02. ラブ・イズ・オーヴァー
華武吹町で最も標高の高い場所――双樹ビル屋上ヘリポート。
夜の闇が、まるで海原のようにどこまでも見渡せる高さ。
冷たく澄んだ風がビュウビュウと横殴っている。
崖下からは来る新年に浮かれた色と音が溢れていた。
闇とネオンピンクの境界線。
手すりのない危うげなビルのふちに、怪仏アーリヤと、その歪な翼に絡めとられた優月の姿はあった。
「アーリヤぁぁあッ!」
ビルの窓を破り、階段を駆け上がってきた俺は、息が上がるまま獣じみた咆哮をあげた。
対してアーリヤは、右半分の異形にかかわらず冷淡な嘲笑を浮かべる。
「今宵の月は、いっそう綺麗ですよ」
残念ながら、雪雲が覆いかぶさり街の光に照らされていた。
「お月様にまで嫌味とは、然しものパチモン観音。恐れ知らずだな」
「ええ、恐怖など苦界の汚れ。清き私には関係のないものですので」
「疫病の塊みてぇなナリをして、良く言うぜ」
売り言葉に買い言葉も平行線。
やっぱり、こいつとは仲良くできる気がしない。
ならば、与太話など不要だ。
俺は言葉をかける相手をかえた。
「優月、無事か!?」
返事はないが、一見して優月は無事だった。
アーリヤの右半身、灰色の羽に捕らわれながらも怪我があるように見えない。
だが、違和感に胸がざわつく。
その時――むしろ俺の動揺を見計らったかのように、アーリヤは優月を解放した。
ざわつきが束になり、ドクドクと心臓を打つ。
「優月……?」
解放されたにもかかわらず、優月は逃げ出さないし、応えもしない。
ただ茫然と暗い曇天を見上げながらその場に立ち尽くしていた。
冬の風に吹きつけられ、黒髪が逆巻く。
安っぽいコスプレ巫女装束では、さぞ寒いはずだ。
高層ビルのはしっこ、足元には目も眩む光景が広がっているはずだ。
にもかかわらず、表情には寒さも恐怖も映らない。
……いよいよおかしい。
「なにをした……!」
俺の威嚇じみた問いに、答えたのは優月本人だった。
「涅槃症候群……」
何があったのか、すぐさま理解した。
理解させられた。
俺が怯えながら告げようとしていた残酷な事実を、アーリヤは心無く叩きつけていたのだ。
突然の余命宣告に、優月の心が壊れてしまうのではないかという恐怖。
アーリヤへのさらなる怒り、嫌悪感。
気恥ずかしさに、たたらを踏み続けていた自分への後悔。
それらがいっきに込み上げ、虫唾が走り、軽くえづきさえした。
「てめぇ――ずいぶんと悪趣味な悪足掻きだな!」
「悪足掻き? ご冗談を。彼女の絶望こそが我らの最終目標です」
「最終……目標……」
オウム返しになった。
わからなかったからではない。
わかろうとしていたからだ。
俺の脳内で、"疑問"と"疑問"が強引に溶接されつつあった。
それは優月の背に刻まれた毒々しい色合い――華武吹曼荼羅に端を発する。
頭のどこかでひっかかっていた。
アーリヤは対話不可能なクソ野郎だが、観音の手先として純粋に使命を全うしているともいえる。
そんなヤツが巨大怪獣ウマタウロスとの戦いの最中、なぜ身を挺してまで優月を庇ったのか。
それに、もう一つ。
チンターマニが怪仏を降臨させる装置なら、観音菩薩は何を介して降臨するのか。
それは……。
やはり……。
認めたくない俺に、アーリヤが嫌味なほどにわかりやすく言ってのける。
「輝夜優月が絶望となれば、華武吹曼荼羅から観音菩薩が溢れ出すでしょう」
つまり――。
「やめろ、そんな……わかりたくねえ……!」
優月はずっと、巣食われていた。
観音菩薩は最も安全な場所にいた。
たとえ、俺たちがもっと早い段階で観音菩薩に気が付いていたとて、優月の心を壊してまで中身を引きずりだそうとするわけがないのだから。
絶望のきっかけなんて、なんでもいい。
きっかけがなかったとしても、残り少ない時間を知ることになれば行き着くところは同じだ。
輝夜優月は絶望となり、観音菩薩が蘇る。
優月が、観音菩薩。
――最初から詰んでいた。
最初から――五十年前から負けていた、ということだ。
俺たちは勝ち目のない絶望的な戦いを強いられ、しかし何も知らず、アホみたいに一喜一憂していたのだ。
「……そんな」
その事実は、さっきの吐き気とは比べ物にならない――脳みそに熱湯でもかけられたかのような衝撃を伴って、頭に降り注いだ。
バイザーの下で俺の顔色はみるみる悪くなっていっただろう。
見透かしたのかアーリヤはご満悦の笑みだった。
「輝夜優月を殺してしまえば、すべては終わりますよ。彼女を殺さなければ観音菩薩による救済がはじまるでしょう。そして除夜の鐘が煩悩を濯ぎ、人の心は救済に満たされるのです。さあ、あなたこそ悪足掻きをどうぞ。突き落として汚いシミにしてしまうのはいかがですか?」
「ぐっ……」
悔しいが、できそうにない。
できるはずがない。
アーリヤもそれがわかって挑発しているのだ。
だけど、だからといって怯んでいる場合でもない。
まずは目の前の、ハーフサイズにもかかわらず嫌味は二倍となったアーリヤを――!
拳を握り向き直った俺にアーリヤは静かに首をふり、残った耳に手を当てておどけた。
風だけが冷たく吹き抜ける静寂に、ぽつぽつと流れてきたのは優月のか細い声だった。
「――いなくなれば、全部終わる。無意味で短い命……同情で、哀れみで、優しくしてもらう必要もない……輝夜優月を殺してしまえばすべては終わり……私は、禅を救うヒーローになる……」
呻く声は、次第にガサつき、ひび割れていく。
周波数の合わないラジオのように。
「優月、違う! 一緒に帰ろう! きっとどうにかなる! 俺、どうにかするから!」
肺の空気まるごと、目いっぱい叫んだ。
でも、俺の声は届いていない。
優月は両手で顔を覆う。
そしてはだけた装束をそのままに、地上数百メートルの縁をよたよたと歩いた。
「終わらせ、ないと。私が禅を、守らないと……あなたのためなら生贄になれる……! 私がヒーローになって、終わらせる……! せめて、せめて覚えていて……あなたの、人の心に居場所がほしい……」
「な……」
優月。
心の空白に巣食う――観音菩薩。
混濁している。
電子音混じりのがさついた声は、もうどちらの言葉なのか、わからない。
「こんな無意味で不都合で短い命では、あなたの時間に釣り合わない……ならば、時間と可能性の檻を千に砕き、甘く閉ざされた永劫の……幸福の……救済の……心の隙間に……ひとつに、なりましょう……」
刹那、足を止めた優月。
無理やり腕を引っ張れば良かった。
羽交い絞めにしてでも、抱きしめれば良かった。
だけど――俺はここにきても慎重で、おっかなびっくりで、優月がこれ以上傷つくことをあまりにも恐れていて――できなかった。
優月はこちらを見て、はっと目を見開く。
やがて、くしゃりと哀情に顔を歪ませると、唇を動かした。
「――」
言葉は風にさらわれる。
そして――あっけなく、ためらいもなく。
ふわりと。
優月の身は闇の中に投げ出されていた。
光景に――感情も思考も全部刈り取られた。
視界にはひらひらと、小さな紙切れが舞う。
優月が握りしめていた、最後のわがまま券だった。
……わがまま。
優月が告げたわがままは……。
"忘れて"?
"助けて"?
答えがでないまま、胸が耕されるような痛みに急かされ駆け出した。
通り過ぎざま、アーリヤの魔呪詛が耳にこびりつく。
「あなたにお似合いの、愚かで汚らわしい悪足掻きですね」
――ああ、そうだ。
愚かだ。
汚らわしい感情だ。
こんなことになる前に助けられなかった後悔と恐怖さえ混じっている。
だけど、その感情のために、真っ逆さまの地獄行きでも構わない!
勢いのまま、静寂の闇から、ネオンの海へ。
一直線に。
街の逆光。
陰る優月のシルエットから零れた涙がバイザーを撃つ。
名前を呼んでも、空気の層に押しつぶされて消えていく。
届かない。
地上の光が次第に濃くなっていく。
空気抵抗さえもどかしい!
落下しながらもビルの壁を走り、加速し、優月に手を伸ばす。
優月――!
祈りが通じたのか、奇跡的にその指先に届き――という瞬間。
希望の光を見たまさにその時。
辺り一面、暗闇に塗り潰された。
闇、静寂、澄んだ空気。
掴むはずの手には、何も。