いばらの海-(1)
小さいとき、オヤジの住んでいたアパートに行ったことがある。
お袋がインフルエンザにかかったときだ。
すでに不仲ではあったが、他に頼る人もなく、お袋は俺に手紙を持たせてオヤジの家の玄関前に置いていった。
オヤジは驚きもしなかったし、拒絶もしなかった。
俺はオヤジに無関心だった。
オヤジも俺には無関心だった。
部屋は意外にも小綺麗で、しかし食器もなく惣菜ばっかり買い与えてそのままのオヤジの様子からして、自分で片付けているようには思えなかった。
誰かが出入りしていたのだろう。
そのときの女だったのかもしれない。
俺が唯一の娯楽として生き物図鑑を広げている横で、背中を丸めてエロビデオを垂れ流しに酒をかっくらっていた。
俺のことなんて顔も見ないしお構いなし、ときおりティッシュを何枚かとって……。
あー、やだやだ。
ただ、当時の俺にはよくわからなくて「大人ってそういうもんなんだ」と子供ながらの反応だった。
度を越えた最低な父親であるとわかったのは、オヤジが死んだあとだ。
あんな大人には、男には、父親には絶対になりたくない。
そう思って大人しく過ごしていた青春の先にあったのは、"鳴滝豪の息子"という呪いなのだけれども。
*
ふと墓参りという言葉を耳にして、俺は三ヶ月ぶりとなる鳴滝豪の墓前に足を運んだ。
正確にはコンビニで涼みながら立ち読みして帰りに寄った、その程度の気持ちだ。
青々とした空、並ぶ墓石。
蝉は足元に転がっていることのほうが多い。
静かなものだ。
しかし、鳴滝豪の墓前には先客がおり、俺は立ちすくむ。
木陰もなく、うだるような暑さの中、灰の薄物に黒い帯をした女性が仏花を差し替えていた。
おばさんというには少し気の毒な儚げで品のあるたたずまいである。
女性は俺に気がつくと深く一礼し「あの……失礼ですが」と控えめに訊いた。
「あ、俺……鳴滝豪の息子で……禅です」
よほど驚いたのだろう。
彼女が息を呑んだのがわかった。
そして、垂れ気味な目を、新聞紙に包んだ枯れ花に向ける。
「鳴滝……あ、左様でしたか。これは勝手な真似をしてしまい……」
「いや、全然! 俺も滅多にこないんで好きにどうぞ! ってか、今まで手入れしてくれてたのって、もしかして……」
「どうでしょう、豪さんにお世話になった方は、この街にたくさんいらっしゃるでしょうし。優しい方でしょう、困ってる人を見ると"救えるときに救わないと後悔する"ってよく言って、無茶する人で……あ」
再び深く一礼して、貴婦人は名乗った。
「白澤恵子と申します」
白澤……。
「もしかして、白澤光太郎先生の……?」
「はい、光太郎の母でございます。お世話になっております」
そしてまたしても、頭を下げた。
「先生にお世話になってるのは俺のほうで! 俺、よく怪我しちゃうんで!」
「まあ、患者様でございましたか。至らぬ息子に大事なお体を任せてくださいまして、今後ともどうぞよろしくおねがいいたします」
やっぱり頭を下げた。
息子より年が下の俺にたいして、ずいぶんと丁寧で下手に出る人だ。
柔和そうで、品があって、ちょっと天然で、可愛らしい印象のおばさんである。
「あの……由香里さんは?」
意外な名前が出たな。
由香里は俺の母親だ。
金を置いて男と駆け落ちした。
今どうしているかはわからない。
本人の人生なんだから好きにしてくれと思うけれど、直球で彼女に話せば気を遣わせそうなのでやんわりと。
「再婚したんで、別々に暮らしてます」
「まあ、これはとんだ不躾を……」
俺はこの人の頭頂部を何回見ることになるんだろう……。
物腰柔らかすぎな白澤先生のお母上は、この風体の俺に対しても「学生で一人立ちされているなんて、苦労されてるのですね」と大真面目だ。
「あの……失礼を承知でお尋ねするのですが、うちの光太郎は、その、煩くないですか? 仕事に専念していますか? あの年になって、子供の番組が好きで変わり者ですから。男の子のことは私にはよくわからなくて、ああいうの。びゅんびゅーんとか、そんなことばっかり言って、おもちゃを振り回していませんか?」
非常に返答に困った。
だが、恵子さんの控えめな雰囲気からしたら相手を選んだ上に相当勇気を振り絞って聞いたに違いない。
俺は「変わってますよね」と正直に述べた。
恵子さんは懐からハンカチを取り出し、その冷や汗を拭き拭き、まばたきパチパチで誰にとも無く言い訳しはじめる。
「光太郎が小さい頃に、私が豪さんの話ばかりしたものですから。街のヒーローだって言って。本人が覚えてるかわかりませんが、だからあの子、あの歳になってヒーローって言葉ばかり追いかけて、男の子の趣味は私にもよくわからなくて。もう三十路にもなって、どうしましょう、本当に。あら、やだ私ったらまた余計なことお話ししちゃって。こんなこと豪さんの息子さんが言われてもね、困っちゃいますわね。なんだか雰囲気が似ていたものですから。どうも、重ね重ね失礼いたしました」
この夏場にもかかわらず、似ていると言われて背筋に寒いものが走った。
あんなクズと一緒にするな、なんて言えはしないけれど。
「最近は光太郎も忙しくてなかなか帰って来ないものだから、つい喋りすぎちゃいました……」
と言いながら恵子さんは、オヤジの武勇伝――やれ餃子大食いしただの、やれ銭湯をぶっ壊しただの、銃持ったヤクザ相手に素手でケンカしただの――を並べ立てる。
俺は暑さの中、引きつり笑いで「そうなんですか」を繰り返した。
こういうことも、稀にある。
そろそろ限界だ、と思っていたところで聞きなれない着信音が響いた。
どうやら恵子さんは約束事を忘れていたらしく、電話の向こうにも俺にもぺこぺことして足早に去っていった。
柔和で毒気がなくて、しかし独特なペースを持つ。
この母にしてあの息子ありといった感じだ。
それにしても、白澤先生の母上がオヤジと知り合いとは。
そして、白澤先生の持病、特撮ヒーローオタクの根幹が鳴滝豪だったとは。
華武吹町は本当に狭く、しがらみが色濃い。