07. ドキドキ☆深夜病棟-(1)
「なんで俺一人で夜の病院ン中、徘徊爺さん追いかけまわさなきゃいけねえんだよぉ……夜の病院はエロワードじゃないのかよぉ……」
三瀬川病院の消灯時間は夜九時。
華武吹町には浅すぎる時刻だが、病院内はすっかり闇と静寂に包まれていた。
自分のつぶやきすら、この静寂にはよく響く。
えてして、三瀬川院長の黒い噂を掴んだ俺は、意気揚々とお仲間のグループ通話に電話をかけ「先生、出番です!」と言わんばかりに――というか実際言いながら、沙羅と赤羽根にご報告差し上げたが、知将も武将もノーリアクション。
それどころか、証拠が無ければどうにもできない、証拠がないなら拉致してこい、などとあろうことか俺に面倒を押し付けてきたのである。
実際、俺と沙羅と赤羽根とペットの魔王で三瀬川院長一人を尾行するという絵ヅラはシュールすぎるのだけど。
さて、と。
愚痴タイムは終了。
ギプスを外し、パジャマ姿のまま廊下に出る。
右も左もまさしく不気味な夜の病院、怪談の世界だった。
闇に紛れるため、照明は持たない。
非常灯の緑色がリノリウムの廊下に反射しており、人影くらいは捉えられる明るさだからだ。
これを幸か不幸かといわれれば……俺の場合、不幸だ。
ここは敢えて率直に言おう。
こわい。
中途半端に見えているからこそ、恐怖と警戒心と緊張がこんがらがって頭が働かない。
赤羽根が「アキラなら行ける」と提案してくれたのだが、つい反射的にお断りした――ことを後悔している、そのくらいこわい。
なにせ、俺が恐れている相手は理不尽な憎しみを向けてくる上に物理攻撃が効かないと、相場が決まっているのだから。
俺はただただ、緑と黒の視界の中にそれが見えないよう祈りながら一歩を踏み出した。
ぺちり、とわずかな足音の振動があるだけで、静寂は淡々と続いている。
「…………」
もう片方の足も踏み出しても同じ、この闇と静けさになんら影響がない。
深呼吸。
…………。
俺は冷静だし、いつも通り頭も冴えわたっている。
夜の病院というワードにホラー味を覚えるからいけない。
夜の病院、それはエロスの世界だ。
めくるめくエロが俺を待っている。
――よし。
行こう。
胸に置いていた腕を振り下げたところだった。
手のひらが見事に着地した。
不自然な丸みのあるものに。
「…………」
俺とてその場所に何もないと思っていたからこそ、用心なく手を下げたのだ。
それでも、その場所にはあった。
思いもよらぬことが起きていることはわかりすぎるくらいにわかった。
だが、その意味が、わからなさすぎるくらいにわからない。
だって、その感触といったら……。
ざらついた糸の束……この感触は髪だ。
それからバレーボールくらいの丸み。
これ……頭頂部、だな。
人間の。
病院の廊下に一人ポツンとたたずんでいる俺の手は、俺以外の誰かの頭頂部に触れているのだ。
非常灯の緑、シルエットの黒。
そんな視覚から入ってくる情報など、もう怖くはなかった。
俺の手のひらから駆け上ってくる理解不能な感触にただ目を見開き、呆然とその場に固まっていた。
考えようとしても、思考のとっかかりがなかった。
俺にはどうすることもできなかった。
「ねえ」
か細い声が俺の隣から廊下の先へと通り抜けた。
死ぬかと思った。
もしかしたら、死んだかもしれない。
少なくとも生きた心地はしなかった。
気が付けば俺はリノリウムの床を十メートルはヘッドスライディングしていた。
心臓がバンバンと内側から飛び出そうと暴れているので、やっぱり生きているらしい。
多分、叫んではいない。叫べなかった。
「寂しがっているのよ」
声の主は音もなく俺を追尾したのか、今度は頭の上から聞こえた。
視界にはピカピカの黒い靴。
くるぶし丈の白いくつした。
ふとそのさらに先の想像がつき、顔が歪んでいるとか、実は別人でしたとかの展開に怯えつつも、俺はゆっくりと視線をあげた。
黒いワンピースの女の子――知っている顔だ――ソラが立っていた。
俺を冷たく見下ろしつつも一方的にしゃべりかけていた。
「アレは人の中に入りたがっている。寂しくてぬくもりを求めている。だから虚空、人の心の空洞を作り出そうとしているの。自分が入り込むための。忘れて欲しくないのよ。誰だってそうでしょ。死が怖いの。消えていくのが怖い」
「…………」
ロリコン諸兄には申し訳ないが、俺はロリコンではない。
大は小を兼ねる然り、年上派であるし――ようするに幼女だからといって特別甘い対応はしないのである。
こいつ……次、同じような登場したらシバいてやる……。
などと威勢の良いことは言えず、俺はただ転がりながら奥歯をガタガタいわせて震えていた。
せめて、涙腺と鼻孔と膀胱から水分が抜けださないよう力んでいた。
半ば放心状態だった。
「忘れ去られることは死。期待も欲望も向けられず、誰とも意思を通わせられない。肉体の死、記憶の死。孤独。無意味な自らの存在、大事なものを残してこの世を去る不甲斐無さ。それらに抗えるだけの光が無いまま、無明の闇に消えてなくなることは怖いのよ」
えてして、ソラの電波語りが垂れ流し状態だった。
しばらくして心身ともにすでにボロクソだが、なんとか立ち上がり、俺はソラに手を差し伸べる。
「ソラちゃん、夜の病院は怖くないのかい? お兄ちゃんが一緒にいてあげようか?」
「無意味だわ。私はソラ、空疎のソラよ。形はあっても運命は伴わない存在。あなたが井戸やらテレビから出てくる女の幽霊に呪い殺されようと、全体的に白い母子に縊り殺されようと、私は干渉出来ないもの」
「具体例を出すんじゃねぇええぇ……ッ!」
「それに……あなたは今夜、もっと恐ろしい目に遭うのよ」
言いながら、ソラは廊下の突き当りを指し示す。
非常灯の緑色の中で、黒いシルエットが階段を下り、この廊下に立ったところだった。
「来たわ」
「――!」
咄嗟にソラを抱えて、そのあたりの部屋――というか男子トイレに入り込む。
よくよく考えてみれば、ソラは隠す必要はないのだろうが、この状況で女の子一人廊下に取り残すほどチキンでもなければ、ひとりで暗い男子トイレに隠れていられるほど勇気があるわけでもなかった。
ソラは人形のように大人しく俺に抱えられたまま動かない。
俺も息を殺しながら、じりじりと近づく気配を探っていた。
やがて、息苦しそうな呼吸に混じって「若さ」「命」とくぐもった声が近づいてくる。
ずんぐりむっくりした影は揺れながら廊下を塗り潰し、とうとう実体が姿を現した。
予想通り、三瀬川院長だった。
「若さ……死にたく、ない……疎まれたまま、消えたく、ない……尊敬される医者でなければ……涅槃症候群……命を……」
歩行……というよりも、体を引きずるような速度で男子トイレ前を通り過ぎていく。
その様は俺でなくてもぎょっとして身を隠すに違いない。
相手が人間だとわかっていても、厭なものを見てしまったと後悔するような不気味さだった。
まるで、白衣を着たイボガエル人間だ。
「よし、追いかけよう」
俺はソラの手を握る。
もちろん、心細い思いをさせてはいけないという親切で。
「勝手にどうぞ」
しかし、無常にもソラの手はするりと抜けた。
「私はさよならを言いにきただけよ」
「……は? 今? それ今じゃなくてもよくない? あと小一時間付き合ってくれてもよくない?」
どうせまたパラレルワールドネタなんだろう。
「あなたは絶望するわ。あなたが絶望すれば、愛染明王があなたを押し潰すでしょう? 可哀想に。さようなら。また別の可能性世界、また別の華武吹町で会いましょう」
いやはやどうも、俺たちの事情を知っておきながら核心を獲ない思わせぶりな言葉。
はっきり言いやがれってんだ。
「わかったわかった。おちょくりに来たのなら残念だったな。相手が人間だとハッキリわかった以上、おまえが楽しめるほど俺はビビらな――」
よそ見――いや、まばたきの刹那だった。
ソラの姿はそこにはなく、ただ小窓からの月明かりが淡く射しこんでいるだけだった。
「……ったく、そう簡単に絶望するわけ――」
言いかけて、ふと以前に入院したときのことを思い出す。
あの時の俺は、絶望していたのだろうか。
じゃあ、あのクソガキ兄弟は?
その母親は?
「…………」
今考えても仕方ない。気が滅入るだけだ。
こういう陰気なことを考えていると、悪いものが寄ってくるって言うしな。
頭を切り替え、距離をとりつつ、俺は三瀬川院長の後を追う。
神出鬼没のアキラはこない。
神出鬼没のソラはもう消えた。
追っているのは、今にも死にそうだが、一応生きた人間の三瀬川院長。
これ以上、恐ろしいことは起きないだろうと思えば容易いものだ。
三瀬川院長が階段を下りていき、二階へ。
どこに向かっているのかと思えば、より暗い廊下を突き進み、あろうことか中央手術室に入っていった。
手術室。
人が命をつなぐ場所でもあれば、終える場所でもある。
最悪だ……。