07. 偽りの華武吹曼荼羅-(2)
豪奢な黄金の細工が天井から垂れる仏殿内。
麗しく楚々とした香りが満ちていて……。
これだ。
陽子から漂っていた香りは。
「こっちこっち!」
子供のように腕を引っ張る彼女が選んだ香りでないと知って、俺はどこか安心した。
不器用ながら大人になろうとしている彼女には、少し不似合いだと思っていたからかもしれない。
俺は子供の純粋さを残しながら、大人の女性へ芽吹こうとしている陽子が羨ましい。
まだ続いているけれど、俺自身の高校三年生時代は苦痛の連続だったから。
「じゃじゃーん、これが華武吹曼荼羅!」
当然、俺の考えなど露知らず、陽子はとうとう仏殿中央まで引っ張るとようやく腕を解放してくれた。
曼荼羅って、アレだろ。
仏様とか観音様とかの絵だろ?
ついこの間、馬頭観音様を煩悩エロビームで吹っ飛ばした俺としては気まずさ満点の代物で、興味がないどころか見たくないというのが本音。
しかし陽子の期待に満ちた目、どうだ凄いだろうと訴えかける熱視線に負けて俺は顔をその奥へと向けた。
曼荼羅というのは色鮮やかな幾何学模様、またその中に仏様の姿が描かれているものを想像するだろう。
俺もそんなもんだと思っていた。
一目見て、俺が最初に感じたのは――何も感じなかった。
それはずっと奥、壁沿いにに飾られており翳っているのもあったが、目を凝らせば……間違いない。
華武吹曼荼羅は、白黒で、まったく味気のなく寂しいものだった。
一応、曼荼羅らしく中央の仏様を囲って六体の仏様が描かれている。
周囲には精緻な模様が書き込まれているようだが、なんせモノクロのため細部はよく見えなかった。
はっきり言って、第一印象は……地味、だった。
その周囲にぶら下げられた飾りの方がよほど煌びやかと思えるほどに。
知り合いの寺じゃなかったら鼻で笑い飛ばしていたところだ。
俺は胸を張る陽子に何と言ったらいいかわからず、要領を得ない言葉を選ぶ。
あんまり迫力がなくて、平坦で、盛り上がりがなくて……。
うーん、それを褒めるとき俺は何て言うだろうか。
「ずいぶんと……質素で慎ましやかな曼荼羅なんだな……」
「今、胸見て言ったろ!」
自分をかばうように腕を組んだ陽子。
見たとも! 見ましたとも! 参考にさせていただきましたとも!
歯を食いしばりながらも俺は「いや、だって……」と言い訳を開始するところだったが、陽子の方が気まずそうに俺の耳に手を当てて囁いた。
「これ……実は偽物なんだよ」
本物、じゃない。
そうか、なら迫力がなくてやたらと地味なのも頷ける。
そうかそうか。
ふーん。
華武吹町の巨大勢力たちが五十年前に契りを交わしたという権力の象徴、華武吹曼荼羅は偽物――
「――えっ!?」
「しーっ!!」
陽子は人差し指を立てて顔をぐしゃぐしゃに歪めた。
俺たちは周囲を見回し、他の参拝客の視線を気にしてひょこひょこと仏殿の隅に移動する。
「俺、今すっげーマズいこと聞いたよな!」
「だからナイショなんだよ!」
「何で俺に話しちゃったんだよ、お前ぇ……!」
「だって、明らかにおかしいって顔してたじゃん!」
「俺の口が堅いわけないだろ! 羽毛より軽いよ! ヘリウムより軽いよ!」
ヒソヒソ声で騒ぐ俺たちを、参拝客がバカ兄妹でも見るような視線で生暖かく見守っている。
俺と陽子ははっとなって愛想笑いを振りまき、小声で自分たちの話に戻った。
「じっちゃの話だとこれは本物を作るときの下書きで、そもそも本物はこの寺に持ち込まれたことなんて無いんだ。どこにあるか、存在しているのかすら、わかんないんだよ」
「大事なものなのに……? たった五十年前のものなのに……? なんで失くしちゃうの!」
「知らないって! ウチは別に曼荼羅条約じゃないん――」
「陽子、なにこそこそしてるんだい」
――ひっ!
焦燥に空回る陽子の声が大きくなりつつあったところ、しわがれた声が割って入った。
少し腰を曲げながらもしっかりとした足取りの老婆が立っている。
白髪と顔中のシワは多くなっているものの、俺の記憶にも残っていた。
数年前からばあさんは、ばあさんなので、印象はほぼ変わりない。
着物に割烹着を着た、陽子の《ばっちゃ》だ。
「おっ……ばっちゃ! いいところに来た!」
一瞬、逡巡と画策はあったが陽子は俺よりはうまく誤魔化しを吐いて、ばっちゃの背中に回りこみ俺を指す。
「禅兄! 覚えてる? クラス、一緒になったんだよ! だから今日一緒にメシを――」
「言葉が汚い」
「――昼食、食べようと思って連れてきちゃった!」
「汚い化粧して。あとスカートが長すぎる。いつになったら髪の毛の色も戻すんだかねえ」
「……はい」
「いくつになったんだい、陽子」
「……十七です」
「そういうのが大人なのかい?」
そのやりとりで陽子が、ロングスカートや派手な化粧という下手な背伸びしている理由がわかった。
ばっちゃは変わりなく、愛想がなくて、厳しいようだ。
……俺は小さい頃から、この遠まわしに精神攻撃を行ってくるババアが大の苦手だった。
*
庫裏――陽子たちが住んでいる家は寺の敷地内にあるからといって別段変わったことなどない。
食器棚とキッチンの間に四人がけのテーブルが置いてある、至って特筆するものの無い普通のリビングだった。
厳しいばっちゃ、そして陽子も黙々と食事をするので、俺も倣って栄養摂取に集中する。
白メシに焼き魚、根菜の煮付けに味噌汁。
当たり前すぎる和食の登場に、俺は内心愕然としていた。
三食カップラーメン(しかも全部同じ味)に到達していた俺は、空腹をやり過ごすための摂取を行っていたに過ぎない。
俺は、少なくとも一ヶ月ぶりに食事といえる行為をしたのだ。
その事実を突きつけられた後に、今後家に帰って再び三食カップラーメン(しかも全部同じ味)の生活にすんなり戻れるとは思えなかった。
食後。
食うもの食ったので……なんて立ち上がれずにいた俺に、ばっちゃは「ちょっと待ってな」と膝をさすりながらリビングを出る。
陽子と他愛ない話をする間もなく戻ってきたばっちゃは、俺の気なんて知らずに分厚いアルバムを持ち出してきた。
指先をぺろりとしながら、ゆっくりとページを捲っていく。
そこには赤ん坊の陽子からだんだんと成長していく彼女の遍歴がありありと残されていた。
陽子、じっちゃ、ばっちゃ、それから……。
俺は自分の身の上もあって、すぐに異常に気がついた。
両親が、いない。
そこまでは知っている。
最初からいないのだ。
おくるみに包まれた赤ん坊の頃から。
「あった」
ばっちゃが手を止める。
色褪せつつある写真の中には克明に当時の二人が残されている。
十年前の蝉爆弾事件当時、不貞腐れた俺と名前に冠る太陽のような笑顔を見せる陽子の姿があった。
陽子は女の子にしては大きいほうで、俺はチビだった。
だから陽子の服が俺に入るわけだし、パンツも入るわけだったし、ブッターさんの事も知っていたし、というわけだ。
今ではすっかり陽子は小柄で華奢な女性、俺はそれなりに長身の野郎と入れ替わってしまったけれど。
「禅、あんたこのときは女の子みたいだったのにこんなにデカくなっちまって。あと金糸猴みたいになっちまって」
例によって俺は携帯電話で金糸猴を検索する。
別名ゴールデンモンキー。
多分、髪の毛のことを言っているのだろう。
サルじゃねえか! ようするに悪口じゃねえか!
「男の子はわからんねえ」
ばっちゃが次のページを捲ったと同時にインターホンの音がする。
陽子が立ち上がって「販売店のほうだと思う。アタシいってくるよ!」と駆け足で出て行った。
…………。
かくてマインドアタック系のババアと二人きりとなる。
次に捲くられたページには、おそらく七歳の――七五三だろうか、赤い着物を窮屈そうに着ている陽子の姿があった。
「あの子は健気でいい子なんだけどね」
確かに。
元気いっぱいの子犬のようだし、どうも俺との身長差からか、つい手を頭の上に置きたくなる。
とっても、とってもいい子だ。
「でも大人の女になろうとしない。私らもいつまでも生きているわけじゃないから独り立ちして出ていってもらわないと困るのにね」
そんなこと言うなよ、とは思いつつばっちゃの心配もわからんでもない。
言い方はつっけんどんだが、ばっちゃは陽子を大事に思っているのだ。
さらにページが捲られる。
中学、高校の入学式と、写真の時間間隔が狭まっていた。
ばっちゃはそう言うが、陽子は成長するにつれて九条家以外にも居場所を見つけている、そんな風に俺は感じた。
いやあ、でもいいな。
アルバムなんて俺には無いし。
「禅、いつでもメシ食いにきな」
「えっ……いいんすか? マジで来ちゃいますよ!」
「陽子、嫁にもらうんだったらね。あの子はうちの子じゃないから」
「…………」
「あの子、まだブタのパンツ穿いてんだよ。わざわざ通販で探してまで。素直すぎる陽子には、畜生道知った苦労人がお似合いだよ」
またも指先をぺろりとしながら、ばっちゃはゆっくりとページを捲っていく。
最終的に、写真の入っていないページを、俺は長々と見せ付けられていた。
そこに入れる写真を俺に求められましても……。
ババアの精神攻撃がどんどんと俺の心を疲弊させていく。
陽子、早く助けてくれ……。