15. 月と太陽の浮気御膳
すっきりとした目覚めだった。
カーテンの隙間から差し込む柔らかな光。
すずめたちの声。
植物の萌える匂いが入り込んでいる。
春だ。
春が来ている。
俺にも、春が来た。
一般常識なので服を着て、共同洗面台の前に立ちヘアスタイルを整えていると玄関先から珍宝と優月の声が聞こえてきた。
「氷川さんも居ないし、天道さんも夜は公園行っちゃうし、俺は今日から遠征っすから」
「遠征。戦場に往くのか……? 生きて戻れよ!」
「いえ……プロレスの試合っす、死なないっす。とにかく、今晩は二人っきりになっちゃうんで禅くんには気をつけてください。絶対鍵かけてください。警察は一一〇番っすよ。みんなの電話番号持ってますよね?」
「番号……ああ、数字が書いてあるやつ。大家からもらった」
「怪しいなと思ったら天道さんか俺にかけてくださいね! あいつ、マジでやりかねないっすから!」
おい。
やりかねないってどういう意味だ。
思ったが口にせず、俺は大人しく珍宝の退場を待った。
優月は「かける……? ん? ああ、わかった」と明らかに電話のかけ方をわかってない返事をして珍宝を見送り、そして階段を上がってくる。
俺を見るなり、彼女の身体が小さく跳ねた。
「禅……もしかして、聞いていたのか」
「まーね」
「……そう、か」
優月の目が泳いで、視線は彼女自身のつま先に着地。
なんだかずいぶんとしおらしい。
「何時くらいに、帰ってくるんだ?」
「学校終わるの夕方だから十七時には……」
ははん。
その時間から優月も予定を作ろうとか、引きこもろうって算段だな。
……って、そんなに警戒することないだろ。俺だって分別はある! 多分!
少し寂しい気持ちに陥っていた俺に、優月の口から意外な言葉の配列が組まれた。
「……じゃあ、夕食……一緒に食べないか。私の部屋で。料理の本を読んで……ちょっとやってみたくなったし……その、話したいことが」
夕食のお誘い。
優月さんの部屋で?
誰もいない望粋荘。
晩に二人っきりで同じ部屋にいましょうってお誘い。
そんなの……。
それって……。
「…………」
「……忘れてくれ」
「い、いやっ! 一緒に食べよう! 壁一枚挟んでばらばらってのも味気ないし! すっげー楽しみ!」
「……うん」
出た。
キャラに似合わない「うん」という返事。
これは……デレている。俺の勘違いではない。
耳を赤く染めた優月は、顔を上げず視線を合わせないまま俺の横を通り抜けて自室の扉を閉めてしまう。
俺はというと……。
誰もいない廊下で、サイレントガッツポーズを盛大にぶちかましていた。
*
俺が教室に入るなり、空気がピリっと張り詰めた気がした。
誰もが一瞥くれるなり、余所余所しく背中を向ける。
おいおい、いくら「留年疫病神様が来た」つったって、その態度は無いだろう。
まさかウイルス性留年だなんて噂でも出回ってるの?
ま、どんなしょうもない話が流れていても今の俺の心には響かないけど。
本日のメインイベント、優月との夕食の後のお楽しみをどうするかで俺の頭の中は幸せいっぱいなんだ。
そのイベントの前に立ちふさがる十一面観音エーカダシャムカ。
ふと見た吉宗は変わらず教壇の前に座っており、微動だにしなかった。
体調は大丈夫だろうか。
いや体調も何も、チンターマニが埋め込まれたままだ。
このままじゃ戦えないし、また急に怪仏化する前に、多少無理してでもアキラのところに引っ張って穏便な方法がないか確認するのがいいだろう。
そのためには吉宗に、どうにかうまいこと事情を話して……。
「禅兄! おっはよー!」
本日も元気いっぱい爽やかな笑みと、素晴らしい脚部で陽子が突撃してくる。
俺の机に両手をついて着地するなり、彼女はバッグから巾着袋を取り出した。
「今日はしょうが焼き弁当! 明日はなんだって言ってたかな」
「あ、あ……! 陽子、悪いんだけど明日から弁当はもう……」
「気にするなって! 坊主の皆さんは精進料理だし、ばっちゃは一人分の肉入り弁当作るの億劫だから丁度いいって喜んでんだよ!」
「あ、でもっ……なあ……悪いし、なあ」
ばっちゃ、ごめん!
俺には優月という据え膳が……!
「口に、合わない……とか?」
「ち、違う違う! 美味いよ! めっちゃ美味い!」
「もう、禅兄はそうやって人の善意を素直に受け取れないから損しちゃうんだぜ! いいって言ってんだからいいんだよ! はい!」
「そ……そか、ありがとな」
まあ、豚さんもお肉になってしまっているわけだし……。
結局、俺は弁当を受け取ってしまった上にお断りしないまま昼休みを迎えて、しょうが焼き弁当に舌鼓を打つ。
しょうがとタレが染み込んだ豚肉は柔らかく、温かさのない弁当の白米がどんどん進んで……とにかく、陽子の前宣伝通りめっちゃうまかった。
しょうが焼き弁当と共にあっさりと罪悪感を飲み下した俺は、さあて、次はなんだろう! とさえ期待していのである。
*
授業内容は、悲しいことに去年も一昨年も受けたのでしっかり理解が及んでいた。
一方、陽子は真面目に授業を受けているにもかかわらず「全然わかんない!」とけらけら笑っているので、勉強面で留年が疑われる。明珠高校のレベルがわからんというのは……。
その核心を、留年二回の俺がズバリと口にするのは躊躇われた。
どうにかそれとなく陽子に危機的状況を伝えようと、陽子と雑談交じりに帰り支度しているところ、教室前方の吉宗を囲んだ女子グループから悲鳴が上がる。
何事かと顔を上げている間に、輪を抜けてショートカットの女子が近づいてきて、俺の机を叩いた。
「ねえ、鳴滝」
「はい?」
俺の机、毎日バンバン叩かれて可哀想だなあ……とか暢気なことを思っているうちに彼女は大声で昼ドラみたいな話をふっかけてきた。
「千草を襲ったってどういうことよ!」
「はー?」
「あんたが、千草を、襲ったって、どういうこと!?」
「どういうこと……?」
俺ってやっぱそういうやつなのかな?
そういうやつだっけ?
やりかねないのか?
脳内巻き戻しが行われる中、教室前の吉宗がゆっくりと振り返る。
その横顔は以前見た素朴そうな女の子のそれではない。
にやりと唇を吊り上げ犬歯を見せた。
吉宗千草――じゃ、ない。
十一面観音エーカダシャムカだ……。
吉宗の感情と記憶を引っ張り出して利用している?
そして吉宗の皮を被ったエーカダシャムカは、悲しみを誘うでもなく高慢とも思える見下した態度で言い放った。
「呼び出されて校舎裏に行ってみたら乱暴されて! 赤羽根先生に助けてもらったのよ」
「乱暴……!?」
もちろん俺が一番驚いていた。
観音のくせに、ずいぶん大胆な嘘をぶっこきやがった、と。
そんなこと赤羽根に訊けば、そして赤羽根が証言すれば事実無根だというのは誰だって納得するだろう。
曲がったことが大嫌いな赤羽根・ジャスティス・ジャスティスのことだ、嘘は言わない。
だが、そこに到達するまでに大きな壁があることも俺はすぐに察した。
わざわざ留年疫病神の俺の潔白を証明するためにあの恐ろしい赤羽根に訊くヤツなんていない。
「こんなクズと一緒の教室なんかにいられないわ!」
ショートカットの女子がさらに大声を重ねる。
教室内はざわついて、俺を嫌悪し敵視する目で溢れていた。
ちょっとまってくれ!
俺はたしかに聖人君子ではないかもしれない! クズかもしれない!
でも、クズにも方向性というものがあって、それを誤解されては困る!
「じゃあ俺が赤羽根に――」
バン!
今度は陽子の手のひらによって、俺の机が叩かれた。可哀想。
「んなわけねえだろ! 禅はアタシの彼氏なんだよ!」
ン!?
その設定、続いてたの!?
「禅は優しいんだ! 吉宗に暴力ふるったりするヤツじゃねえ! アタシが一番よく知ってる!」
…………。
観音に乗っ取られていたとはいえ、吉宗の後頭部をトゥーでどついた身としては心が痛い。
そしてこの後、またしても「彼氏とか言うのやっぱりイヤだった」なんていわれるのではないかと思うとそれも心が痛い。
陽子の泣き落としという苦肉の策で場の空気がざわつきながらも均衡したが、立ち上がった吉宗――エーカダシャムカに覆される。
「ブッターさんパンツのお子様が何を言っているの? そんな話、お子様にはまだ早いのよ。勘違いじゃない?」
もはや言葉に意味なんて無い。
エーカダシャムカの声色自体に影響力がある。
吉宗の口元が動き、真言を薄く唱えていた。
「オン マカ キャロニキャ ソワカ」
くすくすと笑うエーカダシャムカの声に同調して他生徒たちも肩を揺らし始め、一斉に大笑いを響かせた。
その声は恐らく人数分に加えて十一。
「うーがーっ! むかつくーっ!」
陰湿な笑い声の一方、陽子は頭をかきむしって手足をばたつかせる。
エーカダシャムカの言葉を裏付けるように、まさしくお子様が地団駄を踏んだ有様だった。
「陽子、そんなに気にするなって。赤羽根に訊けば一発で――」
「なんで禅兄は怒らないんだよ! もういい、アタシが疑いを晴らしてやる!」
言い終わる前に陽子はバッグを掴むと廊下に駆け出していく。
俺も立ち上がり彼女の後を追った。
「待て、陽子! 冷静になれって!」
と、かっこいい言い草を垂れながら、俺は教室の空気から逃げ出し陽子の後にノコノコとついて行った。
俺の高校生活、早速ドス黒く塗りつぶされちゃったけど、いったいどうなっちゃうの~!?