と猿、龍と虎、ハブとマングースが如く睨み合っている。
ヤクザVSアパート管理人の女性。
本当は止めるべきなんだろうけれど、今の俺には入り込みづらい事情がある。
しかも原因は大抵、優月の世間知らずが氷川さんを襲っているという具合なので彼女のフォローのしようがない。
今回も氷川さんの方が若干お疲れモード、何故か全体的に茶色っぽい――土塗れだ。
ひとまず血塗れじゃなくて良かった。
……と、俺が優月ではなく氷川さんを心配するくらいなのである。
「おい、俺を殺す気かオラァ! 何だあの針山仕込んだ落とし穴は! ベトナムコンバットか、おめーは!」
「防犯装置だ、お前らが家賃を払わないからこの時代に合った設備が整えられないのだろう!」
「俺は一年分景気よく払ってんだろ! 払ってねぇのは禅のアホと珍宝のデブだろうが!」
わんわんぎゃんぎゃん。
いいなあ。
俺が優月にちょっかい出して痛い目を見るというのが朝の恒例行事だったはず。
なのに、いまや優月と氷川さんのギスギスとした罵り合いに成り代わっている。
氷川さんに同情する一方、役目を取られたようで悔しい……。
とはいえ。
お察しだろうが、言うまでもなく俺がその間に割って入って「俺の女に何をする」的なかっこいいことを述べるわけもなかった。
ついでなので、陽子とのチッスでフラグが大爆散した優月との距離感も述べておく。
平たく言えば、ギクシャクを通り越して……この距離感の生活にもかかわらず会釈をするだけの仲。
完全に他人の距離感といったところだ。
当然、ベルトだ煩悩大迷災だ曼荼羅だなんてストレートに聞ける雰囲気ではない。
「ここ見ろ、シャツに穴あいたじゃねえか! 弁償しやがれこのアマァ!」
「裏庭には無断で入るなと言ってあるはずだが? あのあたりにはどうも煙草の吸殻が多くてな!」
ここのところ毎朝のことなので、当初あれだけ二人の喧嘩に萎縮していた望粋荘の他住人たちも感覚が麻痺してきている。
その横を珍宝が何事もなく通り抜け階段を上がってくるし、天道さんは真横で悠々とポストの中身を確認していた。
朝の悶着という席を奪われた上に、異様なほど優月に冷たくされている俺に特別な言葉をかける者はない。
むしろ俺が女性に冷たい目で見られていることを、「やっぱりな、だと思った」とか「好きだろ、良かったね」くらいに考えているのだろう。
疎外感でいっぱいだ!
「次やらかしてみろ、間接全部逆方向にねじり曲げてやるからな……!」
「ああ、次は確実に仕留める……」
「んだと、このブスぁッ!」
優月と氷川さんは、どんどん白熱して楽しそうだった。
羨望の眼差しで見ているのは俺くらいで、本人たちはぎらぎらと敵対心を燃やしているのだけど。
「しかし何で優月は急にそんな落とし穴なんて……」
世間知らずな優月だ、誰かが吹き込んだのを鵜呑みにしたのだろう。
そう、逆に誰かが吹き込まなければ――。
「ああ、すまん。僕が黒服のことを優月殿に教えた。あとベトコンのブービー・トラップの作り方も」
「やっぱお前か」
――と、当然のようにアキラは隣に立っていたが俺は驚くことも諦めていた。
「ったく重要情報と余計なこと教えやがって」
ぼやいた俺に、切り替えしたアキラのトーンはいつになく真剣そのものだった。
「余計なことだといいな」
「ん……?」
「禅、お前が思っている以上に事が大きくなってきている。覚悟はしておけ」
アキラの表情はいつになく鋭く、言葉も重苦しい。
俺は冗談めかしたものを返すことが出来なかった。
ただ、公園の爺さんに会いに行けば全てがうまくいく、そんな楽観めいた希望ばかりが頭の中を占めていたから。





