03. BAD END
落ちていた。
静寂の闇から、ネオンの海へ。
一直線に。
陰る優月のシルエットから零れた涙が、ヒーロースーツのバイザーを撃つ。
地上のネオンが次第に濃くなっていく。
優月――!
祈りが通じたのか、奇跡的にその指先に届き――という瞬間。
希望の光を見たまさにその時。
辺り一面、暗闇に塗り潰された。
闇、静寂、澄んだ空気。
掴むはずの手には、何も。
消えてしまったかのように。
ように……?
違和感の正体を理解する前に、俺の身体は重力とアスファルトとの板挟みになっていた。
落雷めいた轟音が、骨と肉を突き抜けていく。
「――」
……。
生きている、らしい。
道路に埋もれていた。
ありがたいことに手足もついている。
かなりシェイクされたが、このとおり脳みそも稼働している。
身体のダメージは……全くわからない。
双樹ビルから真っ逆さま、地面に激突、さらに生還――生身ではありえない体験に、脳内麻薬がバンバン出まくっているせいだ。
重力の残響にあらゆる感覚が眩むも、生まれたての仔鹿状態を経て、なんとか立ち上がることができた。
あたりを見回しているうちに焦点も定まる。
「――ぁ」
絶句した。
いや、呼吸さえ失っていた。
本当にここはネオン街、華武吹町なのか?
衝撃に意識でも吹っ飛んで幻覚でも見ているのではないか?
あるいは、本当は落下の衝撃に俺はおっ死んでいて、地獄にでも落ちたのではないか?
そんな想像を、体中に走る痛みに否定されながら、光景ひとつひとつを認めていく。
路上の人々は奇声をあげ、笑い、呻き、真言を唱え、空を見上げていた。
ごぉーん、ごぉーんと遠く梵鐘の音が通り抜ける。
周り一帯、停電でも起きたのか人工的な色はなく、されど白く清浄な光に照らし出されていた。
そして、人々が見上げるその光が――月が、満月が。
美しい。
だけど丸い光の中、わずかに見える輪郭をたどれば、輝く薄皮の下で手足をたたんで胎児のような姿勢でうずくまった――。
「――優月」
繭だ。
直観した。
優月から観音菩薩に変態するための、繭なのだ。
救済の光景に、俺は呆然としていた。
いや、見とれていたといった方が正しい。
淑やかな光が降り注ぎ、梵鐘が一つ、また一つと重なっていく。
荘厳な儀式でも始まった、そんな雰囲気だった。
「やっぱりこうなってしまうのね」
俺ですら両手を合わせて祈ってしまいそうになるところ、水を差したのはソラだった。
嘲笑と溜め息半々の言い草だ。
「ここは因果の行き止まり。バッドエンド……ともいうかしら。これ以上は何もかもが無意味。だからこそ、やっと自己紹介ができるわね」
月の繭を背に、ソラはワンピーススカートの裾をちょんと持ち上げる。
逆光で陰る表情には、少女のそれには似合わない疲れと老いが滲んでいた。
それから、いつものフレーズに続いて、あまりにも突飛なことを言い出した。
「私はソラ。輝夜空。輝夜優月と、あなたの娘」
「……は?」
「言ったでしょ、私は可能性だって。メイド服かナース服の先は、それはそれは地獄だったわ」
展開。
光景。
言葉の配列。
切羽詰まったこの状況。
くわえて、相変わらず絶賛童貞中の俺にはあまりにもパンチが利きすぎて、返す言葉もなかった。
ヒーロースーツのバイザーの下だったからまだよかっただろう、かつてないほどのアホ面で鼻からも口からも疑問符を垂れ流す俺に、ソラは好き勝手語り続ける。
「私は望まれない命だった。あなたは行きずりのつもりでお母さんも愛染明王も裏切った。お母さんは怪仏や曼荼羅条約から逃げながら、私を産んで、育て、でも自分の命が長くないことも悟るの。戦うことも、逃げることもできない。ヒーローなんて現れない。時間だけが迫ってくる。それはどんな絶望かしら」
「そんなことあるわけ――!」
「否定できる……? その可能性がゼロだったと?」
「…………」
……否定、できない。
最初の夜の俺は、まさしくそのつもりだったのだから。
優月のことなんて、童貞を捨てた後の関係なんて想像もしていなかった。
むしろ後腐れなくすっころがせるカモだと思っていた。
ベルトとだって、自分はヒーローにされた被害者で、早いことオサラバしたいって思っていた。
少しでも因果が違っていたら、ソラは……存在していたかもしれない。
「お母さんからは観音菩薩が溢れ出し、私の因果も壊されてしまった。私は彷徨い、いくつもの可能性を見てきた。あなたの気持ちが哀れみだとあなた自身が白状する可能性。それに――あれは、最悪中の最悪だったわね――あなたが輝夜優月の命の短さを否定し、魔王マーラさえ依り代にして、因果を壊された死ねないバケモノを生み出す可能性」
「俺が優月をバケモノに……? もしかして……それが、観音菩薩なのか?」
「さあ、どうでしょう。壊れた因果のことなんて、もう観測しようがないわ。だけど、命の時間を伸ばすには、また別の尊い時間の犠牲が必要だったということ。あなたはお母さんの延命に必死になって、お母さんを大事にすることなんて忘れていた。それもまた、お母さんの絶望だった」
それもまた、俺ならやりかねない可能性だ。
優月の時間のためならば、悪にだって手を染めるとさえ覚悟していた。
その未来の果てさえも、バッドエンドだなんて。
いいや、それだけじゃない。
あらゆる可能性、現在さえも……?
「つまり、おまえが言いたいのは、どうあがいても俺たちに救いはないってことか……?」
「そうよ。結末はいつだって絶望的、ゲームオーバー、五十年前からやり直し。わかりにくい? そうね――アレよ、ゲームと一緒。ゴールの旗に触れないと次の時系列に進ませてくれないやつよ。ゴール前には必ず観音菩薩がいてメチャクチャにされる。だから、誰もその先を観測できていない、だから、未来が確定しない。いくつもの可能性がフワフワしている。私たちはシュレディンガーの猫ね」
可能性。
因果。
ゲームオーバー。
観測。
なんとかの猫。フワフワしているらしいので、たぶん長毛種。
なるほどな。
これまでもさしてわからなかったが、いよいよわからん。
――でも。
「でも! どの可能性でも、優月は助けてほしいって、救われたいって思ってるんだろ! たとえ救いがなくても、俺は優月を諦められねえ!」
俺はソラの皮肉を見事まくり返したつもりだった。
それがまた気にくわなかったのだろう。
ソラは一層うんざりした顔つきでボソボソと唱えた。
「本当に度し難い最低な男ね。あなたのくだらない煩悩こそが、お母さんの絶望の原因だって言っているのよ。あなたには救えない。あなたにできることなんて、もう無いの」
「"できる"と、"やりてえ"は別なんだよ!」
「その結果できたのが私でしょ」
「下ネタのセンサーが鋭敏すぎんだよ! 誰に似たんだよ!」
先ほどのうんざりが上限ではなかったのか、それこそ自宅前に吐かれたゲロを見る顔つきでソラは言う。
「そのヒーローヅラをやめて。もう余計なことをしないで。救ってやるとか、ヒーローになってやるとか、諦めたくないとか……薄汚い欲望を捨てて。これ以上、お母さんを悲しませないで。もう二度と、出会わないで」
「それは、あくまでも可能性であって……!」
「今宵の月だって、あなたが煩悩なんて――欲張ることを教えたから、絶望してしまったのでしょう。路地裏のゴミ箱のゴミのままであれば、もう少し穏やかに終われたかもしれないのにね」
「そんなはずない……! そんなはずはないんだ!」
「なにを言ってもお終いよ。お母さんはきっとこれからも、得られないものを欲しがりながら壊れた輪廻を彷徨い続ける。この世界は終わる」
じゃあ何か?
もう終わったことだから諦めろってか?
目を伏せて考えるのをやめろってか?
まだ童貞なのに?
帰りたい場所も、行き着きたい未来もあるってのにエンドロールを大人しく見てろってか?
そんなの納得できるわけ……。
「諦めの悪い煩悩が顔面に書いてあるわ。次こそは穢れた感情を捨てなさい。それが人間としての正しさ、あなたにできる唯一の罪滅ぼしよ」
ソラの言葉に相槌を打つように、ごぉーん、と荘重な音が響く。
清らかな月光が降り注ぐ。
月光、真言、梵鐘。
耳鳴りと眩暈が押し寄せる。
たしかにこの清浄な夜は、罪滅ぼしにふさわしいかもしれない。
諦めて、欲望を捨てるべきかも――。
「ダメだ、ダメだダメだ!」
心の中で煩く燃える意思がしぼみ、虚しさが膨らんでいた。
どこからともなく沸き立つ真言が、思考回路に食らいついてくる。
鐘の音に欲望が鎮火する。
月光のきらめきでさえ、さっきから意識を霞ませている。
蝕まれている。
攻撃されているんだ。
この美しい荘厳な光景の本性は、意思をどろどろに溶かして啜ろうという、巣食いし者の侵食だ!
鳥肌に包まれた俺とは対照的に、ソラは軽く肩をすくめた。
「真の救済がはじまったわね。仏も天魔も巻き込んだ色恋沙汰が理由だなんて、この街らしい滅びだわ」
次の瞬間には、俺が向かい合っていた少女の姿はなくなっていた。
「待て! 教えてくれ、可能性を! 観音菩薩を倒す方法を――」
「無駄よ。その可能性もダメだった」
「――は?」
倒しても、ダメだった……?
ならば、観音菩薩を倒そうっていうこの先にあるのは、ソラの言う通り無駄じゃないか。
「それじゃあ、よい終末を」
「待て! 倒しても無駄だっていうのなら、一体どうしたら……!」
ソラは応えない。
もういないのかもしれない。
それもそうだ。
なにもかも無意味なら、詰んでるのなら、結末を見る必要はない。
じゃあ、俺はここでなにをやっているんだ?
アーリヤに言われたとおり、悪足掻きするしかないのか?
諦めるしかないのか?
考えれば考えるほど空しくなってくる。
いっそ、美しい月から降り注ぐ光に身も心も任せてしまおうか。
両手を合わせ。
真言を唱え。
澄んだ梵鐘の音、月光に清められ――。
「…………?」
そこに割って入ってきた無粋極まりない人工的な音と光に、俺は意識をもたげた。
野太いエンジン音、ライトが一つ。
鉄の騎馬がまっすぐに、すぐそこに、正面に迫って、突っ込んできて――あっと思ったころには容赦なく轢かれていた。
成すすべなく跳ね上げられた最中で見たのは――ああ、見たことのある光景だ――ぱっつんぱっつんの黒いラバースーツにノーヘルメット。
亜麻色の髪が揺れ、その隙間にコバルトブルーの瞳が爛々と輝く。
強欲の魔女は、中空で唖然とする俺にウインクひとつして微笑んだ。
ヒトを轢いておいて、たまたま街中で見かけた知り合いに投げかけるような笑みである。
「ええぇ……」
俺は場違いな笑顔に心底慄いたが、暴力連鎖装置はこれだけに留まらなかった。