エピローグ 夜明けの盃、坂の月
シャンバラを抜け出し、さらなる厄介を避けて二つほど遠いコンビニに入ったものの、俺はATMの前で長いこと首をかしげることとなった。
数字がおかしい。
俺が想定していたものと違う。
ほぼスッカラカンだった残高の先頭に「七」という数字を見て俺は疑問に思った。
三十万の依頼。
俺と赤羽根の二人で割って十五万、ボーナスがついてもせいぜい二十万。
だから先頭の数字が「七」になるはずがないのだ。
何かの間違いで、十五万が半分とかになっていなければ!
待った待った。
吉原が倒壊してお蝶さんの財布にもダメージがあるなんてことは予想できる。
でも約束は約束なんですけど。
第一、アキラ相手とはいえ俺は危ない目にあっているし、怪仏だって倒した。
お蝶さんの護衛任務はきちんと果たしたんだ。
――ということでクレームの電話を入れたところ『よく数えんか、ボケナス』と怒られてしまったのである。
「壱、十、百、千、万……十万」
七十万。
七十万円。
つまり、日本円にしておよそ七十万円。
「え……怖ぁ……」
庶民の感覚としてはまっとうなリアクションのはずだ。
『最初から言ってたろうに、一人三十万だろう?』
一人三十万!?
『眼鏡クンは"自分は好き勝手やっただけだから貧乏猿に払っておけ"って言うからさ、ボーナス込み込みで振り込んどいてやったよ』
赤羽根がまさかの報酬放棄!?
『なんだい、不満なのかい?』
「そのようなことはございません、決して!」
なんだなんだ、一人頭の勘違いは俺の貧乏感性が見せた幻想だとして、赤羽根までツンデレのデレか?
不気味ではあるが、赤羽根は金に困っている様子も無ければ、欲が無いのも確か。もらえるものはもらっておこう。
俺の顔面がにやにやとふやけたところだった。
『そう。ならそういうことで――あ、そうだ。夜遊び不良少年、お気をつけ』
お蝶さんの声が硬くなる。
『下締めである曼荼羅条約が半壊した今、華武吹町の金の巡りがちょいと怪しくなりそうだ。曼荼羅条約についていくか、それとも剣咲か風祭の下につくかってね。商売畳んで逃げるヤツもいるだろうから、貸した金があるならさっさと回収しておくんだよ』
「ご忠告どうも。借りた金はあっても貸した金はないから安心だぁ」
『そうかい、まあそうだろうね』
そんな会話で通話が終わり、俺は一息つくと――ついたのに、震える指で入るだけの金を財布に移植した。
大金じゃ~!
*
そして、本題。
大決戦のディナー。
街中とは異なる、静かな賑わいに慣れていない自分が情けない……。
コースでも五千円程度のイタリアンレストランの個室は、落ち着いた照明と静かなBGMが取り巻く、貧乏庶民には十分贅沢な風景だった。
俺は黒のジャケット含め服一式新調したのだが、これがまた遊び人の風体を倍増。
優月もどういうわけか真新しいブラウスとスカートで、プロの手が入ったであろう複雑なアップヘア。いつもの野暮ったさはどこへやら。
互いに向かいあって座り、期せずして気合の入りようを見せ付けあっていたのである。
この気恥ずかしさのため、少なくとも俺は怖い顔をしないよう気を配りつつ、料理を口に入れ腹に落とす作業が精一杯だった。
色白かつどうも赤面症の優月は、酒を一滴も飲んでいないにもかかわらず、店員に心配されて二度も水を配膳されたのは覚えている。
あと、唇に乗ったソースを舌がペロリと一周して舐めとったしぐさとか、見慣れない食べ物に戸惑いながら知ったかぶりをして俺の動きをトレースするのに一生懸命だったりとか、デザートを口に含んだ瞬間から目を閉じて幸福な情報に集中している様子とかは。
結局、俺たちは平然を装うのに必死で「おいしい」「すごい」以外にたいした会話もないまま店を出た。
そして店先。
住まいである四丁目の望粋荘ではなく、二丁目の歓楽街の方へ向いた俺のつま先。
それをじっと見てほどなく、優月は俺のジャケットの袖口を掴んだ。
今更だけど……優月の"でぃなー"もやっぱりそういう意味でいいんだよな。
そうだよなあ。勉強したもんな。
ここで俺が臆しましたっていうのは……ナシだよなあ。
恐る恐る――というか、恐れを隠しながら俺はその方向に踏み出した。
出来るだけ人目につかない道を選んだ。
白状すれば、心の準備のために最短ルートを通っていなかったが、それでも目的地へと進んでいた。
俺は優月から手を握ってくれないかとさえ祈っていた。
怪仏をブッ飛ばすのにまったく躊躇しない俺が、神様仏様と都合よく念じてさえいた。
節操ない色合いで照らされた道のりを、じりじりと歩く。
いっそ、最初の夜みたいに勢い任せに逃げ込めたら、どんなに楽なのだろう。
「禅」
ひと気の無い雑居ビルに挟まれた狭い道で、優月が足を止めた。
終わった、俺なんかしちゃったんだ、と思った。
さすがにそれは悲観的すぎた。
「あのときも生活に困るほど貧乏だったのに、どうして見ず知らずの私を助けてくれたんだ? 誰彼構わず優しいからか?」
「あ、いや……えと」
あのとき、というのは今しがた俺の脳裏にもよぎった夜のことだろう。
そういうのは全部、落ち着いた場所で話そうと考えていた。
例えば、ついさっき機を逃したレストランとか……あとはもうホテルの部屋とかになるんだけど。
だが優月は不安げに見上げて答えを待っている。
こんなところで訊くのだから、彼女にとっては重大なことなのだろう。
だから……正直に言った。
「俺、あのとき焦ってて……! 追われてたってのもあるけど、そうじゃなくて……オトナにならなきゃって。この街のなにもかもが鳴滝豪のおさがりのような気がするから、とにかく"鳴滝豪の息子"、やめたくて。いろいろカッコつけちゃってたけど、俺その……童貞で。だから、そういう儀式を終えてないと、この先一人で鳴滝禅として生きていけるか不安で……そんなときにさ、すっげー可愛くて好みドンピシャなヒトが登場しちゃうわけじゃん。俺、ばかじゃん。だからさ、このヒトが俺の人生にとって大事な風景の中にいてくれたら灰色の日常なんて無くなるのになー、なんて……だから……」
それで誰彼構わず、行きずりの、しかも困っている女性と……って我ながら本当に最低だ。
喋ってて改めて気が付いてしまった。
優月は表情を落胆に曇らせて……苦笑して、「最低」とはにかんだ。
そして「怒るなよ?」と前置きして言った。
「私も、一人じゃ生きていけないって……何もかも諦めかけて、誰かに助けられてみっともなく甘えて縋りたいときに――すっげーハイカラで好みドンピシャなヒトが助けてくれたわけじゃん。鮮やかすぎるネオンの色に染まれば、少しだけ強くなれる気がして……だから……私も、ばかです」
「優月……」
自分のことを棚――どころか神棚にあげつらっているのはわかっている。
でも、優月は心底ばかだ。
この街で俺みたいなチャラチャラした見た目の男なんて他にも大勢いる。
それを、あのタイミングで偶然会ったからといってホイホイついていって、あまつさえ臥所を共にするとか言い出して――ベルトの件がなかったら本当にどうするつもりだったんだろう。
「ん……でももう、禅も私も、一人で生きていく必要、ない……じゃん?」
「…………」
俺なんかに……。
ほんと、ばかだ。
「あ、ぁ……なんだか、恥ずかしいことを……言っちゃった!」
そう言いながら無邪気に、無遠慮に俺の腕にしがみつく。
その不規則な息遣いとうなじの白さが、俺の凝り固まった表情の原因だということも知らず、優月は「変? これは……ちょっと禅のマネ、しただけ……」とごにょごにょ言い訳しながら頭を垂れた。
これは……デレとかそういうレベルじゃねえ……。
輝夜神社の優月様でも、ネオン街を逃げ惑う悲劇の巫女でも、態度の堅い管理人さんでもない。
俺の、俺にための、俺だけの優月がそこにいて、そのときめきが俺のちっさな理性を轢き殺し粉砕し埋葬しされどダイイングメッセージがなんとか煩悩の暴走を繋ぎとめているような――って、これ以上気持ちを明文化することさえ気恥ずかしいのでパスで。
ぎこちなさに拍車をかけながら、再び歩き出す。
完全に、どう見ても、カップルだ。
さすがに付き合ってる、でいいよな……。
でも、言ったほうがいいのかな。
言おう。
着いたら、ちゃんと言おう。
着いたら。
そんなことを考えている間にとうとうゆるい坂道の、見覚えのあるラブホテルの前に到達し――
「…………ぁ」
――ドデカく掲げられた「臨時休業」の張り紙をチラ見して、そのまま……まるではじめから用事は無かったかのように、建物を通り過ぎた。
「…………」
「…………」
優月さん。
優月。
止めてくれよ。
他のところでもいいから探そうって、言ってよ。
腕に食い込む指先からして、優月も俺と同じように願っているのだろうけれど。
俺も必死に見回したものの、どこもかしこも似た様な張り紙が掲げられていて、この一帯は静けさが際立っていた。
もしかしてお蝶さんが言っていた曼荼羅条約の勢力云々?
…………マジ?
ええええ!
やだあああああ!
街の情勢とか治安とか平和とか日本の未来とか、どぉぉおでもよくねぇ?
迷える若者が、当初の計画通りにラブホ使えるか使えないかのほうが大事じゃねえ!?
などと自分勝手を考えているうちに、ラブホテル通りは行き過ぎてしまったのである。
「…………」
「…………」
「……おうち、帰ろっか」
「……ん」
つま先が望粋荘ルートへと入った、そのときだった。
すっと優月の手が俺の腕を解いた。
「……あそこは?」
熱っぽく呼びかけ再び俺の袖口を引いた優月。
俺は必死にその指先が指した方向を目で追う。
そこに掲げられたネオンは、燦然と赤く輝き――しかしいかついフォントで「バッティングセンター」と書かれていた。
「優月さんや。あれがどういった場所かはご存じか?」
「ん……んっ?」
「……いや、いいんだ。いいんだよ。ナイスチョイスだ」
とまあ、こんな感じで。
意を決したディナーの夜、その本番はお預けとなってしまったのである。
それどころか望まぬ形で棒をブン回すことになってしまったのである。
そして、今回のオチだが。
ムラムラした気持ちを爽やかな汗に変え、楽しくなってしまい、長引き、いがみ合い、想像を絶する暑苦しい死闘を繰り広げ、東の空が白んで、俺は優月に根気負けして……バッティングセンターのベンチで呆然としながら、苦すぎる夜明けのコーヒーを飲んでいた。
なんかこう……。
まだ早いのかな。
「勝負のあとの珈琲は美味いな。オトナの味!」
「優月さんのはね、砂糖と牛乳が入ってるヤツ」
親切なアドバイスを無視してブラックコーヒーを選んでおいて、苦いとうなだれ強引に交換した俺のコーヒー牛乳を飲みながら優月は徹夜のテンションもあってご機嫌だ。
すっとぼけるように「んー」と首をかしげると得意げに言う。
「それは……気分の問題! 夜遊び……そう、これは夜遊び、立派な悪事だ! これはこれでハイカラなオトナなのじゃん?」
「おっと、優月さん悪落ち宣言か?」
「さようだ、ワルづきである。お前の大福のいちごはもう無いと思え」
「悪のスケール……ショボ」
「は?」
朝日が目に沁み、月は胸に染みる。
*
――時間は鳴滝禅がシャンバラを出た直後に遡る。
沙羅は箸の先で赤羽根、アキラを順に指して叱るように、そして断定して言った。
「あんたたち、涅槃症候群って……知ってるでしょ」
「知らん」
被せるように否定したアキラ。
しかし、沙羅はその返答を予想していたのか、紙の束をテーブルに放り投げた。
「ウチのエキスパートが解析した患者の検査結果よ。どういう症例か、沙羅が説明してもいいけど」
アキラは長い溜め息を吐き、首をかしげた赤羽根を庇うように身を乗り出した。
「……優月殿のことか」
<第七鐘 Shout at the Bonnow・終> To be Continued!





