エピローグ 虚の花咲く夜
俺はただ、紅葉の手紙に刻まれていた――半年間、後回しにし続けていた真実に打ちのめされていた。
カーテンの隙間、窓からは鉛色の光と激しい雨音が染み込んでくる。
その天気の中をのろのろと歩いて帰ってきた俺はもちろんズブ濡れで、今でさえタオルを首にかけてパンツ一枚という恰好だ。
いつも通りなのに、妙に情けなく感じる。
帰路の俺は自分のために傘を差すことができなかったし、帰宅してからの俺も自分のために服を着ることができなかった。
自分のために何をしてもいけない、そんな気がしてならない。
飢餓感を覚えるほど空腹だし、喉も乾いたし、寒い。
手を伸ばせばカップラーメンにも、万年床の掛け布団にも届くのに。
そんな自室での遭難がはじまってからどれだけの時間が経っただろう。
つけっぱなしだった特撮番組が、クライマックスに差し掛かっていた頃だった。
玄関先で人の気配がして、ゆっくりと気遣うように階段を上がってきて、そして……ドアの前で止まった。
俺には誰も救えないのに。
誰も!
救えなかったのに!!
「……禅、おかえり」
優月の声は怒った様子もない。
むしろ、こちらを探るように穏やかだった。
「迎えに行ったけれど、すれ違ってしまったみたいで……余計なことばかりしてしまうな、私は」
余計じゃない。
とってもとっても、駈け出しそうになるくらいに嬉しかった。
でも、それ以上に怖かった。
なにか恐ろしいことが解ってしまいそうで、なにも考えたくなかった。
解らないでいるからこそ、首の皮一枚つながっている。
そんな感覚だった。
「……大丈夫? なにか、食べる?」
しばらくして、テレビの音がするのに返事がないのを不思議に思ったか、背後でドアが軋る。
俺は自室のドアに鍵をかける文化がない自分を恨んだ。
優月はなにを察したのか――そういえば、十一面観音エーカダシャムカと再戦したときも、こんな風にすごく心配してくれていた――すぐ後ろに座ったかと思うと、俺のむき出しの背中に上体を預けた。
セーターの繊維が背中をちくちくと刺す。
「冷たい」
外から帰ってきたはずの優月のほうが温かい。
それくらい、俺は自分のことをほったらかしにしていたらしい。
優月の両手が腰回りに巻き付いて、甘くて優しい温度をわけてくれる。
俺と……そして、ベルトを労るように。
でもそこにベルトは……。
「…………」
くぅん、と自分の鼻の奥から仔犬が鳴くような音が漏れて、それがまた情けなくて、まばたきでは支えきれなくなり大粒の涙が落ちる。
雫はよりにもよって、腰の前で組まれた白い手の上ではじけていた。
「禅……冷えると辛いから。辛いことばかり考えてしまうから……」
何を言われても残酷だ。
俺はこの人に、優しくされたり守られたりする資格なんてない。
俺はどうしようもない煩悩の塊で、ベルトだとかヒーローなんて肩書きを得てはじめて優月と釣り合っていた。
だけど、力を失って欲しがるしかできない醜い俺と、優月の尊い時間が釣り合うはずがない。
こんな俺なんて――ああ、俺はこれに気が付きたくなかったんだ――俺はもうベルトの適合者じゃなければ、優月のヒーローじゃない。
そんな残酷な現実が、優しく背中に張り付いている。
「そうだ、私の部屋に来れば、ストーブも――」
「うるさい……ッ!」
その現実に俺は吠えるのが精一杯だった。
怯えていた。
「……禅」
「ほっといてくれ! 俺、もう戦いたくないんだ! もう、戦えないんだ……!」
長い溜息が俺の首筋を撫でた。
優月の腕はほどかれ、背中の温かさも離れていく。それでも気配はまだそこにある。
テレビから垂れ流される、大団円と勇気を湧き立たせる歌があまりにも皮肉で、俺はとうとうテレビの電源を切った。
陽が落ちたせいか不気味ともいえる仄暗さの中、張り詰めた空気と雨音だけが部屋を満たす。
でも、次第にその音も、優月の不安げな呼吸さえ辛くなってきて、俺は吐き出すように話した。
「……俺、やっぱ向いてなかったんだ。アーリヤにベルトとられちゃったし、憧れてた大事な人と戦って、救えなかった……ちがう、俺は救わなかった! ずっと助けてほしいって言ってたのに、無視して救わなかったんだ……!! こんなヒーローなんてあるか……」
それに、優月のことも。
俺には救えそうにない。
「優月が命がけで守って俺に預けてくれた大事なベルト、無くしておいてさ、勝手で悪いんだけど! 俺、もうヒーロー……できない! 無理!」
「禅――!」
逃げ込むように万年床に入り、頭から掛け布団をかぶる。
放置されていた布さえ温かく自分の体がいかに冷えていたか実感したせいか、場違いにくしゃみが出た。
カッコ悪い、ここに極まれり、だ。
最低だ。
本当に、最低だ。
ありとあらゆる侮蔑が脳裏を駆け巡っては殴りつけてくる。
俺は自分を戒める――いや、許せない自分をいじめることも止められないし、止める気もなかった。
このまま自分で自分をノックアウトすればいい、立ち上がれなくなればいい、落ちるところまで落ちればいい。絶望の海に沈んでいたい。
心底、そう願っていた。
だから、次のシーンはあまりにも不意打ちだった。
布ずれの音が続いたかと思うと、背中側から冷たい空気、それから――温かい感触が文字通り押し入ってくる。
胎児のように丸まった俺の背に、さっき感じていたちくちくしたセーターの感触ではなく、むしろしっとりと、ピッタリと、柔らかさが密着していた。
柔らかくて暖かくて心地よい。
同じボディソープやシャンプーを使っているはずなのに、いい香りがする。
肩に触れた黒髪が、見た目通り絹のようにするりと肌の上を滑った。
狭い暗闇の中で、俺と優月の匂いがまぜこぜになっている。
安堵も不安も。
欲望も絶望も。
全部がひしめき合っている。
やがて、緊張に震える吐息が耳の後ろを通り過ぎた。
優月はきっと、精一杯の勇気でこうしているのだろう。
一方、俺はというと。
こう言ってしまうとあまりにも粗野であるが、身体は正直だった。
勃っていた。
同時に、嫌悪感が吐き気になって湧き上がり軽くえづきさえしたが、俺の中心部でそそり立つ汚れの象徴は主の意思などお構いなしだった。
自己嫌悪の荒縄でぎゅうぎゅうに締め付けられた心と、背後の熱に浮かれた身体の矛盾がどんどん膨れ上がっていく。
「スペシャル甘やかしの添い寝……元気にならない?」
「……ならない」
本当は甘えたい。
わんわん泣いて助けてくれって叫んで、弱音を吐いて、優しい熱に包んでほしい。
だけど、俺にはそんな資格はない。
優しさが痛い。
優月が辛い。
「やっぱり私じゃ……ダメなの、かな。禅を、救えないのかな」
「救うもなにも……優月だって、助けてくれたのなら誰だってよかったんだろ……! 俺じゃなくても……!」
気が付けば、俺は白澤先生と同じことを言っていた。
「そうやってエロいこと期待させたら、俺、バカだからホイホイなんでもやるもんな! 安全な場所で見てればいいもんな! 失うものなんてないってのも、気楽でいいよな!」
さらに思いつくまま、ここぞとばかりに、ああだこうだとなじっていた。
こんな醜い、ヒーローになれなかった自分から離れてほしくて――失望してほしくて。
「は、あははは……あは、ああぁぁ……ッ! これが、俺の薄汚い本性なんだよ! もういい加減、失望してくれ……間違いが起こる前に俺なんて見限ってくれ!」
優月は首を振る。
「間違いなどでは……私にとって……」
さらに肌が重く触れる。
トドメに、耳のすぐ後ろですすり泣く声すら聞こえてきた。
それがまた扇情的で、ぐちゃぐちゃに虐めたい邪悪な気持ちさえ沸いてくる。
俺はこのまま止まらない時間が怖くて、自分を――思考停止するしかなかった。
それから……どれだけ時間が経っただろうか。
俺は暗闇の中でただじっと待って、優月の嗚咽が次第に深い寝息に変わったのを見計らい、布団を抜け出した。
すっかり暗いが手探りの中、身支度を整える。
……優月、さん。
残りの家賃、おいていきます。
あと、最初のわがまま券……反故にしちゃって、ごめんなさい。
全部、すみませんでした。好きなだけ恨んでください。
抜け殻に残した優月にぼそぼそと口の中で謝りつつ、俺は一人で望粋荘を出た。
雨はまだしとしとと降っていて――だから背中に刺さった幼い声はくぐもっていた。
「悪運が強いのね。だけど、事態は最悪最低」
俺は振り返らなかった。
ソラはいてもいなくても同じ。こいつになにを言われようと、未来は変わらない。
「そうよ。私はソラ。お母さんの絶望を見ていることしかできない空っぽのソラ。だけど、いまはあなたもそう」
聞こえていないフリで歩を進める。
とにかく、華武吹町を出よう。
しがらみから逃げよう。
一人で生きていける。
今までどおりだ。
「私たちは影響しない。意思の循環をやめた者は、輪廻の中の消耗品。こうなってしまえば、誰かが運命を変えてくれるのを待つしかできないのよ」
さよなら。
「あなたはそうやって、不愉快な作り笑いを張り付けるだけが精一杯。チンターマニチャクラと同じ、糸の切れた道化人形ね」
だから、ヒーローの話はこれで、おしまい。
おしまいなんだ。
……というわけにもいかなかった。
むしろ、ここからが。
俺にとって、ヒーローの物語のはじまりで――
<第八鐘 壊れかけの煩悩・終> To be Continued!