06. VS疫神アーリヤ-(1)
「時間稼ぎにはなりましたよ、諦淨」
ねっとりと嗤うアーリヤ。
俺の脳内には重すぎる敗北の光景が溢れ出す。
すがるようにベルトに手をやる。
肯定するようにベルトの中央が回った。
戦闘準備の合図ととってか、アーリヤも錫杖をひるがえす。
「ここに決着をつけましょう、無明輪廻を彷徨う者どもよ」
しゃらしゃらと鳴る錫杖の環が、ゴング代わりだった。
俺とジャスティス・ウイングは唱える。
「全解除ッ!」
黒と赤の炎は高々と舞い上がった。
しかし臆するどころか、羽ばたきひとつで上空から一直線に駆け下りてくるアーリヤ。
またしてもあの鬱陶しい防御壁――湾曲解釈を使っているらしい。
引力を無視した落下速度。
右手に大きく弧を描く軌道。
俺たちは、高く飛びのき一撃をかわす。
突き刺さったインパクトは、一拍遅れで辺り一面の石畳をひっくり返した。
眼下に、衝撃と風圧に吹き飛ばされた諦淨の身体を案じ、陽子が駆け寄ったのが見えた。
ここで暴れるのは分が悪すぎる……!
「住宅地はやりにくい。大通りに戻るぞ!」
「あそこもうメチャクチャだもんなぁ!」
ジャスティス・ウイングの提案に乗っかって一丁目方面へ。
華武吹町、どこもかしこも人はいるだろうが、飛翔するアーリヤ相手なら足場のあるビル街のほうがいくばくかマシだろう。
屋根伝い、飛ぶように移動する。
アーリヤはその間も激しく追撃してくる。
破壊音とコンクリート片が、大晦日に飛び散る。
俺たちも反撃に出たが、やはり湾曲解釈に阻まれ、アーリヤには届かなかった。
三鈷剣が両断する瞬間、ハトやカラスの形に分散、再生していく。
俺が拳を叩きつければ、ドブネズミのひき肉が夜空にばらまかれるだけ。
魔王といえど弱体化したアキラの雷は湾曲解釈で守られた本体を貫くに足りず。
コイツが、厄介で胸くそが悪いと再認識させられるだけだった。
「どうあがいても、あなたの意思は私に届かない! 観音菩薩の羽化をその愚かな眼に焼き付けなさい!」
「弱いモンの命を盾にしながら偉そうなこと言いやがって……!」
むかつくが、応戦できたのは口先だけ。
打開策がないまま、華武吹町一丁目に行き着いてしまった。
大通りでは人間の形とは言い難い肉色の物体がうずくまっている。
沙羅の策ではどうしようもなかった人々だろう。
ほかの人間の限界も近い。
時間がない。
策もない!
対してアーリヤの目的は――語るに落ちていたが――観音菩薩羽化までの時間稼ぎ。
五十パーセントカットされたアーリヤの攻撃は驚異ではないが、アーリヤには攻撃が通らないのは早いこと決着をつけたい俺たちにとって最悪な状況だ。
ならば――。
「鳴滝、おまえは月を!」
考えることは一緒だった。
唯一勝っているのは、こっちの人数だ。
俺はネオン看板を渡り、月の真下――再び、双樹ビルの屋上へ。
壁に爪を立て、獣のように両手両足で摩天楼の側面を駆け上がる。
そうはさせるまいと、アーリヤの破片――ハトの羽音が俺を追ってきた。
だが一方で、ジャスティス・ウイングが追撃を許さずアーリヤ本体に三鈷剣を振るう。
俺を追うハトの群れはアキラの黒い雷で壁打ちになる。
「このまま、削るッ! 削り切るッ! そして貴様の命を捕えるッ!」
ジャスティス・ウイングの怒涛の攻撃が背後から聞こえてきた。
羽ばたきの追撃がとうとう消える。
もうすぐ、もうすぐ――!
逸る気持ち。
近づく月光。
天空へのギャロップ。
双樹ビルの最上部を蹴り、俺は輝きに手を伸ばす。
黒く鋭い爪の先が、繭に触れようとした――ほんのわずかな滞空時間の刹那。
ピッと、ヒビが入った。
きらきらと欠片が風に舞っていく。
輝く繭の中、うずくまっていた優月の瞼が開き、目が合った。
『ひとつになりましょう』
たしかに、そう聞こえた。
言葉だったのかもしれない。
意思だったのかもしれない。
幻想的な光景に、俺は心奪われて――。
――。
――。
――。
「――ろ、墜ちろ、墜ちろ堕ちろ落ちろ、悪鬼よ墜ちろ! 地獄の奥底に!」
アーリヤの声。
背面、次から次へと骨を刺すような衝撃を浴びせかけられていた。
おかしい。
突然、違うシーンにすっ飛ばされている。
視界は手型にホールドされており、その隙間から見えるのは、銀髪と灰色の羽、夜空、飛び散るコンクリート片。
破壊の音と体中の痛みが連動している。
どういうことだ。
わけがわからない。
必死に情報をたぐり寄せようとしたが、わかったのは顔面をホールドされて何かに叩きつけられていることだけだった。
しゃらりと錫杖の音がしたときには、俺は打ち放たれていて、さらに混乱が深まる。
トンチンカンがすぎる。
荒唐無稽の予定調和。
わからん殺し。
いわゆるデウスエクスマキナだ。
これ、攻撃?
アーリヤが?
観音菩薩が?
どっちにしたって、いろいろおかしいでしょ。
思考停止して笑ってしまいそうになるのをこらえ、俺は現実を見ることに専念した。
今しがた俺が上ってきた双樹ビルの壁。
屋上から半分程度まで、幅およそ俺一人分の裂け目が出来ていた。
ガラスの破片が月光を浴び、中空で輝いている。
麓では片翼のアーリヤが黄金錫杖を掲げ、天高く月の繭は煌めき――不覚にも俺はその光景を、やっぱり幻想的で綺麗だなあ、なんて思っていた。
しかし、光景はどんどんと遠ざかっていく。
俺はアーリヤの一撃に打たれ、大通りのアスファルトに体を打ち付けられるも勢いが止まらず、飛び石のように何度も叩きつけられていた。
水面ならどれだけよかっただろう。
グシャ、グシャ、とひび割れて壊れているのが、アスファルトなのか、自分の身体なのかさえもわからない。
くそったれ。
いまにやり返してやる。
立ち上がって、睨みつけて、強がりを言って、どうにかしてブン殴ってやる。
痛みと恐怖を振り払おうと自分に言い聞かせていると、体を打ち付ける衝撃が突然に弱まった。
正しくは、受け止められていた。
額の方からのぞき込み、場違いに優しげに微笑むアキラ。
「禅、無事か?」
無事なワケ――。
そんな悪態さえ、呻き声になった。
呼吸することに専念しつつ、らしくもなく緊迫したアキラの声を聞く。
「よく聞け、禅。観音菩薩が目を覚ましたようだ」
全身が痛みそのものになったみたいだ。
だが、痛がる気力も惜しい。
俺は眼球から首と順に動かす。
「――ぁ」
アキラの右腕から左胸の心臓のあたりまで、ぽっかりと無くなっていた。
内側から黒い粘液がどろどろと流れ出し、天へ上っていく。
いつもならすぐ再生していたはずなのに。
まるで――いや、まさに、アキラたらしめている欲望の意思を、月が吸い上ているのだ。
「僕のことはいい。きみたちに敗北したときから、死に損なっているだけだからな」
見えたのはアキラだけではない。
俺の数メートル手前では、クレーターの中心にジャスティス・ウイングが打ち付けられていた。
俯せて状態は定かではないが、赤い欠片が、ヒーロースーツが割れて散らばっている。
なんてこった。
ヒーロースーツが――まさか。
遅れて俺は自分のヒーロースーツも通常状態だと知った。
肌を刺すような冷たい風が顔に纏わりつき、その上、右目と左目で見え方に違いがある。
バイザー左側が割れているようだ。
一瞬にして壊滅状態。
いったい何が。
俺が月の繭に触れようとしたあの瞬間、何が起きたんだ。
視線で訴えると、アキラは静かに頷いた。
「観音菩薩だ。おまえたちは、数秒間だが強制的に、世界の認識をやめさせられた」
「……は?」
観音菩薩。
強制的に認識をやめさせる力。
世界との――苦界と人間のつながりを断つ力。
神仏を名乗るにふさわしい、トンデモ能力じゃないか。
「その間にアーリヤが好き放題暴れまわっていたのだ。すまない、今の僕だけではあいつを止められなかった……」
ようするに、敵には無敵タイムがあるってことだ。
そりゃマズい。
マズすぎる。
恐れ慄きながら見上げた月の繭は、重く呼吸するようにゆっくりと明滅していた。
不完全状態で力を使い、疲弊している……そんな風に見えた。
数分前の輝きだ。
楽観的に見積もって、十分くらいは猶予があるかもしれない。
逆を言えば、羽化すれば数秒間どころでなく、何時間、何年、永劫に、人間の意思など吹き飛ばす力があるってことになる。
そうなれば、諦め苛む意思さえ残らないのだろう。
「ああ、きっと死の恐怖も苦しみも感じない、穏やかで優しい滅びだ」
アキラの言葉にはどこか、ギブアップしてもいい、なんてニュアンスがあった。
たしかに、それを救済と呼ぶ者もいるだろう。
でも。
そいつらには悪いが、俺は。
「死ねねぇ……俺はまだ童貞卒業してねぇんだ」
これ以上とない理由である。
悪いが、その穏やかで優しい救済とやらは、俺の下半身事情でキャンセルさせてもらう。
アキラは高らかに笑い、俺が苦悶の声を上げるのも無視して、上体を支え起こした。
「優月殿が『最低』と言いそうな、しょうのないクソ理由でなかなか結構だ」
「クソ理由上等だ! こちとらヤりてぇのは初志貫徹なんだよ!」
「あー……そうだったな。そうだ、いきり立て、禅! 一人でおっきするのは得意だろ!」
「うるせえ! おまえ、この状況でよくも童貞をバカにしやがったな!」
立ち上がる。
ふらつくが、両足で踏ん張る。
「クソ相手だ、クソみたいな理由で十分だろう」
咳き込み赤いものをペッと吐きつけながらジャスティス・ウイングも立ち上がった。
ヒーロースーツは半壊といっていい惨状、割れたバイザーの中身である顔面は血みどろだった。
真っ赤な顔面に鋭い眼が光る。
「はっ! ジャスくんはどうなんだよ。どんなクソ理由で立ち上がっちゃったんだよ」
「朝のゴミ捨てと一緒だ」
「朝は勃つよな」
「……まあ、似たようなものだ」
明らかに満身創痍。
立ちはだかるは聖観音アーリヤ。
夜天には今まさに目覚めようとしている観音菩薩。
そんな状況だというのに、俺たちはロクでもない下ネタをかわし、笑いながら再びファイティング・ポーズをとった。