普通の日々-(2)
外に出るとすでに、肌を引き裂くような鋭い風がビュウビュウと吹きすさんでいた。
夜空には鉛色が覆いかぶさっている。
雨雲だろうか。
俺は南無爺に手記を返そうと、二丁目の公園へと足を運んでいた。
手記だけじゃない。
他にも、もう優月には謝罪も念仏も必要もないってこと、それから……涅槃症候群について。
とにかく言葉を交わすべきだと、俺にしては大真面目だった。
公園に到着するなり目についたのは、火がくべられたドラム缶を囲んだホームレスたちだった。
もちろん焚火禁止なのだろうけれど、それを取り上げれば彼らに行き場所がなくなることくらい華武吹町住人はよく知っている。
そして、自分たちがいつ彼らと同じ境遇になるかもわからないということも。
ただでさえそんな苦難の時期。ただでさえ屋根もない吹きさらしの公園だ。
パチパチと威勢の良く鳴る炎に対し、ホームレスたちの表情はみな空模様と同じ。
雨が降らないといいけれど。
曇天から再び焚火の輪に目を凝らす。
南無爺はおらず、公園奥のベンチにもその姿はない。
いぶかしんでいるとホームレスの一人が神妙な顔つきで「兄ちゃん」と声をかけてきた。
「南無爺さんな、秋口からいねえんだよ」
「いない……?」
あの頃、俺は何をしていたっけ。
そうだ、アキラ――マーラだ。あいつが好き勝手暴れていた頃だ。
「八十くらいになんのかなあ? まあ年だしさ。どっかの病院か施設か、あるいは家族んとことか戻って世話になってんならいいんだけどねえ」
「そっすか……そっすね」
返事はしたものの、南無爺がこの場所を離れるとは思えなかった。
施設に入る余裕なんて無いだろうし、生家であろう輝夜神社はまさしくここだ。
とにかく、いまは六観音が倒され、あれやこれや肩の荷も下りただろう。
地下に引きこもって資料をひっくりかえしてでもいるかもしれない。
でなければ知識欲旺盛な沙羅に誘拐でもされたとか――なきにしもあらず。
俺はホームレスに会釈し、主なき奥のベンチ、さらにその奥の石碑の前に立つ。
記憶に違わず『輝夜神社跡地』とだけ刻まれていた。
これはただの石碑、石の柱ではない。
南無爺がこれをいじくるとポッと倒れて地下への道が開く、そんな遺跡探検家も真っ青な仕掛けが施されていた。
そんな感じで俺もポッと出来れば話は早い……のだけど。
「えーっと、これどうしたらいいんだ?」
何やら鍵穴らしきものは見つかれど、もちろん俺は鍵なんて持っていない。
とくに考えもなかった俺は、ああだったかこうだったかと、記憶を手繰りながら石碑を触って触って変な感じに興奮してくるほど触りまくっていた。
すると――。
「――え」
突如、石碑は軽くバランスを崩して後ろに倒れる。
足元がかすかに振動し、あれよあれよという間に闇が口を開いていた。
俺が来たことを見透かしたかのように。
「なんだよ爺さん、やっぱいるんじゃん」
さてさて、とうとう六観音を倒すに至ったうぬぼれ話、飽きたというまで聞かせてくれよう。
そんな意気揚々を携えて、携帯電話の光を頼りに進み、突き当りで――言葉はおろか声一つ出ずに立ち尽くした。
資料や怪しげなアイテムがあった場所はすでにすっからかん。
沙羅の仕業だろう。
そんな役目を終えた空間に、役目を終えた南無爺の身体があった。
いつもの服、赤いキャップ。
間違いなかった。
デスクに伸びた手や白髪からのぞく顔はどす黒く変色している。
虫が入ってきていないせいか、肉はジャーキーみたいに乾いていた。
半ナマのミイラというべきか。
眼球らしきものは穴の中へ落ちくぼみ、大きく開いた口には小石のような不揃いの歯が並んで見えていた。
とにかく意思を宿さなくなってから、かなり時間が経過している。
――いつ?
いつ死んだ……?
そう思った瞬間に、背筋に寒いものがゾッと走った。
この時点をして、俺はようやく状況が理解できたのだ。
そうだ。
南無爺は死んだ。
これは死体。
死だ。
人はいずれ、ここに行き着く。
避けられない。
俺も、優月も。
あまり長く見ていて良いものではない。
そんな気持ちが這い上がってくる。
焦りながらも、デスクの上に書き置かれたメモに目を走らせた。
震える文字。何度も何度も重なった線。
ただ短く。
『すまなかった』
と。
この老体は、最後まで謝っていたのか。
辛く長い時間だったに違いない。
「優月はもう……可哀想な生贄じゃないよ。爺さん、あんた許されていいんだ」
もっと早く言えたのではないだろうか。
嘘でも、最初から言うべきだっただろうか。
無念がチクリと胸を射す。
引き返す歩みを絡ませながらも、俺は言葉だけを置いて通路を戻った。
当初の目的であった手記は、手元に残すことにした。
彼が、"呪術にのめり込み輝夜家を捨てた輝夜雪舟"だと断定できるものは、あの場に存在しない方がいいのだから。
地上に戻ると、しとしとと冷たく霧雨が降っていた。
死の匂いを濯ぐように。
さて、警察とか呼ぶべきだろうか。
いやそれとも――と、まごまごとしている間に返答があった。
足元で再び石のこすれ合う音が鳴り響く。
なにごとかと振り返ったところ、入り口が閉じていく音だった。
この場所の存在を誰にも知られまい。
南無爺のそんな意思なのかもしれない。
俺はそれを受け止めて、黙って帰路についた。
それが望まれた弔いのはずだから。
*
――今日も、どこかで誰かの命が終わりを告げている。
日常の果てにいずれ来る優月の死を、俺はどう受け止めるのだろうか。
受け止められるのだろうか。
優月は、失った分を取り返すため自然の摂理に逆らうことを望むだろうか。
望まれるなら、俺はベルトの力を使ってでも……。
輝夜雪舟と同じ轍を踏み、新たな災厄を生み出すとしても……。
だがそれは……死より悪しき者、死を望む孤独の王を作るだけなのでは……。
一人では答えの出そうもない問いを抱えながら、震えながら、足早に望粋荘に帰る。
玄関口をくぐると丁度、優月の部屋から黒電話の音が鳴り響いた。
こんな時間に珍しいと思いながら、もはや鍵のかかっていない部屋に上がり込み、電話に出る。
『禅、あの……』
優月からだった。
『少し、飲みすぎてしまったみたいで……券を使うので、迎えに来て……欲しい……です』
そうは思えない明瞭な口調である。
しかし、これが俺の説教に対する解答なのだろう。
『……だめ?』
「しょうがないやつだな、雨降り始めてるし傘もっていくよ」
『一本でいいです』
「ぁ……あぁ、あいよ」
いつもの華武吹町。
人の営み。
普通の日々。
俺はもう、"いつまでもいつまでも幸せに暮らしましたとさ"なんて、苦しいことから目を背けた、都合のいい大団円を信じ込める年頃じゃない。
絶望から、目を背けてはいけない。





