10. 腐敗の王、銀の蠅-(2)
ブチ抜かれた上階の天井に張り付く肉ムカデ――千手観音サハスラブジャが妙な真言を唱える。
「オン シャレイ バザラ ウンタラ カンタラ ソワカ! あ、あひゃあ!」
割れたチンターマニを媒介にした壊れた怪仏。
こいつ、まさか……。
「バグってて真言、唱えられないのか!」
反射能力のない怪仏サハスラブジャ……そんなモン、怪仏の中でも雑魚オブ雑魚!
畜生、チャージしていたエロビームをブッ放しておくんだった!
いや、今からでも!
――反撃開始だ!
「おとなしくしとけ、すぐ決着つけてやる……!」
「はひぃ、はひぃ~! 怒りの煩悩で血圧が上昇中~! この中にお医者様か仏様はいらっしゃいませんカ! 呪われた進化、ウッ! 助けて、助けてぇ!」
「どっちもてめぇだ! わけわかんねえことばっか言いがって!」
ベルトに手をかざす。
少なくとももう一枚天井を抜くことになるが、いまさら被害総額なんていってられないし、当然、責任問題から逃げ切るつもりだ。
だが、サハスラブジャはぞろぞろと指や手をうごめかせ、天井を這い俺の視界から消えた。
姿が見えなくなるやいなや「看護婦さん、看護婦さん~! 大変なんデス~!」などと厚かましく呼び掛ける。
上階だ。
確か、そのフロアにあるのは院内カフェテラスや……ナースステーション。
「い、院長! 下で何があっ――ひゃあああぁぁぁッ!」
サハスラブジャを追い、上階へ乗り上げる。
見渡せば、昼間のにぎわいが嘘のように静まり返った廊下。
命の危険、緊急事態とは最も無縁なはずのフロアで、緑色の光を浴びた多腕のバケモノが、昏倒したナースに襲い掛かるところだった。
「今度は手加減しねぇッ!」
ついさっきまでおっかなびっくり歩いていた廊下を、獣じみた手足でのギャロップで駆け抜け、助走――からのドロップキック!
腕の何本かが盾になったが、それでもサハスラブジャの体は浮いて、二転三転しながら廊下の突き当りへ。
「逃がしもしねぇぞ、覚悟しろ!」
再びベルトに手を添える。
サーキュレーターが勢いよく回り始めたそのとき。
闇の奥からくぐもった声がした。
「おぉお、救済を成し得ぬまま消えるのは、嫌ダ! やっぱり怪仏になるより、涅槃症候群がよかっタ! 輝夜の巫女と同じがよかっタ……! 巫女、ずるい、ずるい!」
――輝夜の巫女?
優月だ。
俺の頭の中は一瞬にして疑問符の群生地帯となった。
なぜ今、優月の名前が出てくる?
その言いぐさ、まるで。
優月が涅槃症候群だというような。
若さ。
健康。
アーリヤ曰く、どれでもない。
でも優月に巣食っている?
涅槃症候群って、なんだ。
華武吹曼荼羅と関係があるのか……?
その色彩が脳内でフラッシュバックした瞬間、いままさに解き放とうと構えていた煩悩ビームはキャンセルさせられていた。
代わりに、俺は闇の中にうずくまる肉ムカデに投げかける。
「おい、涅槃症候群について教えろ」
「涅槃症候群……! ひひ、あれは良いものダア! 昔、怪仏どもと妙な人体実験をシタ。病気のガキどもを黄金の液体に漬けタ。ほとんど死んダが、ガキが一匹生き残っタ。巫女も同じように黄金のヅケにシタ。今も、生き残ったガキはガキのまま、巫女は巫女のまま、つまり――」
意外にもペラペラと喋ったな……と驚いていると、岩を砕くような重い音とともに、視界が陰る。
背後に気配を感じてはっと振り返れば、そこには大きな手のひらが迫っている。
まずい、対処できない――と、諦めが過るのと同時だった。
赤い光が閃き、迫りくる手のひらの指が五本分、宙を舞っていた。
「おおおおオオォおおおおッ!」
正面のサハスラブジャが人間とは思えぬ低い咆哮を上げ、口から黄ばんだ液体をばらまきながらのた打ち回る。
ヤツの足元には大きな穴。
そして、俺の背面にも。
こいつが喋っていたのは時間稼ぎのためだったらしい。
その間に、尻尾で床下に穴をあけ、下階通り俺の背面まで近づき、隙を見て――って算段だったのだろう。
「真言を唱えられないクセして、姑息な嘘つき戦術だけは健在か……!」
サハスラブジャは手負いの肉食獣のように吠えるばかり。
代わりに応えたのは、緑と黒の世界の中に気障ったらしく浮かんだ、赤いヒーロースーツだった。
「その姑息な雑魚の始末に迷いがあるならどけ。俺がやる」
ジャスティス・ウイングは上段に構える。
「待てよ、こいついま、優月が涅槃症候群だって言ってんだ、吉原が言っていた妙な病気! 何か知ってんぞ! 拉致して監禁してタコ殴りにしてでも聞き出して――」
「生かしておいても被害が広がるだけだ」
「アーリヤに聞いて素直に吐くと思うか!? ちょっと頭パーになっちゃってるけど、こいつから聞かなかったらあと如意輪観音一体だけになっちまうだろ! そいつが口割らないヤツだったらどうすんだよ! 涅槃症候群、怪仏が人間になにかひでぇことした結果なんだ! 治す方法、聞き出さないと!」
俺の言葉の途中からだった。
ジャスティス・ウイングは低く居合い抜きの構えに変えて「アキラ」と闇に呼び掛ける。
その返答に、黒い稲妻の矢がどこからともなく撃ち放たれ、サハスラブジャの腕をすべて射抜いていた。まるで昆虫標本だ。
そして、赤い軌道が走り、磔にされたサハスラブジャの体から三瀬川院長の頭が切り離されるのは直後のことだった。
「な……ん」
これから涅槃症候群について聞き出さなければならない相手の頭部が、ごろん、と転がり、重油のように溶けていく。
その黒い淀みさえ消えると、二つに割れたチンターマニが闇の中に浮き彫りになる。
次の瞬間には、しゃらんと。
まるで、まさしく見計らったかのように黄金錫杖が一つ響き、白いシルエット――アーリヤが泥棒猫のように持ち去っていた。
俺は大嫌いな音に対しても呆然として、何もできなかった。
いや、いまの俺にはそんなことどうでもよかった。
「――おい!」
何よりも先に、俺はジャスティス・ウイングの肩を掴んでいた。
「なに勝手してくれてんだよッ! 涅槃症候群のこと、聞き出さなきゃいけないだろ! 優月が妙な病気かもしれねぇって言っただろ! どうしてくれんだよ!」
「…………」
「……なんか言えよ!」
ジャスティス・ウイングは顔を背け、答える気がなさそうだ。
だが、俺も引き下がる気はなかった。
凝り固まった静寂の中に、「おー、いたいた!」と聞き覚えのある間延びした声が響いた。
軽快なヒールの音とともに登場したライダースーツの女――沙羅の表情は近づくにつれ、険悪な雰囲気を察したか「ちょっと、やめなよ!」と割って入る。
「やめるか! 優月が病気かもしれないのに! こいつ!」
「サハスラブジャが涅槃症候群について喋ったらしい」
俺とジャスティス・ウイングの言葉を同時に聞き取ったか、沙羅はらしくもなく破壊跡と俺たちの間で目を泳がせ、そして顎に手をやった。
結果、なだめるように両手を俺の肩に置く。
「禅ちゃん」
なんだなんだ、まるで俺が聞き分け悪いみたいな扱いじゃないか。
「いいの、大丈夫」
「いいわけあるかよ!」
「いいの!」
沙羅は再び視線を泳がせ、その中でジャスティス・ウイングとやりとりがあったのか、頷き、重苦しく唇を動かした。
「沙羅たち知ってるから……涅槃症候群のこと……」
「…………は」
知ってる?
「ゆづきちがその病気だってことも……」
「ちょっとまって、お前……お前ら……え、なんで?」
「話す、話すから……」
沙羅と赤羽根の間で、再び視線が行き交う。
その仕草で、俺が蚊帳の外にされていたことを知り、心中穏やかではいられなかった。
だが、その心中は穏やかでないどころか塗り潰されることになる。
呪われた、華武吹色に。





