エピローグ 偽らざるもの咲き誇る
軋むし、血だらけだし、埃まみれだし。
「禅兄、大丈夫?」
「だいじょばない」
そんな状態の身体を引きずって、望粋荘までの住宅街を歩く。
空はすっかり黒一色にネオンの光が染み出していた。夕食時なんてとっくに過ぎていた。腹は減っているけど。
陽子は電話口でばっちゃにこってり絞られあくせくしていたが、俺の名前を出した途端に猛攻は止んだようだ。
吉宗……くんは、やはり偽告白のあたりから記憶が曖昧だという。
何がなんだかわからないという困惑の下、なんと男子制服も持ち歩いているということで、それを着ていそいそと帰っていってしまった。
こちらも家が厳しいらしく、性の問題には寛容ながら、ならばそれなりの時間に帰って来いと陽子以上に絞られていた様子だった。
帰り際に吉宗に囁かれた「もう一度、ちゃんと仲良くなれるように本当のお手紙書きます……」という言葉。
俺はその話には「あくまでもお友達からお友達までで」というステータスでお願いしたい。
「にしても、すっげ~なあ、あんな化け物やっつけられるのか~! かっこいいなあ!」
「だといいんだけどな……」
「禅兄は、アタシや吉宗、あと津留岡のために怒ってくれたんじゃん。それってかっこよくない?」
そんな綺麗な言葉で括られると自分でも眉間にシワを作ってしまう。
多分それは、勘違いだ。
人の為じゃなくて、俺は自分の為に怒ってたんだから。
俺は今も、怒りという感情と向き合うのは得意じゃない。
でも……。
――怒っていい。宣戦布告だ。ばか。
そんな物騒で大きな許しをもらったから、向き合えた。
またしても、加減が利いていなかったわけだけど。
「あ……そんじゃあ、学校で暴れてた覗き宣告の変態も禅兄ってことか!」
「…………はっ」
「そっか……」
ああああああああ! 忘れてた! 俺、一回学校でやらかしてたんだ!
ドン引きポイント、こっちかーい!
「陽子、これな! そういう変身ベルトなんだよ……! 俺だって別に好きで露呈しているわけじゃないんだよ!」
投げやりになっていた俺に、陽子は「ははっうっそー! 禅兄らしいよな!」と目を輝かせた。
でも「らしい」ってなんなんだ。
「茶化したりしないのか……?」
「しない! 禅兄の言ってたとおり、人が覚悟して背負った秘密を笑ったりしたくないもん。アタシだって笑われたくない。あー、津留岡には……謝らなきゃなあ」
あれだけあって津留岡に謝ろうと思える陽子。
本当に素直に育ったものだ。
華武吹町の住人とは思えない。
俺がじっと見つめて感激していると、陽子はその視線を疑われていてると思ったのか顔の前で大げさに両手を振った。
「あ、そうだ! 言わないから! 禅兄が変態ヒーローだって」
「変身ヒーロー」
「変身ヒーローだって。ちゃんと秘密に出来るから安心してよ! あ、もしかして二人だけの秘密ってやつ?」
甘美なヒビキであったが、残念ながらそうではない。
アキラ、暗黙の了解はありつつも優月、全く興味が無さそうだがシャンバラのママ。それから……俺の予想だと風祭さん。
俺が指折り数えているうちに陽子は「えー! そんなにいるの!?」とわかりやすく肩を落とした。
とはいえ、剣咲組や優月を追っていた黒服がまだ煩悩ベルトを諦めているとは思えない。
俺は顔の前で人差し指を立てた。
「絶対に秘密にしておいてくれよ」
「する!」
陽子も真似て人差し指を立てると、上機嫌に笑う。
俺自身、華武吹町の闇、怒りの感情と関わりあいたくなくて、へらへらとした鳴滝禅を装っている節がある。
でも、陽子は取り繕っているんじゃない。
「何?」
――華武吹町でそんな風に笑えるお前は、少なくとも俺にとって特別なんだ。
「何でもない」
望粋荘の光が見えてきて、俺は胸に秘密を増やした。
とぼけるように視線を空に投げる。
雲は朧げに光る。
今日も見えない。
「あ、そっか……梵能寺はこの先か。送ってくよ。ブッターさんパンツのお子様には夜が遅いしな」
望粋荘の前を通り過ぎようとした俺だったが、陽子の方が足を止めた。
「ううん、いい。禅兄、怪我してるし」
「俺入りの弁当でも食うつもりか?」
「んー……ううん」
珍しくうつむいて余所余所しい返事になった陽子。
ははーん。
さてはトイレだな。
そんなのはっきり言って借りていけばいいのに。
俺はうつむいた彼女の表情を覗きこんで茶化した。
「トイレ我慢してんのかよ。陽子は子供だなあ。やーい、うんこマ――」
激突していた。
俺は瞬間的に、報復措置だと思った。
唇に唇が押し当てられることを。
彼女に似合わない、仏殿の楚々とした香り。
「違うよ。今から、大人マン」
あれだけ鮮やかに表情をころころ変えてきた陽子の頬に光る涙を見て、俺は戸惑い言葉を失う。
それから、見た事もない蠱惑的な上目遣いに思考は止まった。
血液の流れさえ彼女に掌握されたような、奪われたという感覚だけが身体に残っていた。
俺は、ワンパンで全て融かされていたんだ。
じゃあ、と陽子がいつもの調子を取り戻して頬を濡らしたまま「にひひ」と笑う。
「引き続き、彼氏として……よろしくっ!」
陽子はそういい残して、街頭の続く道へ走っていった。
あれは。
報復措置ではない。
チィーッスだ。
あんなに可愛くて、素直で、いつもにこにことしている陽子が……。
陽子の方から。
…………。
何だこれ。
青春じゃん。
超モテてるじゃん!
その上、優月と陽子は生活圏が違う。
俺はギリギリをキープすることによって、人懐っこくて可愛い陽子との学園生活と、ちょっとツンケンしているけれど心を開いてきてくれた優月とのアバンチュールな関係を同時に味わうことが出来る……!
俺が、ヒーローになって望んでいたのはこういうの!
こういうのだったんだ!
「にひひ」
俺は陽子の笑い方を真似て、つま先を望粋荘に向ける。
その途端、俺は甘やかに融かされた気持ちが、一瞬にして消し炭にされるような寒気を覚えた。
木造建築の穏やかな明かりを背負っていた彼女の目は、真っ赤に腫れている。
「ゆ"――ッ!」
「……最低」
もしかして……。
チィーッスを見ていたのでは。
むしろ俺の両方いけるかもしれないといった考えなど見透かしているのでは。
彼女は、まるでゴキブリの群れでも見るような嫌悪の目つきで俺を睨み、当然と言わんばかりに呟いて身を翻した。
「喋るゴミの回収日までそこに居ろ」
*
鳴滝禅が去っていったのを確認して、ちょろまかしたランタンを灯す。
上階段の踊り場、様々なスパイスの匂いだけが無残に上がる岡持ち、その横に腰掛けていたアキラは呟いた。
「少々、スパルタだったかな」
階段の手すりに背を預けていた男は静かに竹刀の先を足元に下ろす。
「むしろ甘やかしすぎだ。あの程度の雑魚に手こずっているようでは……」
「ほう……嫉妬? 帰ったら僕がお手製オムライスを作るからそんな顔するな」
「肩透かしを食らって呆れているくらいだ」
「君を連れてきたのは観音相手の為ではない。むしろ禅が心のパンツを脱げずに……暴走した場合。止められるのは、君だけだからだ」
「その可能性が高いと、お前は考えていた」
「杞憂だったけどね」
鳴滝禅――ボンノウガーの怒りの漏。
その凄まじさもさることながら、あれだけの怒りと向き合い制御がつくという精神面の強さは意外だった。
自らが弱く汚れているからこそ、他者のそれもまた受け入れる。
そして他者もまた彼の弱さと汚れを受け入れる。
「あれはまるで……まさしく、鬼……まさしく、梵の――」
アキラは立ち上がり、その赤いジャージの上から彼の胸に人差し指を突きつけた。
「恐れているのか。君も十分、恐ろしいよ――正義」
「アキラ。そこは乳首だが何のつもりだ」
その指を竹刀がゆっくりと取り払う。
赤羽根の眼鏡の奥。感情が動いた様子は見えない。
「本当に、君って人はつれないね」
アキラの指は、赤羽根のベルトに着地した。
*
『だと思った』
なんで?
望粋荘の玄関扉を優月に締め切られた俺はどうにか説得してくれないかと二○三号室の住人、マスクド・珍宝に電話をかけた。
そもそも「だと思った」らしく、珍宝は自分の部屋の窓の鍵が開いていることを教えてくれた。
持つべきものは友である。
いや、友なのか? 心の底から俺を疑っているからこそ窓を開けていたのではないか?
……助かったのだからその点は置いておこう。
「職権乱用だよ……ったく、あの女。俺が警察呼んでもおかしくないっつーの。だいたいそんな心配なら電話でもかけてくれば――」
かけられないんだった。
「――心配しなきゃいいっつのに……」
心配してくれっていったのも俺だった。
「ったく、あいつは本当に……」
ぶつくさ言いながら塀から一階の屋根に飛び移り、珍宝の汚い部屋を経由して望粋荘の中へ。
優月は完全に俺を外に閉め出したつもりでもなかったのか、廊下の電灯はつけっぱなしにされていた。
俺は住居者(家賃滞納三ヶ月)であるにもかかわらず抜き足差し足で廊下を歩き、自分の部屋にたどり着く。
「……ん」
いつもの空間に入った瞬間に違和感を覚えて電気をつけた。
加齢臭――否、カレー臭。
ほぼ使ったことのない我が家の狭いキッチンには見覚えの無い花柄のホーロー鍋と大きなおにぎりが二個置かれていた。
臭いからして中身は明らかだが、鍋の中には一人分とは思えないカレーが入っている。
意外にもおにぎりはまだ暖かい。
「……勝手に部屋にまで入りやがって」
おにぎりの下には黄色のチラシ紙があり、裏面には内容に似合わない古風な達筆で「言い過ぎました。ごめんなさい。やっぱりお話することはありませんのでお幸せに」と書かれていた。
「敬語……」
胸が、ズドンと痛んだ。
彼女が使えなかった、そして最近無理して覚えた余所行きの敬語。
罵倒や無視、そこには嫌悪というマイナスの数値が存在した。
だが、恐らくこれは……無だ。
優月の、俺に対する好感度は今まで入ったことのない領域に達した。
震える溜息一つ。
万年床に座って俺は考えた。
もういっそ、陽子に転がるか?
間違いない、俺を慕ってくれている。
もったいないくらいの美人、明るくていつもにこにこしている。美脚で健康的。俺だって気が楽だ。
その上、彼女の親代わりであるばっちゃは、むしろ俺と陽子をくっつけようとしている。
セパレートコース、至れり尽くせり。
…………。
「って、簡単になるかっつーの……」
お前は話すことが無くても、俺はお話すること山ほどある。
少なくとも、十一面観音エーカダシャムカは、優月が不器用に甘やかしてくれなかったら……ヤバかった。
だから、せめて礼を言いに……いくぞ!
怒りの感情のハードルが下がった俺だ、今までの暴言の分、全部仕返しさせてもらう!
俺はしつこいからな、優月! 一晩でも二晩でも説教説法せっ――と、その前に。
俺はもう一度深く深呼吸して、覗き穴に向かい合うことにした。
突撃するにしろ、ちょっと偵察してから作戦を練ったほうがいいだろう。
常夜灯の控えめなオレンジ色の中。
鏡台の正面に座った優月は身体にバスタオルを巻いて軽く髪を肩口に流している。
残念だが鏡の中は見えない。
俺は背中だけでもと、食い入るようにその光景を見つめていた。
優月はしっとりと、でも揺れる声で呟く。
「禅……話さないで良かった……背負わせないで、良かった……」
さらりとバスタオルが落ちて、白く細い背中が露わになり――俺は奮起した煩悩の全てが一瞬にして小波の如く引いて去っていくのを感じた。
白い肌。
極彩色。
精緻な、曼荼羅。
中央の仏様を囲って六体の仏様が描かれている。
俺は、その図を知っていた。
色彩は知らなかった。
誰も知る由も無い、それは。
「――」
叫びたい気持ちを全て手のひらで受け止めながら、俺は覗き穴から離れ、怯えるように布団に伏す。
優月の背中から臀部にかけて――その小さなキャンパスには、五十年前の災厄に終止符を打った華武吹曼荼羅が、あまりにも豪華絢爛に、毒々しく咲いていた。
混乱の中、目に焼きついた仏の姿がぐるぐると頭の中を巡り続ける。
俺はその図に、異様な不快感と絶望を抱いていた。
梵能寺で見た曼荼羅には、全くと言っていいほど何も感じなかった。
だが、優月の背中に咲いたそれは、一目見た瞬間に学の無い俺ですら……気味が悪い、見ていられないと、はっきり嫌悪を抱くほど禍々しい印象だった。
あれだけ立派な刺青。
誰も知らないはずの色彩。
五十年前の災厄。
ヤクザが追っている。
異様な威圧感を放つ曼荼羅。
満ちては欠ける、謎の女。
…………。
――ヤバい。
あの曼荼羅には関わってはいけない。
飽和する思考の中、本能が訴えるサインの意味。それだけはわかった。
「優月……」
怯える気持ちに抵抗しようと――ご自慢のエロ煩悩をイグニッションさせようとその名を口にするが、同時に網膜に焼きついた忌まわしい極彩色が甦る。
「優月……ごめん」
溜まらず、震える指でティッシュの箱を定位置に戻した。
<第二話「飾りじゃないのよ煩悩は」・終> To be Continued!





