01. 末法アポカリプス
――煩悩。
性欲、怒り、迷い、無知……ありとあらゆる心の穢れ。
それから人と人とを一つにまとめ、時には苦しいほどに縛り、時に強く優しく繋ぎとめる――ベルトのようなもの……だったのかな。
なんにせよ、だ。
怪仏という異形の存在と戦ったり、第六天魔王にはハチャメチャに踊らされていたり、同時進行で俺自身の問題もあったけど――煩悩ベルトから始まった一連の事件は、曼荼羅条約とチンターマニの消滅によって終止符が打たれた。
言い換えれば、俺が最終目標を遂げるための障害は、すべてなくなったのである。
こうして無事に迎えた十二月三十一日、大晦日。
俺と優月は、ご近所さんから茶化されながらの買い物、ボロ屋望粋荘の大掃除、ちょっと早い年越し蕎麦。
それらしい余興を、ぎこちないながらも、乗り越える。
最終インターバルともいえる風呂からもあがり、俺はついに冷えた廊下で優月の部屋のドアノブを握ってはズボンの裾で手汗を拭き拭き……という状況にまで到達していた。
このドアを開けば最終局面だ。
ラスボス戦だ。
俺の人生にセーブ機能があるのなら、間違いなくここでするべきだろう。
もちろん、最終目標は初志貫徹、優月とTogetherすること。
だけどその意味は、童貞卒業なんて自分本位のご褒美だけではなくなっている。
なんせ、ここから先にあるのは、優月の"残り少ない時間"との避けようのない戦いなのだから。
延命の外法を望むなら、悪に手を染める覚悟だってある。
どんなに辛くても、残酷でも、その先にある絶望ごと優月が欲しいと思っている。
そんな俺の煩悩を受け止めてほしい。
だから、契りを――俺がもう"ちゃらんぽらんなオトコのコ"じゃなくて、"大人の男"なんだって証を……。
「……示さないと、だよな」
――よし。
「何があってもずっと、ずーっと……」
言うべき言葉を口の中に携え、意気込みとともにドアを開ける。
「…………お」
しかし、口の中に携えた意気込みは、綿菓子のように甘く溶けてしまい、気が付けば生唾と一緒に飲み込んでいた。
目の前に広がった、めくるめく光景のせいだ。
オレンジ色の常夜灯。
並んだ二人分の布団の上にちょこんと座る巫女装束姿。
シリアスに凝り固まっていた俺の頭が、いやらしいピンク色に塗り替わるには十分な威力だった。
「あ、ええと……あの、これは……」
優月が懸命に何か伝えようとしている間にも、俺はフラフラと吸い寄せられていた。
本物が成す神聖さ、夢にまで描きまくっていたドエロい光景のリアリティーに、理性がショートしたのかもしれない。
目の前に膝をつき、何も言えぬまま両手で両手を握った。
違いを確かめるように重ね合わせて触れる。
熱を交わらせるように絡ませる。
ビクッと優月の指先がはねて、俺は少し強引に握り返す。
ゆだねるように、優月の指先から力が抜けていく。
「は……ぁ、あの……ごめん……なさい」
「あっ、いや俺も……先走ったというか……」
優月はコホンとわざとらしい咳払い一つに「それはそれとして」と続ける。
「言い訳、なのだけれど……私の背中には厭な彫り物があるし……嫌な気持ちにさせたくなくて……」
「あ、ああぁ……」
返事をしながら思い出していた。
彫り物。
すなわち、華武吹曼荼羅だ。
華武吹町の因果、元凶の種、俺が今まで戦ってきた六観音を刻んだ忌むべき色彩である。
優月が見せたくないのは当然だ。
でも、それは終わったこと。
むしろ俺にとって大事なのは、優月がやる気満々かつ準備万端かつエロいかつ巫女装束かつ着衣プレイ希望という事実だ。
性癖を開けっぴろげにしてきてよかった。
ありがとう、コスプレ衣装。
ありがとう、百瀬百。
「少しでも気に入られたくて、こんなみっともない媚びた格好を……」
されど、続く優月の言い分は、照れあれどどこか神妙な声色だった。
俺は空気を読み、喉まで出かけていた「ちょっと待って。巫女装束はみっともなくない、女体の美しさと背徳感を際立たせる唯一の(略)」など、脱線している上に小一時間かかりそうな反論をわきまえる。
その甲斐あってか桃色に浮ついた空気は保たれて、優月は一言一言を丹念に、まるで長年抱えていたセリフのように唱えた。
「私、今までずっと――五十年前からずっと欲しがれなかった。私が我慢していれば、そのぶん誰かが幸せになれるのだと思い込んでいた……私自身、輝夜優月の人生を生贄に差し出した一人だった」
一呼吸置くと、優月は俺の手を握り返す。
甘えるような上目遣いで。
「禅は自分勝手で口先ばかりで……イライラした。なのに求められるたびに嬉しくて、欲しくなって、嫉妬までして……変でしょ? 生贄にはなれるのに、禅をとられるのは我慢できないなんて。禅に染められて、私はわがままを覚えた。そんな大事な人だから、欲張れる私を見せないとって思って、その……」
指先を丁寧にほぐし、優月は膝の上から小さな紙の切れ端――わがまま券を両手でつまみ上げ「で、これ最後だから」と祈るように顔の前に掲げる。
「私は禅が欲しい、はしたない意味で。禅にも気持ちを言葉にしてほしい。思わせぶりで言葉にしてくれないんだもの。卑怯でわがままだけど、そう言ってくれたなら私、それだけで救われるような気がして……」
だんだんと声は小さくなり、最後は聞き取れなかった。
言葉にしてほしい?
なにを……?
いや……聞くまでもなくわかってる。
俺が気恥ずかしさに避けていたやつだ。
……深呼吸。
覚悟をチャージ。
バクバクと早鐘を打つ心臓を押さえ――ええい、これで王手だ!
「俺、優月のこと……好き、だす」
「…………」
「……あの」
言った。
俺は、とうとう。
意気込みに反比例した蚊トンボの羽音のような声で。
その上噛んだが、なんとか捻りだせた。
よくやった。
しかし、優月は不満げに眉尻を下げる。
顔面いっぱいに「やり直し」と書いてある。
「もう勘弁してください……」
「しません」
俺が再びチャージ時間を必要としたのは言うまでもない。
不規則な心拍、規則正しい秒針の音が積み重なる。
とうとう、ごぉーん、ごぉーんと、厳つい――除夜の鐘まで急かし出す始末だった。
こうなってしまえば、この荘重な音は新年を迎えるまで続くだろう。
非日常の鐘の音に驚いたのか、鳥たちの鳴き声がざわつきはじめ、カァカァ、ポッポーどころかギャアギャアザアザアと――待て待て、こりゃただ事ではないぞ。
「え……?」
優月も表情を恐怖に染め替え、窓辺に目をやる。
そう。
俺もそう思う。
鳴き声の、その群れは迫っている。
羽音さえ聞こえる窓のすぐ外に――くる!
「――ッ!」
俺は咄嗟に、優月に覆いかぶさった。
一瞬あと、ガシャアンと窓ガラスが割れ、破片が背中に振り落ちてくる。
同時に、冷たい風と羽音が押し入り、俺たちの上を吹き荒れていた。
「なに、これ……っ」
身体の下で怯える優月の声。
ハトやカラスたちの灰色の羽音。
部屋中を引っ掻き回す凍てつく風。
その奥に、俺は聞いた。
しゃらしゃらという、あの音を。
「どうして――」
頭を上げ、目を凝らす。
翼の洪水にのぞく、ほんのわずかな隙間に見えたのは、聖観音アーリヤ・アヴァローキテーシュヴァラ――のようなものだった。
ようなもの。
まさしく、と断言するにはいびつすぎる。
銀髪、黄金錫杖、褐色の中性的な美貌は……右半身のみ。
身体の左半身はハトやカラスの羽、ドブネズミの顔がいくつも突き出し、ときおりギャアギャアと苦悶めいた鳴き声をあげている。
害獣たちが生きたまま共生させられアーリヤを成している、そんな傲慢を形にしたバケモノ――怪仏の姿だった。
超常現象も怪仏絡みなら頷ける。
だけど――!
「おまえ……粉々になったんじゃなかったのか……!?」
巨大怪獣ウマタウロスと一緒に粉砕したはずだ。
風に乗って回収不可能なまでになったはずだ。
それが一体どうして……。
害獣の苦しげな声が重なった音でアーリヤはクスクスと笑った。
「最後の瞬間、双樹正宗は絶望しました。チンターマニのひとつ逃がすのに、あの刹那、触手一本を支配できれば十分だったのです」
おおかた、誰かに拾われるつもりが動物の類に呑まれたのだろう。
ほかの観音だったらどうだか知れないが、もともとドブネズミに寄生して、巨大イノシシの意思まで食っちまったヤツだ。
弱い小動物を手あたり次第に食いまくり挙句共食いさせ……そんな狂った発想の末で復活した。
そういうこったろう。
「その有様で一体何しようってんだ!」
「もちろん救済です。いいえ、いまこそはじめましょう――真の救済を!」
羽音が圧を増す。
体中を叩きつける。
ついには、身体が浮き上がり押し流された。
上下左右もわからなくなるほどの、翼の洪水だった。
羽音に溺れかけながらも、俺は優月の身体を引き寄せようともがく。
しかし、その身はいつの間にか腕をすり抜けており、バサついた感触だけが指に、腕に触れていた。
「禅ーッ!」
優月の声、そして嘲笑するようなしゃらしゃらという音は窓の外からだ。
闇雲にかきわけるも、今度はさざ波のようにすり抜け、夜闇へ飛び去って行った。
あっという間。
ものの数秒だった。
温かく浮かれた空気はすっかり冷たい外気に入れ替えられ、翼に荒らされた部屋に俺一人が残るだけとなっていた。
――怪仏。
よりによってアーリヤ。
生きてやがった。
そして俺は最終目標を、いままさに食おうとしていた据え膳を、まんまと取り上げられたのだ。
驚きや恐怖など、差し挟まる隙は無い。
火照った身体に、怒りが沸々と込みあがっていた。
「――愛染明王ッ!」
阿吽の呼吸で俺はヒーロースーツにコーティングされる。
考えている余裕などなかった。
窓から屋根に飛び移り、冴えた夜闇に影を探す。
ギャアギャアとけたたましく吠える群れは、一直線に空へと舞い上がっていった。
延長線上は華武吹町で最も高い建築物――双樹ビルの屋上だ。
厳かな鐘の音を背にしながら、煩悩を携え黒雲を追う。