01. 華武吹戦線、異常アリ-(1)
華武吹町の崩壊がはじまったのは、十一月の最初の日。
その日、俺の通う明珠高校はいつもより浮かれた雰囲気に華やいでいた。
特に、俺のクラスは。
「ねぇ、陽子の曲買った?」
「お布施してやったよ~。ロボットアニメの主題歌になるんだって? 私、アニメよくわかんないけど」
「てかさあ、陽子ほんとにアイドル歌手だったんだ。てっきり体張る系のリアクション芸人になるのかと思ってた。生放送スタジオで捕まえてきたバッタ逃がして追いかけ回した話、めっちゃ好きなんだけど」
「あの子さ、頭小学六年生男子じゃん。小さい生き物見るとポケットに入れる習性あるもんね」
「ファンの人たち、自分たちのこと"お父さん"って言ってるらしいよ」
「えええ、それはちょっと気持ち悪くない……?」
数日前からそんな話で盛り上がっていたが、今日はとうとう明珠高校出身アイドル九条陽子のデビュー曲発売日らしい。
明珠高校は良くも悪くも、素直な生徒揃い。
この通りミーハーかつ祝福のムードに満ちていた。
肌寒い秋風と受験の話題を吹き飛ばすのに十分なパワーを持つ、高気圧ニュースだ。
もちろん、陽子は今日も居ない。
世間は明日から三連休だが、彼女は握手会やイベントで、いっそう忙しくなるだろう。
さすがは「アイドル界の伝説を目の当たりにしている」と謳われるだけある。
美少女おバカキャラに加え、アイドルあるまじきボロを連発しつつも、どんな苦難にも物怖じせず乗り越えていくヒーロー性。
そんなギャップに人は心を掴まれるらしい。
お疲れ気味のこの時代、剛毅を兼ねそろえた偶像を誰もが待っていたのかもしれない。
もはや彼女はみんなのアイドル――いや、ヒーローだ。
伊豆ですったもんだしたなんて……懐かしいどころか、夢みたいだ。
それに比べて、俺は……。
「もう、一週間か……」
住処である望粋荘さえ逃げ出した。
優月という、俺にとってありとあらゆる終着点を失って――失ったもなにも俺が思考停止の末に拒んだのだから、あまりにも傲慢な言い方なのだけれども――俺はただ茫然とネットカフェと、明珠高校の間を往復しているだけ。思考無きゾンビになっていた。
赤羽根は優月や涅槃症候群のことで俺がすっかり参っている……までは知っているし、もとより高校では以前ほど干渉してこない。
そして、前述したように陽子はいない。
だから必然的に、一人ぼっちになっていた。
いわゆる灰色の日常に逆戻りだ。
この現状に至って、わかったことがある。
やっぱり優月は、俺にとって鮮やかさを与えてくれた尊い存在だった。
俺が求めてはいけない、ましてや染めて汚してはいけない女性だった。
そして鳴滝禅は、自己中心で汚らしい華武吹町原生生物だったということも。
どこか安心さえしていた。
俺という煩悩のバケモノから優月を守ることができたのだ、と。
だから、もう二度と気持ちが燃えないように空っぽでいよう、それが優月の幸せで、俺が唯一できることなんだ、と。
そんな薄暗い安心感を抱きつつ、教室内の鮮やかな青春を遠く眺めていると、ふいに黒いセーラー服が視界を遮る。
嫌々に顔をあげれば、大きな眼鏡にハーフアップ、清楚系の……いわゆる男の娘、吉宗千草だった。
「鳴滝くんは陽子のデビュー曲、買った?」
そんな話題だろうな、とは思ってた。
会話自体が億劫だったし、俺は盛大に話しかけるんじゃねぇオーラを出していたつもりだ。
だから、そのオーラを突破してくる吉宗に畏怖を抱いたし、試験の度に助けてもらった身としては邪険にもできない。
「あーっ、今日かあ! あとで買っとかないとだ~!」
俺はとりわけ明るい表情を作り、出来合いの言葉でお茶を濁した。
内心は最悪な気分だった。
ふと、白澤先生もこんな風に無理していたのだろうとよぎったからだ。
俺はこんな醜くて弱くてクソみたいな中身を、もう誰にも見せたくはない。
俺はいっそうヘラヘラと口角をつりあげた。
「ふぅん……?」
さきほども述べたが、吉宗は秀才なのである。
観察眼も優れていれば、単純に頭も良い。
それは人間関係においても同様だった。
「鳴滝くん、そういうキャラだっけ……?」
「そ、そういうキャラじゃなかったっけ? あ、いや、むしろ俺は常にキャラブレし続けることによって空気振動を生み出しているというか……」
「…………」
「…………」
この短いやり取りから何かを察し、ははぁんと尖らせた唇に指を当て、そして胡散臭いほどににこりと。
「今日、一緒に帰ろっか」
俺にはあまりにも痛すぎる提案を仕掛けてきた。
まさかそうくるとは思わず、俺は顔面の筋肉を痙攣させながらも返答に困り果て、とうとう「決まりね」と念押しされてしまったのである。
*
一度、華武吹町方面へ行って誤魔化し、適当に解散。そのあと来た道を戻ってネットカフェへ戻ろうか。
そんなプランで俺は見慣れた帰り道を吉宗と並行して歩く。
数日前まで緑色だった並木もすっかり衣替えして、セピア色の匂いが風に舞っていた。
夏場は求めた日陰、避けていた日光。いまは反転して歩道を選ぶ。
吉宗はいつもどおり。
屈託なく、陽子と会えなくて寂しいとか、弟が進学先に明珠高校を選ぼうとしたから全力で止めたとか、順調に俺の地雷を踏み抜きつつ、さらには胸の詰め物の話までして一人で笑っていた。
そして機を見計らったのか、足を止めて「鳴滝くんさぁ」と改める。
「駆け落ちした……って感じじゃないよねえ」
「はあ?」
自分の口からとてつもなく間抜けな声が出た。
もしかしたら「はあ?」じゃなくて「ぴゃあ?」とか「まぁ?」とかだったかもしれない。
とにかく、俺にはあまりにも唐突で意味不明な問いかけに、意味不明な鳴き声で返した。
どうも話の流れが二、三ステップすっ飛ばされている感がある。
吉宗もその差異を察したのか「あっ」と手を打って説明し直そうとした、まさにその時だった。
二車線道路の向こうから、物騒をさらに研いだような声が聞こえた。
「てんめぇ、見つけたぞ、禅!」
「ええ?」
また俺の口から間抜けな音が出たが、もう何でもいいだろう。
信号無視で駆け寄ってきたのは、髑髏の柄シャツと髑髏のシルバーアクセサリー、タバコを咥えたサングラスのいかにもすぎる風態の男。
なんだなんだと思っているうちに、俺の胸ぐらを掴んでくる。
咥えタバコの先端が目に入る寸前の距離で、氷川さんは凄んだ。
「おい、禅。駆け落ちってどういうことだ、説明してもらおうか、クソガキぃ!」
「だ、誰と誰が!?」
軽快なラリーのように質問を質問で返す。
「あのブスとてめぇだよ! 一緒に消えたくせして、シラを切るつもりか……!」
「……どゆこと?」
「どゆことって、てめぇ――え? どゆこと?」
さらに質問を質問で返したが、やっぱり質問が返ってくる。
情報が見事なまでになにも、一切、完膚なきまでに噛み合っていない。
やがて吉宗同様、氷川さんははっと思い当たったように俺の胸ぐらから手を離し「おまえ、優月と一緒じゃねえのか?」と、別の質問を被せてきた。
優月。
その名前に、心の中核地雷が踏み抜かれ、心臓がどかんと一つ拍動する。
動揺しながらも、俺はなんとか平静とヘラヘラを装った。
「ちがうちがう、俺は……」
「じゃあブスぁ、どこいったんだよ! あのボロ屋ほったらかしだぞ、一週間も!」
「関係ない……っつうか……」
なんでそんな話になってるんだ?
俺は望粋荘にいるのが耐えられなくて逃げ出したんだ。卑怯にも優月を残して、一人で。
でも、優月もいなくなった?
あの優月が、望粋荘をほったらかしにして?
一週間前ということは、俺が出ていった直後?
ああ、クソ。
考えたくない。
「おい、禅! 聞いてんのか!?」
感情が勝ったのか、再び俺の襟首を掴む氷川さん。
その間にまぁまぁと入ってくれた吉宗だが、ふと歩道の進行方向を指差し、茫然とする。
幽霊でも見てしまったかのようなリアクションだった。
「え、えっ……あれヒト、かなっ……?」
そんなただならぬ怯えに、俺と氷川さんも吉宗の視線を追った。
一見して、俺も妖怪の登場かと空目するほど奇妙な光景だった。
黒、白、赤のボロ布の塊が、一本の細腕を頼りによたよたと歩いており、とうとう力尽きるようにアスファルトに沈む。
その正体が、ステッキを支えにかなりの前傾姿勢で体を引きずり歩いていた老人だとわかるまで時間がかかったが、人物だとわかるなりすぐさま像が結びつく。
異様な倒れ方をした老体に駆け寄り表に返すと、やはり見知った顔だった。
沙羅おつきの老執事だ。
生地の分厚い燕尾服はそこかしこ血で汚れ、破れており、何かと戦ってやっとのこと逃げおおせてきた、そんな印象だった。
老執事はなんどか瞬きして穏やかに微笑むも、息絶え絶えに言う。
「鳴滝様……奇遇でございますね……」
「爺さん、無理すんなって!」
「沙羅様……それに優月様が、双樹ビルに……どうか、シャンバラまで……わたくしを……」
「おい、じじい! うちのブスの居場所知ってんのか!?」
優月の名を聞いて氷川さんがのぞき込み大声を浴びせかける。
しかし、老執事は「シャンバラで……待ち合わせているのです」と一点張りだ。
となれば、感情的な氷川さんがこう言いだすのは当然で。
「禅、そのじじいをシャンバラってとこまで連れてくぞ!」
「だから、俺は関係ないって言って……」
「ごたごたぬかすんじゃねえ、関係あれ! てめぇにも知ってること、吐いてもらわなきゃならねえからな! いくぞ!」
だけど、それは俺にとって色々と都合が悪くて……。
ではどうしたもんか、と悩んでいる間に吉宗がタクシーを拾っており、俺はその流れに抵抗できずシャンバラへ向かっていた。
沙羅。
優月。
二人とも双樹ビルに……。
同時に頭の中でよぎるのは。
曼荼羅条約、双樹正宗。
聖観音アーリヤ。
ベルト、そしてすべてのチンターマニ。
結果からいえば、俺の悪い想像はほぼすべて、的中していた。