12. すくわれしもの
地下霊安室に続く、遺体搬入路から秘密扉を抜け、階段を下った。
足音がせかすように先へ先へと響き渡る。
沙羅の話によれば、そこは旧日本軍鉄道連隊が作った秘密保存庫で、終戦後は放棄されていたものを怪仏と三瀬川が利用したらしい。
旧日本軍。
病院の地下。
そんなワードが入り混じる噂話を、俺も聞いたことがあった。
戦後に栄えた地域にありがちなオカルト話だと思っていた。
そもそも五十年前なんて、他人事だった。
灰色の日常を送っていた俺にとっては。
優月と出会って、毎日が鮮やかに色づくまでは。
その優月が、涅槃症候群。
いいや、本当の問題はそっちじゃない。
寿命。
俺はそれを、誰から説明されたわけでもないのに、SF映画なんかに出てくるコールドスリープだとか、ファンタジー的な時間停止とか、そんな都合の良いものだと思っていた。
勝手に、思い込んでいた。
だが優月の命のカウントダウンは五十年もの間、止まっていなかった。
つまり、残された人生の時間はあとわずか。
あまりにも無慈悲な事実を突き付けられ、動揺しつつも、俺は優月が封印されていた地下施設に向かうことにした。
それにしても、自分のことさえいっぱいいっぱいで、何もかもどうでもよくなっちゃって雑に生きていた俺が、いまさら誰かのために必死に希望を見出そうとしているなんて……上手にできるのかな、そういうの。
せめて優月の、そして俺の気持ちが和らぐ痕跡が見つかれば御の字――いいや、そんな弱腰ではいけない。
必ず救う。
力づくでも。
ささやかな日常が、ずっと、ずーっと……続くように、絶望に頭を垂れてはいけない。
逸ってこんがらがりそうな気持ちを抑え込みながら、祈りを込めて一段、また一段と規則正しく降りていく。
その足音を聞いていると、だんだんとネガティブな推測が祓われていくのを感じた。
救いはあるはずだ。
細い階段を下りきると、暗く黴臭い廊下に出る。ここからが噂のエリアなのだろう。
恐る恐る懐中電灯で周囲を照らす。
通路はすれ違うのに不便ない幅、粗いコンクリート造りではあるが天井には一定間隔で電球を設置していた跡もある。
金と人の手がかかった頑丈な施設だったとうかがえた。
廊下の正面には赤錆びた両開きの扉がひとつきり。
手を添えて体重をかけると、軋む音を響かせながらも、扉はスムーズに開いた。
「――ぁ」
室内はすでに電気が灯されており、俺はその光景を網膜に押し付けられた。
遠近感がおかしくなりそうなほど、真っ白な部屋だった。
十メートル四方はあろう広い空間の奥に白い石棺が一つ。それに向かってぞろぞろと伸びたパイプは引きちぎられ、黄色い液体が漏れ出し乾いた跡がある。
ほかにも、手術室で見たような大掛かりな装置がいくつか見えたが、俺はそれらをまじまじと観察している余裕がなかった。
部屋の様相よりも、石棺の上に座っていた白衣の男に目が奪われていた。
右膝を立て頬杖をついていた姿勢。
その隣にも、銀色のヒーローフィギアが同じポーズでちょこんと座っている。
「やっほー、不良学生! ここに来たってことは涅槃症候群について知りたいのかい?」
白澤光太郎は、飄々と言った。
銭湯で偶然顔を合わせたときのようなノリで。
俺は、どこかで自分が眠ってしまい、途中から夢の世界にでも入ってしまったのかと戸惑い、生返事さえ喉に詰まっていた。
「僕知ってるよ。詳しいんだ。教えてあげようか!」
俺が夢から覚めることを模索し、話半分なのもお構いなし。
白澤先生は、さらさらと流れるように唱える。
情報を、押し付けてくる。
「観音は華武吹曼荼羅を壊されたくはなかったんだよ。ではなぜ、巫女を不老不死などにしなかったのか? 単純な話さ、涅槃症候群が観音の技術力の限界だった。不老不死なんて、したくても出来なかったんだよ。意思界の存在である観音にとって、物質界の有機タンパク質のことなど――命のことなど門外漢もいいところだからね。慎重に人体実験を行った末に、ようやく涅槃症候群に至ったのさ。笑えるよね」
「白澤先生、何でそんなことを知って――」
「まあまあ、落ち着いてよ~。輝夜優月のために来たんだろう? 僕だって、きみにきちんと解ってもらいたいことがある」
輝夜優月。
その名前が出ていっそう落ち着いていられるはずがなかった。
全身が総毛立ち、強張る。
もちろん、表情にも表れていただろう。
それでも白澤先生はいつも通り、暢気な調子、愛嬌たっぷりに人差し指を立てる。
「まあ、まずは残念なお知らせなんだけど、涅槃症候群の治し方とか、寿命を取り返す方法なんて誰にもわからないんだよ」
「それは……怪仏どもをとっ捕まえて聞きだせば――」
「あっはははははは! 観音菩薩の道具でしかない六観音には涅槃症候群、ましてや寿命をどうこうする力なんて無いよ!」
「――え」
反り返り足をバタつかせ、笑い声をあげた白澤先生。
何に対して笑っているのか、全然わからない……。
その様は、悪いスイッチが入ってしまった道化人形のようで、滑稽でもあり不気味でもあった。
器用さをひけらかすような大げさな手振りが加わり、嘲笑めいた説明が続く。
「怪仏は、きみたちが考えているよりもシステマティックな存在だ」
「しす、てむ……?」
「そう。怪仏が救済以上の目的を持たないのは、救済のために観音菩薩が作った道具だからだよ。仏を名乗るくせに、チンターマニが割れてしまえば不具合が生じる粗悪なジェネリック仏神……いや、使い捨てのパチモン仏さ! たかがパチモン消耗品が製造者の技術限界を超えられるはずがないだろう?」
「その製造者ってのは……」
「六観音の親玉、観音菩薩。涅槃症候群の糸口があるとするならば――」
「観音菩薩はどこに……!」
糸口という言葉に見事食いついた俺に対してだろう、白澤先生は再びのバカ笑い。
俺はざわつく胸に手のひらをあてて抑え込んだ。
「あーっははははは――急くねえ! ま、残念だけど僕にもわからないんだ。アレは寂しがり屋さんで――依存、執着、甘え――わかりやすくいえばバブみを感じてるんだよ、人間の絶望に。だから観音菩薩は自らを受け入れてくれる、広く、深い意思の空白を求めているんだ。お望み通りの苗床が整えば、沸いて出てくるんじゃない?」
絶望にバブみ、ゆりかご……。
グロテスクな言葉の配列から、濃厚でどす黒い欲望を想起せざるをえなかった。
観音菩薩の動機は『己のために絶望し、思考停止し、盲目的に愛し続けろ』といった、究極的なわがまま。
つまり――というか、やはり救済なんて言葉は、他者の欲望を押さえつけるための建前だったのだ。
いわば寄生者との戦い。
そう考えれば、ずいぶんとわかりやすい。
しかし。
優月を助ける可能性――超ド級わがままを携えた観音菩薩様が姿を現すには、華武吹町まるごと覆う巨大な絶望が必要となる……か。
「…………」
俺の中で暗く凶暴な思惑が頭をもたげたが、たしなめるように白澤先生は言う。
「でも禅くん。輝夜優月の寿命は華武吹町で使っちゃったんじゃないか。きみもその一人じゃないか。使っちゃった寿命を返せだなんて吉原や三瀬川と同じ、過ぎた傲慢じゃあないか、あはは! 皮肉だねえ!」
それは――たしかにその通りだ。
俺はその時間を、平和で、安穏で、つまんない灰色の日々として消費してきた。
「そ、それでも、俺……っ」
過ぎた傲慢。
吉原や三瀬川と同じ。
皮肉。
あまりにも的確な言葉が、俺の喉元を突き刺していた。
結局、言い淀んだ俺に首を振る白澤先生。
そして、もう涅槃症候群については話すことなど無いと諭すように、言葉をかぶせる。
「さて、せーっかく降りてきたんだ。涅槃症候群の他に何か知りたいことはないかい?」
「…………」
質問を誘導されていると、すぐにわかった。
彼の本題は涅槃症候群のことなどではない、ということも。
俺だって、さっきからずっと考えている。
白澤先生は涅槃症候群、そして怪仏や観音菩薩のことまで、部外者の嘘とは思えない密度の話を教えてくれた。
だからこそ、他に知りたいことなど――考えれば他にもいろいろあっただろうが――ただ一つで、俺は頭の中で蠢く疑問を抱えきれなくなっていた。
これこそが本題なのだろう。
「白澤先生、なんでそんなに詳しいんだ。どうして教えてくれるんだ」
白澤先生は知っている。
俺たちよりも遥かに多くのことを。
知り過ぎている。
俺は長いこと、心のどこかでその可能性と疑問を抱き続け、されど見ないようにしてきた。
だが、いまは目を背けることができないくらいに、キナの香りが匂い立っている。
そして白澤先生は――
「さっきも言っただろう? それはきみに解ってもらうためだよ、状況は極めて絶望的だと」
――答え、ケタケタと嘲笑した。
「きみは詰んでるんだ、終わってる。輝夜優月は救いようがないって事実から目を背け、なんとか首の皮一枚でつながっている。湾曲解釈さ! 身を以て知っているだろう? あれ、すっごく鬱陶しいじゃん!」
「…………なっ」
「さ、禅くん。解ってくれたかな。現実を見るんだ。美しくも正しくも、ましてや優しくもない現実を。煩悩も欲望も、そして薄ら寒い希望も差し挟まることが叶わぬほどの……絶望だと」
さらに白澤先生の表情が豹変する。
いいや、変わったのは表情どころではなかった。
その笑みに黒い裂け目が次々に走ったかと思うと、まるで林檎でもむいたかのように、白澤先生の顔がほどけていく。
帯状になった顔の隙間から、人間の頭サイズの黒い玉が――チンターマニが現れた。
「最初から絶望していた僕には人格支配が起きなかったけどね、その分、人間の皮をかぶり続けるのは面倒だった。これでようやくおさらばだ」
同じく手足もほどけ、服の袖口からは帯が垂れ下がっており、まるで空っぽの中身を隠すために白澤先生柄の包帯を巻いていた、そんな有様だった。
ほどけた帯は黄金色にきらめきながら、宙に三対の手を作る。
白澤先生の形状を解いて脱ぎ、代わって神々しい黄金色の御手とチンターマニの姿を見せた――怪仏。
「我が名は如意輪観音チンターマニチャクラ。煩悩を切除する者なり」
巣食っていた者はそう名乗った。
違和感なく、明瞭な声色で。
もう怪仏化が完了しているのだ。
探していた最後の怪仏――ちがう、むしろ……最初から医療施設が疑われていた。
如意輪観音チンターマニチャクラこそ、最初の怪仏なのだ。
黄金の手がよどみなく甲を向ける。
そしてソレは、手術の術式宣言のように言った。
「これより、煩悩執刀を開始する」