プロローグ、っていうか今回の煩悩 Yearning is XXXXX
目を開いても一面の暗闇だった。
窓を叩く雨よりも、ギシギシと軋めく音が大きく不安がよぎる。
十月。
それは遅い嵐の夜だった。
「優月さん。ここ、ぐっしょり濡れてるんだけど……」
「……そんなこと、ない、です」
言葉とは裏腹に震える優月の声。
本当は怖がっているに違いない。
俺だって、怖い。
でも、それ以上に。
優月をいじめたい気持ちが上回っていた。
パーカーのポケットに入っていた携帯電話を取り出して手探りに操作する。
薄ボンヤリとした液晶の光に続いて背面ライトが点灯、すでに黒ずんだシミと、そのありさまを必死に隠そうとする優月の白い両手がありありと照らされた。
強い光に目を逸らしながら優月は悔しげに唇を噛み締めている。
「ほら濡れてる、よね……?」
「…………」
「この下、どうなってると思う?」
「……聞くな、ばか」
「写真撮っていい?」
「それは……ダメ! 見つかったら……大変なことに……」
「優月さん……」
ぎぎっ、とまた大きく軋む音に優月は身をすくませた。
俺もこんな切羽詰った状況が長引くのは望んでいない。
久々に悔しげな顔も見たし、いじめるのもこのくらいにしておこう。
「俺もこういうのはじめてなんだけど……」
水源を見上げて確かめた。
どう扱っていいかわからないけれど、もう引き返せない状況だ。やるしかない。
「俺、男だから。上手にできないかもしれないけれど……こういうときくらい頑張るから……」
覚悟を決めたか、敗北を認めるように優月は呟いた。
「お願い、します……」
それを受け俺はうなずき、そして――パンツ一枚に半透明レインコート、片手に携えるは懐中電灯という珍妙な装いで望粋荘の外に出た。
「うわあ……」
ほんのちょっとだけ後悔。
玄関先すでに、びゅうびゅうと雨風が横殴り。
ころんころん……と、どこかで木材が転がされている音が響く。望粋荘の屋根とかじゃねえだろうな。
遠いネオンの光は健在だが、客足が見込めないせいか普段より控えめだ。
華武吹町の商魂までもを萎えさせる秋の嵐、恐るべし。
そんな歴史的嵐に見舞われた木造築六十年の望粋荘はというと、だ。
風の強まった夕方から軋音を騒々しく上げ続け、あまつさえ雨漏り、漏電からの停電と、集合住宅トラブルが目白押し。
真夜中にもかかわらず廊下では、管理人が雨漏りの水でいっぱいのバケツと床にできたシミの前で、打ちひしがれていたのも頷ける。
そこに尿意で目覚めた俺が登場、廊下に黒髪を垂らして唸る女を見て絶叫し、危うく十九歳にして別のシミを作りかけたものの、ここで望粋荘の異常事態に気が付いたわけだ。
と、いうことで屋根修理にとりかかる。
「とられたチンターマニも戻ってきたわけだし、何より優月は一人じゃなんもできないからなあ~。やっぱ俺がいないと優月はダメだもんなあ~」
当人がいないからこそ、恩着せがましいことを言ってみた。
意外と気分がいいものである。
そんなこんなで、物置を漁ってみれば、意外にも工具やのこぎりが出てくる。
中には男の名前が入ったものもあり、不特定多数の人間が道具を持ち込んだように見受けられた。
大家のばあさん、もしくは今までの住人達が大事に修繕しつつ、愛されて六十年ってことなのだろう。
その歴史もあと数か月で幕を閉じると思うと感慨深いな……。
いや、運が悪ければこの嵐で幕を閉じるかもしれないんだけれども。
そのくらい限界寸前なのだから、取り壊されて当然なのだけれども。
「ま、俺の応急処置でも文句ねえだろ」
埃の下から引っ張り出した板やブルーシート、そして誰かが残した工具箱を担ぎ、いざ屋根へジャンプ。
もちろんこれは俺が大嫌いなヒーロー補正の跳躍力と安定感だが、こちとら生活がかかっている。
あるものは使わせてもらいましょう。
瓦屋根にブッ刺さった木材を抜き取り、素人ながらトンテンカンとやって、応急処置とした。
漏電の方は俺の手に余るので、とりあえずブレーカーを落としたままとする。
どうせ原因はデカブツ機械を持ち込んでいる天道さんだし、あのジジイはデカブツ予備電源持ってる。
その上で俺たちに電力を譲るつもりもなくコソコソと引きこもっているのだから、文句が言えるはずもないだろう。
俺にできるのはこのくらいかな。
案の定、レインコートもむなしくズブ濡れになりながら玄関口に戻ってみれば、心配顔の優月がバスタオルを抱えて待っていた。
「あ、おかえり」
「あ、ただいま」
いろいろ歴史はあったかもしれないが、俺にとっての望粋荘はこの感じ。
玄関あけたら優月が待っていてくれて……ほっとする。
「禅……よかった。いや、あの……ありがとう」
深夜の暗闇のせいか、優月は自然と声を潜めていた。
俺もそれに倣う。
「超感謝して。つっても、まだ垂れてきてるし、明日にはまた雨水でバケツいっぱいになってそうだけどさ。建物そのものが風でぎぃぎぃ軋んでるし……ほんと、これじゃお化け屋敷だよな。いやあこうなったら鉄筋コンクリートでシャワールームと大きいベッドがある場所に逃げちゃうってのも――」
「逃げはしない。大家に申し訳が立たない」
「あ、はい……」
「……禅、私にも意地がある。不安などと弱音を言っていられない。望粋荘は私が守らないと……」
表情が張り詰めたままの優月。
言葉とは裏腹にネガティブな感情が渦巻いているのだろう。
正直、俺ですら本当に倒壊する可能性があるんじゃないかと思っている。
とはいえ、優月にとって望粋荘は初めて自分の人生を歩み始めた場所で、二度目に守ると決めた場所だ。
来年にはもう取り壊しが決まっていても、今度こそ立派に守り手の任を遂げようという思いが強いのはよくわかる。
そいじゃおやすみ、なんて他人事に言えるはずもない。
で、あるからして。
俺は実に合理的な提案を述べた。
バスタオルを受け取って距離が縮まった瞬間、耳元を狙い定めて。
「……俺の部屋、くる?」
もちろん、誰もが知っているとおり俺は紳士だ。
こんな恐ろしい状況でナニをするって気持ちなどない。
他に住人だっているし、こんなに建物が軋んで騒音を立てているわけだし、常に暗いわけだし。
何かするもしないも、何かあっても何も無いことにできちゃうので、実質何もしていない、そういうことにも出来よう。
つまり、何もなかったことにできる、そんな大チャンスなわけだ。
優月は「禅が怖い、と……いうのなら……考えなくもない、が?」と曖昧に聞き返して、俺から懐中電灯をむしり取る。
そして表情が見えないようにか、足元を照らしながら水気を拭うのを待っていた。
「怖い、怖いなあ~……スペシャル甘やかしの添い寝がないと寝付けないくらいどころか泣いちゃうくらい怖いなあ~……」
「そう……その仕方のない、やつ。仕方ないので、私が……そばにいて守ってあげなくもない」
「ぬへへ、うんうん~」
意味の無かったレインコートを玄関口に置けば、いつもの望粋荘ユニフォームの俺。
以前ならこの状態さえ文句タラタラだったのに。
距離、縮まったよなぁ。
いや、諦められてるのか?
いずれにしろ受け入れてくれるなら嬉しいし、できるなら身体的にも受け入れてもらったという既成事実をね。確かな証拠をね。
そんなことを思いながら優月が照らす階段をのぼっていた。
まるで、これがオトナへの道であるかのように、一歩、また一歩と。
二階への段差に、優月が足をかけたところだった。
前方を照らした懐中電灯の光の中に、ふっと不気味な記号が目の前に浮いた。
目。
目。
鼻。
口。
人間のそれだ。
パーツだけが切り取られたように暗闇に浮き上がっている。
しかし、それらはすべて、笑っていた。
「っひ――」
ワンテンポ遅れて優月の金切り声。
その最中、懐中電灯はその手からこぼれ、転がり落ちていく。
暗闇。
俺にわかるのは上段から何かが落ちてくる気配だけだった。
「優月!」
俺は咄嗟に両手で階段を塞ぎ、受け止める。
ズシリと重い衝撃が体を押し――まさしく二転三転するまま懐中電灯と同じ運命をたどる。
上下錯乱した重力が背中を打ち付ける衝撃でフィニッシュ。
七色に瞬く意識の中で、俺は必死に受け止めた温かい感触を探っていた。
優月さん……。
優月……。
やっぱ、着痩せするタイプというか……想像していたよりも、かなり豊満だな。
もしかしてこれは沙羅に負けずとも劣らないのでは……?
その肉と肉の谷間に……茂みがもじゃもじゃと、コレは――。
「いやぁあん! 禅くん、やめるっすーッ! 目覚めちゃうっすーッ!」
「うボぉげぇええぇあぁぁあッ!」
防衛本能から突如、視界はクリアになる。
先に転がり落ちていた懐中電灯が照らし出したのは、俺の腕の中の優月――ではなく脂ぎった巨漢だった。
屋内だろうと風呂だろうと覆面マスクを外さない、なんなら本名さえ不明な意識高い系プロレスラー、マスクド・珍宝だ。
悪いヤツではないし、むしろ望粋荘の中ではもっとも良識派で俺も幾度となくフォローされてきたが、ソレとコレとは話が別。
「なんかベタベタする!」
なんかベタベタする珍宝をわきに投げ、無駄だとわかっていながら体の前面に張り付いた汗の感触を拭おうと両手で全身を拭う。
優月の汗なら何杯でもどんなに気色悪いと罵られようとペロペロゴクゴクいけそうだが、ええい、野郎の汗と体温だと思うとそれだけで気色が悪い!
「禅、珍宝、大丈夫か!? すまない、やられるまえにやらねばと思ってちょっと小突いてしまった! 禅を守ることも秒単位でままならないなんて……不甲斐無い……私の役立たず……私の無意味……」
「ちょっとじゃないでしょ、かなり低めのいいタックル入ってたっすよ、あきらかな全力を感じたっすよ! ひどいっす、お礼言おうと思っただけなのに!」
「面目ないごめんください」
動揺からか、盛大に日本語を間違えながらよたよたと階段を降りてくる優月。
そんな姿も俺には後光が射して見えた。
一刻も早く、本物を揉ませてくれ……。
脂ぎった悪夢の記憶を上書きさせてくれ……!
「ファイトー! オッパーツっ!」
俺はやや邪念が混じった気合とともに立ち上がっ――立ち上がれなかった。
「……ぇ」
右足に力が入らない。
どうも、ふにゃりと姿勢が崩れてしまうんだが――と、足元を見てみれば。
まさしく、ふにゃりと折れ曲がっていた。
それどころかアケビのような青紫色に熟れていた。
え、これ足?
俺の?
本当に?
本当にそうなのですか?
自覚。
そして、劈くような熱が駆け上がってきて――。
「んぎゃああぁぁぁぁあああッ!」
その後のことは、頭が真っ白になってほとんど覚えていない。
痛いとか、怖いとか、優月、おっぱいとか、そういうことは口走ったかもしれない。
知っている事実を組み合わせた話の上では、珍宝による応急処置の末に俺ははた迷惑にも嵐の中を救急車で搬送されたのだ。
皮肉にも、曼荼羅条約に一席を置く、三瀬川病院に。