08. 絶対救済領域
「この! このぉぉおッ! 愚かな猿めがぁあッ!」
言い終わらぬうちにアーリヤの身体がほどけ、ハトやカラス、ドブネズミがそれぞれ左右に逃げ出す。
だが黒い雷は逃亡を許さず、その一つ一つをアスファルトに、光を失ったネオンに、車体に磔にしていった。
散らばったアーリヤは、こう考えていたかもしれない。
夏の海で見た直線ビームなら数匹は逃げ果せる……とでも。
「残念だったな。猿は賢いんだよ」
俺は、放った。
次の瞬間、辺り一面を怒りの黒炎が燃え広がっていく。
どれだけの範囲に及んだのか、俺ですらわからない。
爆ぜた、といってよい瞬間的な威力だった。
見える範囲すべてのガラス窓は割れ、車体がクラクションを鳴らしながら腹を見せる。
路上にうずくまっていた肉塊が熔けて吹き飛び、中身である人体は風圧に押し流され、目の前は、あっという間にどす黒い光に覆いつくされた。
真空状態からの、耳鳴り、静寂、そして――衝撃に押しやられた空気が逆流し、四方八方から瓦礫をはらんだ風が殴りつけてくる。
バイザーの割れ目から吹き込んでくる空気にたまらず目を覆い――反動をやりすごした。
目を開いて、俺が最初に見たのは聖観音アーリヤの、残りカスだった。
顔面の皮膚はただれ、髪は焼け落ち、ただ痛々しくグロテスクな半身がアスファルトをもがく。
目のくぼみには、眼球の代わりにチンターマニが輝いていた。
怪仏にとって心臓部であるソレは、ひびが入り、いまにもぼろっと零れそうだ。
俺が一歩踏みにじると、アーリヤはさらに一本ずつの手足をバタつかせて這いずる。
「どこ行こうってんだよ」
もう一歩踏み出す。
するとアーリヤは舌っ足らずの震えた声で言った。
「――待ちなさい! 涅槃症候群……寿命を取り戻す方法、知りたくないのですか? わ、私を殺せば手がかりがなくなりますよ!?」
アーリヤの提案に希望を見て、でもどこか結果をわかっていて、はらわたが煮えくり返って――だからこそ俺の頭は冴えていた。
「それ、チンターマニチャクラから聞いた。一応、デマカセでないか確認してやるよ。言ってみろ」
もちろん、カマをかけている。
こんなウソはバカ竹中相手に散々やってきただけあって、平然と口から出た。
なんなら今のアーリヤは暴れたり突進したり、不気味にヒヒーンなんて鳴いたりもしないのだから、脅威としてもバカ竹中以下だ。恐れることはない。
それに思った通り。
アーリヤのリアクションは、「そんな……チンターマニチャクラとてありえない……!」だけだった。
ただ唇が焼け落ちてむき出しになった歯をガチガチと合わせる。
続きはない。
俺をだまくらかしてどうにか時間を稼ごう、観音菩薩様に助けてもらおう、なんて考えだったらしい。
「そうか、やっぱりデマカセか。俺は賢い猿だから口八丁なら負けねぇよ。残念だったな。おまえ、おしまいだよ」
また一歩にじり寄り、右半分の焼けた身体をまたがって拳を握る。
握って、これで殴ると見せつける。
ギチギチと、グローブも肉も骨も唸る音を聞かせる。
「おしまい……? 死……? 莫迦な、わからない! わからない! こんなこと、ワケがわかってやるものか!」
「じゃあ、ワケわかんねぇままでいろ!」
握り込むだけでは収まらない分、高く高く振り上げた。
筋肉がもっともしなる角度に。
「ワケわかんねえパワーを食らいやがれぇッ!! ワケわかんねぇパーンチッ!!」
そして、握り振上げるまでに収まり切らなかった感情ごと、めいっぱいに拳を撃ち下ろした。
「わから――」
スイカでも殴ったような感触と同時に、ボッ――と、アーリヤの形が灰羽となって散る。
風の中にきらめくのは、粉々になったチンターマニの欠片だろう。
いまさら人体に入ったところで、戦況は変わらないけれど。
アーリヤ。
聖観音アーリヤ・アヴァローキテーシュヴァラ。
真言で傅かせた巨大猪も、無関係な人間も、好き勝手に食い荒らし、曼荼羅条約を哀れな実験台にした、生きたいと願った者たちの敵。
煩悩の宿敵。
ようやく借りを返してスカッとした――が、こんなヤツのために哲学にも感傷にも浸っている暇はない。
見上げた月の繭は、遠い。
いまも暗い夜空に一人、美しく高慢に座している。
もう一度、あの高さまで……。
体中がボロボロで、気力はスカスカで、まるでいうことを聞きそうにないけれど……。
それでも、行かなければ。
文明の光が失われた街のそこかしこから、真言の合唱が聞こえていた。
いいや、むしろ真言の声が、俺自身の頭の中から大音量で響いている、そんなノイズが押し寄せていた。
ジャスティス・ウイングも同様か、折れた三鈷剣で身体を支え、頭から何かを追い払うように何度も首を振る。
「月が、輝いている」
アキラが言った。
よく考えてみれば、それは意思を刈り取る脅威を知らせるものだった。
だが、俺にはもう、その意味がわからなかった。
ぼんやりとしていた。
眠りに落ちる寸前の、心地よいまどろみに浸っていた。
「きれいだなあ……」
華武吹町では月が見えない。
だから俺は木漏れ日にさえ、月を探していたんだ。
月が綺麗ですね、なんて言葉を交わしたあの日を思い出し、胸が心地よく痛んで。
とても遠い、きらめくような日々。
黄金。
広い無明を照らすその色は、確かにきれいで。
優月は失われることなく永劫に微笑んで。
それこそ、俺の望んだ光景で、美しい澄んだ声で――。
『ひとつになりましょう』
*
――歌うような、責めるような、誰かの声が聞こえる。
誰か?
みんなだ。
これ……これは、真言だ。
頭の内側から、俺のものではない誰かの声が溢れている。
それから……。
鼻を刺す焼け焦げた臭い。
全身に覆いかぶさる大晦日の冷たい風。
俺は……倒れていた。
体を持ち上げながらあたりを見回す。
なんとか立ち上がったところで――見つけた。
アスファルトのくぼみに、赤羽根が仰向けで倒れ込んでいた。
やっぱり赤ジャージは目立つ。
ヒーロースーツはほとんど砕け、かろうじてベルトがそれらしい形を残しているだけ。
最低限の生命維持として不規則に胸が上下していた。
「正義、おまえはもう休んでいい」
その隣に座っていたアキラが振り向き、俺に笑いかけると、よろよろと立ち上がった。
アキラの身体はもう、片腕が無くなったどころではない。
何か所も穴が開き、子供向けアニメに出てくるチーズみたいな惨状だ。
穴からは黒い塵が舞い、空に吸い上げられていく。
欲望の塊であるアキラは、直接的に体を壊されているのだ。
俺たちの中で、意思がこうなっているのだ。
このままでは、やがて意思のない肉の塊に……。
おぞましい、という言葉がしっくりくる。
恐れおののき顔をしかめた俺に、アキラは小さく首を傾げた。
「禅、はは! まだそんな顔ができるなんて、意外とピンピンして――そうか。それが……身代わりに」
それから、アキラはベルトのあたりに左手を添え、表に返した手のひらを見せた。
きらめいていたのは、粉々になったチンターマニ――白澤先生の残滓だった。
いっそう、体が冷えた気がした。
感情が追いつかぬうちに、吹きすさぶ風にさらわれていく。
舞い上がっていく。
その先には――観音菩薩の姿があった。
目覚めていた。
羽化していた。
「そんな……」
それ以上は、言葉にならなかった。
涙だけが零れた。
夜空に佇む真っ白な着物は、白無垢姿に見えた。
巨大な翅は蝉かカゲロウを思わせる。
総じて、白無垢姿の短命の虫――あまりにも絶望的なフォルムだった。
赤い紅をさした唇が動く。
すると、声とはまた別に、頭の奥から優しげな言葉が響いた。
『あなたがほしい……あなたの心の中に居場所がほしい……』
それはまだ耳に残る優月の言葉で。
でも観音菩薩の常套句にも聞こえた。
『永遠に。あなたと私。そして、すべての命は無意味に。あなたと私、やっと平等になれる。あなたと私、死を越えて。涅槃の世界へ。さあ――救いましょう、巣食いましょう』
浸食されていく。
意思を刈り取る脅威と、どう戦えばいいんだ。
ヒーロースーツは壊れている、俺はもはや生身だ。
天高く羽ばたく光に、届く手段がない。
それどころか、意思さえもカラッカラだ。
その上、ソラからは「観音菩薩を倒しても無駄」と念押しされている。
「因果の行き止まり……か」
こりゃあ、お手上げだ。
絶望的だ。
これがバッドエンドってことか。
『ずっと、ずーっと』
それにしても、遠い。
遠すぎる。
ほんの数時間前には手を握り合っていたのに。
やっと見つけた俺の月が、こんなに遠いなんて。





