06. 偽りの華武吹曼荼羅-(1)
「なあ~、禅兄ごめんって~」
けだるい午後の日差しの住宅街、どこかの家から昼飯の匂いが漂っている。
学校からオフィス街、駅を抜けてまたオフィス街、それから住宅街を越えてようやく見える華武吹町四丁目。
望粋荘、それから陽子の住まいである梵能寺までの道のりだった。
陽子は俺の前を左右に振れながら後ろ歩きになっていた。
「アタシ、バカだからさあ、言い方気をつけられなくって。禅兄が嫌いなわけじゃないんだよ、本当だよ。う~ん、でも好きとかそういうんじゃなくって……アタシは恋愛とかまだ早いかなって思ってるんだよね。ばっちゃも厳しいしさ」
……好きじゃないんじゃん。
言っちゃってんじゃん!
なんだよ、ぬか喜びさせやがって!
赤羽根から運よく逃げ果せた後、陽子は俺のゲッソリとした顔を見て自分の発言に気がついたらしく、あれからずっとこの調子で目の前をちょろちょろとしている。
口を尖らせながらも心配そうに覗き込んでくる陽子の上目遣いは、スケバンの面影はなく、まるで小動物のようだ。
落胆はともかく、わしゃわしゃと撫でたい。
そんな衝動はあった。
確かに街行く人は陽子をちら見て、俺と比較、渋い顔をする。
だからこそ優越感があって俺は素知らぬ顔をしていたが、とうとう耐え切れなくなって陽子の頭にポンと手を乗せてかき混ぜた。
「わかったわかった、もう気にすんな」
「へへ、やめろよ! 髪ぼさぼさになっちゃうじゃん!」
そう言いながらにこにこと笑っている陽子。
可愛い……。
よーしよしよしよし。
「最近の女子高生ってのはみんな、やれ彼氏が欲しいだの、サマンタバドラの財布買ってもらっただの、男は車持ってないとダメとか、そういう話ばっかりしてるのかと思った」
「禅兄、同級生だろ? 若い女の子怖がるおっさんかよ! 少なくともアタシは彼氏とかブランドものなんて興味ないよ。確かにそういうコもいるけどさ」
「そういうもんか。子供なあ……じゃあまだブタさんパンツ穿いてんのか?」
一瞬空気が固まる。
単純に共通の話題を引っ張り出しただけのつもりだったが、陽子は七歳の子供ではなく十七歳の女性だ。
会話のうちに事実をすっかり忘れていた。
俺はスッと身構えた。
さあ、パンチか、キックか?
優月ならきっと裏拳だろう。
しかし陽子は怒るどころか顔を赤くして――
「穿いてないよっ! あとブタさんじゃなくて、ブッターさん! ありがたーいブタさんなんだぞ! こう手を合わせててさ、アルカイックスマイル!」
――と、薄い笑みを浮かべて陽子は昔から気に入っていたブッターさんなるキャラクターの説明を事細かにし始めた。
ほう。
そうきたか。
少々俺は肩透かしを食らった気分もあったが、それよりも穏やかな安寧に胸がざわつく。
この安心感、この安定感……。
俺は暴言に怯えなくていい。
俺は暴力に耐えなくていい。
舌打ちにも心を痛めることも、スベるって微妙な空気になることも、何も恐れなくていい。
どこかの誰かと違って雄大な心と器を誇る陽子。
数年間のブランクなど角砂糖のように溶け落ちていった。
妹、幼馴染属性……またの名を自由!
自由万歳!
「あ、そうだ。禅兄、これからウチこない? 一人暮らしじゃメシとか大変だろ? ウチで昼飯食おうぜ。ばっちゃも喜ぶからさ」
その上、気遣い満点、笑顔は百二十点。
二週間前の一件で財布事情が氷河期を迎えていた俺は、二つ返事で陽子の提案に乗ることにした。
なんだ、この可愛くて優しい天使は!
*
梵能寺。
正面の門を抜けると右手に鐘楼、左手に庫裏(住職やその家族が住むところらしい)、正面に仏殿を構えたシンプルなつくりだ。
裏手には木々が植えられており、今の季節は藤が見所だろう。
俺たちの時代とほとんど変わっていない。
境内には参拝客数人、子供のグループが二つ。
それから、いずれの輪からも離れた木陰に、黒いワンピースの女の子が何をするでもなく一人。俺はあの子みたいなタイプだった。
なんとなしに裏手に回りこむと、懐かしい木々が並んでいた。
どの木も登り方を覚えている。
今はそんなことしなくても結構な視線の高さになってしまったけれど。
件の藤棚も変わらずそこにあり――四月の今は花を垂らしている。天井と足元を染め上げた高貴な青紫色は、最初に目に付いていた。
俺は感嘆の声を漏らしながら藤の下に入り、それを見上げる。
「そういや、蝉爆弾のとき禅兄は何してたの? ずいぶん長いこと上向いてたけど」
「ずいぶん長いこと俺を狙ってたのか」
「UFOでも呼んでるのかなって、見張ってた」
なかな子供らしい発想だった。
「ほら、ここから見上げると光が透けてさ。星みたいだろ。だから月もあるんじゃねえかって思って、探してたんだよ」
「ええ?」
「子供の考えることなんだからいいだろ、別に。UFO呼んでたよりマシだよ」
「にひひ、確かにそうだね! 華武吹町じゃ見えないもんね」
陽子も同じように見上げる。藤の色と春の青空は見事に混ざって境界線が曖昧だ。
俺たちが口半開きにして見上げているとおばさん三人組が小声で「あらいやだ」なんて言いながら笑いつつ藤の鑑賞に入る。
俺も陽子も似たようなもので、苦笑いを返した。
「ったく、参っちゃうな。この時期は仏殿じゃなくてこっちに人が来ちゃうんだ。じっちゃは、こっちにも賽銭箱置こうだなんて言い出してんだよ。がめつくってイヤんなっちゃうよ」
そういえば、じっちゃの存在はあまり印象にない。
ちょっと気難しそうなジジイで坊主。いっつも葬祭にあっちこっち、というイメージだ。
がめついというのも頷ける。
――というか。
「仏殿って……何かあったっけ」
俺の素朴な、素朴すぎて失礼まで到達した疑問に陽子は口全開きにして驚愕する。
やってしまった……。
パンツの件と同じ。
寺の娘に、お前んち何も無いじゃん、と言ってしまったのだ。
「冗談よしてよ、華武吹曼荼羅だよ! 曼荼羅条約のときに作られた曼荼羅!」
「ふーん?」
パンツの時よりも呆れが強い。
いや、何度パンツを基準にするんだって話なんだけど。
「確かに、煩悩大迷災のときに明王様たちも盗まれちゃって他に何も無いっちゃないんだけど……でも華武吹曼荼羅は見にくる人いるよ! たまにだけどさ!」
華武吹曼荼羅か……。
正直、俺は全く興味がない。
だったらいっそ陽子の部屋を覗いたほうが楽しいかなー、なんて……。
顔面いっぱいに書いてあったはずだが――むしろ陽子は華武吹曼荼羅を見たせいか、俺の腕を両手で抱えて強引に引っ張り始めた。