09. ばか
ひどい話だ。
いい大人が二人で勘違いだなんて。
二階廊下端、洗面台で根性焼きされにいった手のひらを冷やしていると、鏡に優月の姿が映った。
「……すまなかった」
抑え付けられた声色、無表情。
それから鏡越しに俺の表情を伺おうとしながら泳ぐ視線。
無感情ではない、むしろ押し殺しているようだ。
「いいっていいって。こういう役回りの星の下に生まれてるみたいだし。優月さんの綺麗な手に跡が残らなくて良かったです!」
「そんなもの、どうでもいい!」
「ええ……そんなものって、自分の身体じゃ――」
狭い洗面台の前、俺の横に強引に入ってきた優月は軟膏薬を洗面台に置き、冷やされていた手を掴みあげると……言葉を失っていた。
不自然な赤黒い点は、先ほどの一つだけでは無くいくつも並んでいるからだ。
それは手のひらだけではなく、薄っすらと手の甲にまで及んでいるのを俺はよく知っている。
まあそうですよね。引きますよね。
「こんなだしさ、こっちのが……どうでもいいっしょ! ねっ!」
俺は指を閉じた。
鳴滝豪の息子だから。
そういう跡は、目立たないなりにいくつかある。
いまさら、別に。
だというのに、優月は俺の閉じた指を無理やりに開いて拭うと軟膏を押し塗った。
――そっちのほうが痛い。
「私のせいだ、怒ってくれ」
「そんなことないって。勘違いじゃ仕方無いよ」
「仕方無くなんて――」
「仕方無い、それでいいじゃん。おしまい!」
「…………」
「ありがと、優月さん」
こんな空気、苦手だ。
逃げるように手を引っ込めたが、逃がしてはもらえなかった。
優月は一歩踏み出して俺の両脇に腕を差し込むと自分の身体に引き寄せる。
いつもの俺だったら「優月さんいい匂いイェーイ!」とか「おっぱい最高!」とか思っていたはずなのだが、優月の抱擁は力強く、その華奢な身体に逞しささえ覚えて、俺は呆然とするまま身を預けていた。
後頭部を掴み撫でる彼女の指に従って、白い首筋に頬を寄せる。
ちょっと、よく……わからない。
「何……してんの?」
「甘やかしている。この間、テレビドラマで見た」
「それにしたってさ……」
……ムードが無かった。
正直、俺はまた理不尽に投げられるのではないかとさえ思っていたのだ。
でも違う。
この人は、誰かを甘やかしたことなんて無い。
そして、誰かに甘やかされたことなんて無い。
不自然に回った腕、強すぎる抱擁から、それだけはわかった。
だからこそ優月の――欠けた部分が多すぎるこの女の不器用でド下手糞な甘やかしが俺には効いた。
俺より世間知らずで弱いくせに……。
「禅、どうして怒らないんだ」
黙っているのも気取りすぎ。
誤魔化すにしたってややこしい。
おセンチな気分に沈まないように、軽率すぎないように……努めて淡々と、思い当たる事情を口にする。
「俺のお袋、色々あって、喧嘩して、俺置いて出ていっちゃったんだ。俺が我慢しておけば違ってたかも。だから怒るの面倒くさいし……怖いんだ。たとえその人に怒ってなくてもさ、嫌われちゃうじゃん、そういう汚い気持ちを表に出したら」
他にも、路地裏に引きずり込まれて反論したら余計殴られたとか、警察駆け込んでも俺が悪いって話になって諦めたとか、怒ることって無駄だなって思い知らされる場面は沢山ある。
だけど俺にとっては、守ろうと思っていた人が俺の汚い部分を見て去っていく方がキツかった。
仕方無いと割り切って目をそらすのが精一杯だった。
「なら、お前は我慢し続けるのか?」
「するよ」
それから、こんな話すると引かれてしまうことも。
普通は。
「そうか。深入りしてすまなかった」
優月は事も無げに謝罪して「しかし」と逆接の接続詞を挟んで続ける。
「禅、安心して欲しい。お前の醜態はもう散々目の当たりにした。汚い気持ちだとか、今更だ」
身体を離して俺を見上げる彼女の視線に捕らわれる。
霧雨の日に見た縋る様な目はどこへやら、凛とした面持ちがそこにあった。
「そう……だな」
「私は今、悪口言ったぞ。宣戦布告と取っていい」
「物騒だな、安心はどこいったんだよ!」
言わされている気はしたが、いつもの空気に戻って優月は鼻を一つ鳴らすと腕を解いて身体を翻した。
「ばか」
「あっ……ただの暴言」
彼女なりに、俺を怒らせて吐き出させようとしているのだろう。
だったらこう……お部屋に入れてくれたり、そういうのが嬉しいんだけどな。言ったところで暴言か暴力かはたまたその両方がお見舞いされるのだろうけど。
俺は選択肢を失う形でしぶしぶ拳を振り上げた。すると優月はぎこちなく両手で頭を庇う。
互いに演じなれていない役に困惑し、同じような溜息を吐いた。
「すみません、出来ません」
「そうか……私は図書館に本を返しに行かなければいけないので、これで」
彼女はすぐ目の前の管理人室に入るなり、本がぎっしり詰め込まれたババくさい花柄のトートバッグを持って出てくる。
俺の中で取り決めた《謎の美女》という肩書きが泣く、生活感溢れる代物だった。
「いってらっしゃい」
「いってくる」
すでにいつもの調子に戻っており、優月はちらりと一瞥くれるなり髪をなびかせて軽快に階段を下りていく。
噛み合わないなあ。
もしかして、俺はまたタイミングを逃してしまったのだろうか。
考えていたところで階下から優月の声が上ってくる。
「あの……ちゃんと怒れる禅になってほしい……私は、お前がそういうの、言い易いように努力……する」
「はあ、そうですか。俺も優月さんのこと怒れるように努力します……」
何言ってんだ?
優月もそう思ったのか、首をかしげたまま望粋荘のドアが乱暴に開閉して出かけていってしまった。
俺たちはいったい何がしたかったんだ。
ゆっくりと、一連の流れを反芻する。
「心配、してくれてんだよなあ……」
多分。
俺は満ちては欠ける優月の性格を、未だに把握しきれていなかった。
*
その日の深夜一時を回ろうとしている時刻。
優月は新たに借りてきた本を自室のちゃぶ台に積み、その一つを広げて静かに項を捲っていた。
本の背表紙から見るに、種類はばらばら。とにかく世の中のことを知るべきと片っ端から目を通しているようだった。
俺が何故、プライベートタイムである優月の動向を追えるかというと。
優月が二○一の管理人室――つまり俺の隣に越してくると知ったその一時間後に俺は覗き穴の作成に着手していた。
壁のひび割れとシミに偽装した覗き穴は、管理人室の中央の卓袱台から窓際大鏡の前を網羅している。
これで、おはようからおやすみまでいつも暮らしを見守れる!
いろんな意味で生の優月お姉さんが楽しめる! えへへ!
――その喜びがぬか喜びであったと。
新たな戦いのゴングであったと、俺はすぐに知ることとなった。
大きな問題があったのだ。
生活サイクルのずれ。
優月のほうが遅寝早起き。
俺はいまだに生着替えを目撃できずにいた。
手塩にかけて作った覗き穴は当初、夢の世界への通路だと確信していたが、今では時間だけが吸い込まれていく。
さらに小一時間、優月は「密教曼荼羅特集」なる図鑑を見つめて全く眠る気配が無く、俺は明日の事もあり諦めて穴にフタをすると横になった。
十五日目にして、十五連敗である。
本当に手強い女だ。
しかし……。
「宣戦布告かあ……」
ずいぶん男らしい慰め方をしてくれたものだ。
もう少し可愛い言い方してくれれば、俺だって「ソレって愛の告白? きゃっほー!」なんて冗談めかして言えるのに。
優月のばか。