16. 空蝉
明け方から太い雨音が響き、その日はずいぶんと冷え込んでいた。
朝一番で退院手続きを終え、荷物を抱えてロビーから正面玄関口へ。
自動ドアの向こうでは、鉛色の空から大粒の水が地面に叩きつけられている。
車が水をはねながら行き交う通り。
その信号の先、喫茶店の前にふと視線が吸い寄せられた。
ビニール傘を差し周囲を見回す、ちょっと不振な人影――優月だ。
相変わらず白いセーターにオールドブルーのジーンズ、野暮ったさに加えて少し寒々しい服装で、両手をこすり合わせ、白い息を吐きかけている。
腕にもう一本傘を下げているあたり、俺を待っているのだろう。
駈け出そうとした気持ちを抑えつけるように、様々なことが脳裏をよぎった。
…………。
優月が涅槃症候群。
白澤先生は……俺がやったも同然だ。
ベルトもチンターマニも、全部アーリヤに奪われて……。
…………だめだ、頭が動かなくなる。
考えられない。
「…………」
無意識に俺の足は一歩下がっていて、その無意識に従い、俺は優月を避けるように裏口から病院を出た。
*
「うっわ、ズブ濡れじゃないっすか!」
望粋荘、玄関先。
これから出かけるのか、体格に似合うサイズのボストンバッグを肩にかけた珍宝と玄関で鉢合わせた。
「あれ、優月さんは? 入れ違いっすか? げえぇ、あの人携帯もってないし諦め悪そうだから、あとあと怒りそうっすね」
俺は言葉が出なくて、自分でも戸惑っているうちにくしゃみが二つ三つと出る。
珍宝は顔をしかめながらも「ま、傘ささないヤツよりはしっかりしてるから、大丈夫じゃないっすかね」と、のしのしと玄関をくぐっていった。
いやいや、優月だって雨の中走ったり、横着だよ。
しっかりしてないよ。
俺がいないと……。
俺がいて……優月に何ができるんだ。
そんな思惑が次々に沸いて出たが、弱音を吐く相手などもういない。
俺は水溜りを残しながら階段を上り、あとはいつもの風呂上りルート同じく、タオルをかぶってパンツ一枚で自室の六畳一間へ。
座って、見慣れた風景の中で呼吸が落ち着いて、水滴が垂れなくなって……ようやく気が付く。
望粋荘に人の気配はない。
一人だ。
日光は鉛色の雲に閉ざされている。
風が木々を掻き分ける唸りだけが聞こえている。
心細さよりも、後ろ暗い気持ちが隠される安心感があった。
「……そだ」
だから、背中を押されたのだろう。
俺は、押し入れの奥からLOVE&LIVEと書かれたダサいトートバッグを引っ張り出す。
優月のものではない、半年前に白澤先生から押し付けられた限定版ディスクが入っているものだ。
半年前。
そうだ、俺はこれを……半年近くも放置していた。
白澤先生がなにを考えていたのか、きっともう誰にもわからないだろう。
ただ俺には、あれだけ限定版ディスクを見ろとしつこかったのに、嘘だなんて。
突然意思を翻したように思えてならなかった。
白澤先生の最期の言葉を聞き入れるのであれば、俺はこれを何食わぬ顔で手放すべきなのだ。
だが……俺にはもう、ここにしか白澤先生が残っていない。これに求めるしかない。
後ろめたさは、ある。
でもそれよりも、寂しいという気持ちが上回った。
俺は恐る恐る、四枚組の最初のディスクをプレイヤーにセットする。
内容は俺が想像した通りのヒーローモノで、物語は単調、特撮シーンも安っぽく、よく言えば昔懐かしい、悪く言えば古くさい代物だった。
ヒーローは、熱血で正義漢で、誰からも愛されていて、汚れも弱さも知らず、苦境の末に必ず勝つ。
周囲の人間たちも前向きで、お互いに心の壁がなくて、悩みはあってもすべてヒーローに打ち明けて取り除いてもらえて、彼らは常に活き活きとしていた。
「正反対だ……」
華武吹町というドブの底でもがいている俺なんかとは。
心はえぐられ、這々の体で四枚目のディスクに到達する。
時刻は夕方四時。
窓の外の暗さ、淀んだ気持ちは変わっていなかった。
パッケージを開くと、中から四つ折りの紙が滑り落ちる。
再生ボタンを押したあとゆっくりと折り目を開いてみれば、それは橙色に色づいた紅葉がプリントされた縦書きの手紙だった。
限定版ディスクの付属物にしては違和感があると首を傾げつつ、連なった文字を斜め読みする。
――父は、鳴滝豪。
その文字が飛び込んできて、俺の心臓は跳ね上がるように拍動した。
息を呑み、文字を頭から追う。
いまだ重苦しく打ち鳴る自らの鼓動に怯えながら。
*
『突然こんなことを言い出して困らせてしまうかもしれないけれど、僕を救うと思って最後まで読んで欲しい。
桜の季節、僕は観音菩薩に会って、妙なものを埋め込まれた。
このままじゃ身も心も化け物になってしまうかもしれない。
孤独と罪悪感に押しつぶされそうなんだ。どうなってしまうかわからない、怖い。
罪深い僕の命に意味があるなら、どうか光を灯してくれ。
きみにしかできないんだ。
僕の母は、白澤恵子。
父は、鳴滝豪。
家族として、兄として、きみと話がしたい。
禅、どうか僕を救ってくれ』
*
――。
「ぁ……ううううう……あああぁぁぁぁぁぁッ!」
俺が上げたのは、悲鳴なのか、嗚咽なのか。
恐怖を打ち払うように、大声で叫んでいた。
頭の中でリフレインするのは、白澤先生だった黄金のきらめきが俺に降りかかる、その直前の言葉。
――ヒーローになれなかった僕の、都合のいい幻想なんだ……
――あれ……は……全部……嘘なん……だ……
この手紙は、嘘じゃない。
鳴滝豪の墓前に立つ白澤恵子。
鳴滝豪の面影を俺に見ようとしていた白澤先生。
何も知らず"鳴滝"を背負いながら疎んでいた俺に対する、矛盾した感情。
むしろ、パズルのピースがかっちりとはまるような感覚さえあって、否定のしようがなかった。
白澤先生はずっと、俺に助言してくれてたんじゃない。
助けを求めていたんだ。
「それなのに、俺……」
半年も助けを求めていた人を、俺は後回しにして……無視して……!
自分がヒーローだと思って憧れていた人なのに。
――もしかして。
白澤先生は孤独で諦めて絶望して飲み込まれて、だけど最後の最後にベルトに縛られた俺の宿命を……華武吹町からのしがらみを断って、せめて俺を逃がそうとして……。
「――っあああああぁぁあッ……一人で、悲しんで、背中丸めて……それじゃまるで鳴滝豪だよ……そっくりだよ! どうしてなんだよ……! なんで俺、助けられなかったんだ、それじゃオヤジと一緒じゃないか……なんで……! なんでなんでなんでッ!!」
もちろん、答えるものはない。
ベルトの空転さえも。
吐き気が湧き上がってえづくが何も戻せない。
代わりに急に寒さを感じて、生温い汗が噴き出てきた。
目の前の小さな画面の中では、ヒーローがカッコよく立ち回っている。
思いが通じ合っている。
理想や大義名分や、愛の言葉を簡単に口にする。
"おまえの命に意味がある"って、お互いに光を灯しあってる。
作り物のソレを延々と見せつけられる。
フィクションだとわかっていても、間違ってしまった俺にはその"正解"を受け止められなくて、だけど目を背けることなんて許される気がしなくて、胸の奥が抉られるがままだった。
やがて、玄関先で人の気配がして、ゆっくりと気遣うように階段を上がってくる。
そして……ドアの前で止まった。
「……禅、おかえり」
俺には誰も救えない。
俺には誰も救えない、誰も救えない、誰も、救えない、誰も!!