08. それゆけ大人マン
きょろきょろと見回して明るい話題になりそうなものを探している途中、自分の膝を抱いた陽子が現実味のないことを呟いていた。
「アタシな、スカウトされたんだ」
え……?
「いつものエロ雑誌とかのじゃなくてさ、アイドル歌手にならないかって」
「…………」
「……ほんとだよ。スゴくね?」
「……え?」
陽子が、スカウト。
エロ雑誌……ではなく。
アイドル歌手。
畳み掛けるように白いカード状のもの――名刺が視界に入ってきて無意識に受け取った。
シックなフォントで、俺でも知っているレコード会社の名前、知らないいかつい役職、この名刺を渡したであろう本人の名前が書かれている。
冗談のために用意された偽物には見えない。
少なくとも、俺の頭の中にあったアレには見えない。
「華武吹祭りで怪仏と戦ってるの見たんだって。度胸あるって。でな、『スター爆誕!』ってスカウト番組に出ないかって。普通はアイドル養成所とかのコが出るもんなんだってさ、ああいうの」
「すげえじゃん! 出ちゃえよ! なっちゃえよ!」
具体性のある話の続きと単語の華やかさに、俺は興奮していた。
しかし、楽観的な俺とは対照的に、陽子はうつむいたままだった。
「うん……ホント言うと"アイドル"の部分は興味ないんだ。でもアタシ馬鹿だからさ、普通に働けるかわからないし。得意なことでお金稼げるんだったら嬉しいじゃん……って前向きに話が進んじゃってるんだけど……」
「……だけど?」
陽子は特大サイズの溜息を吐き出す。
「恋愛禁止なんだって」
「……あ、ぁあ」
俺の体からは、ただ気の抜けた音が出た。
同時に、勝手に高ぶっていた頭がさーっと冷え、背中にまで残酷な理解が降りてくる。
「笑っちゃうよな! そういうの、昔の話かと思ったらマジなんだもん! だから……断ろうと思って」
陽子は、明るくて華やかでデカいチャンスと、こんな男を天秤にかけているんだ。
「アタシ、禅兄のが大事! だけどさ、色々あると気持ちがグラつく。だから、確かなものが欲しくて……アタシ、禅兄を信じていたい」
「確かな……って」
そして、俺の方が重いって信じたい、その証拠が欲しいという。
俺の指は自然とパーカーのポケットの中に入りっぱなしになっている二つ綴りのアレを探っていた。
「陽子、そういうのは早いと思うんだよな……」
やはり俺にとって陽子は妹のような存在で、まだまだお子様だ。
せいしの境目を云々する間柄じゃない。
「早くないよ! 遅いくらいだよ! だって禅兄はアタシのこと、いつまでも妹とかお子様扱いで……」
「ん、んぅ……」
「アタシ、禅兄から"好き"って言葉が聞けたら、それだけで後悔しないから!」
「え……っ!? それだけ!?」
「え……?」
「いや……なんでもない!」
そそくさとポケットから手を引き出した。
俺よ、何が妹のような存在だ。
お子様扱いだ。
無意識レベルでやましいことを期待しているじゃないか……。
自己嫌悪でいっぱいの俺に、さらに思いもよらぬ言葉が被さった。
いや、むしろそれこそが、俺たちにとって本題だった。
「禅兄は小さい頃から、優しくて奥手で恥ずかしがり屋で……そんで今はかっこいい街の、みんなのヒーローなんだ。なれるかわからない歌手に挑戦するよりも、そんな素敵な人と一緒にいるほうが、幸せだよ」
それは……俺の話?
我が耳を疑ってしまうほど、陽子の口から出たヒーロー像は確かにカッコ良かった。
そして次第に、俺は溝の存在を感じた。
優しくて奥手で恥ずかしがり屋な鳴滝禅。
華武吹町のヒーロー、ボンノウガー。
思い出補正ってやつなのかもしれない。はたまたヒーロー補正ってやつかも。
つまり、陽子が好きなのは……そんな幻想なのだろう。
「禅兄ってば、サービス精神旺盛だからすぐおかしなこと言うし、面白いことするし、人が良くて――」
「それ……本当の俺じゃないよ」
騙すような状況に耐えられなくて、唇の裏から言葉がこぼれた。
陽子は「またまたぁ」と笑った。
それでも俺は、この状況で、一度こぼれた懺悔が止められなかった。
「俺、自分勝手で、煩悩まみれで、最低男なんだ! 汚くて弱くて情けなくて自分勝手で、すっげーカッコ悪いクセに、陽子みたいに目を引く女の子にちやほやされたり、タダで弁当食えたり、そういうのが楽で心地よくて、ただ全面的に甘えてて……それから……えっと……えっと!」
どもった。
自分の汚点に思い当たりすぎて、言葉に詰まるなんて情けない。
目を泳がせて逡巡するも言葉は出ずで。
できることを探した――けれど、転がるように階段を降り、お得意で、お安い土下座をする他が思いつかなかった。
「すみませんでした!!」
一拍後。
「や、やめてよ! そんなカッコ悪い禅兄、見たくないよ! 禅兄は街を守ってるヒーローじゃん、かっこいいんだよ! かっこ悪い禅兄なんて、いちゃダメだよ!」
消え入りそうな声は、後頭部に降り注ぐ。
理想の、カッコイイ俺を元気付けようとしてくれる陽子の寛大さが、本当の、かっこ悪い俺に……苦しい。
「俺は……あんな街のために戦ったことなんて無い。華武吹町なんて知ったこっちゃないんだ。あんな、優月から根こそぎ奪って煌いてる街なんか……」
今度は十拍ぐらいあと。
「じゃあ……禅兄が戦ってるのって……」
そうだよな。
そうなるよな。
俺から言うべきなんだよな……!
俺だって、巻き込まれて嫌々ヒーローやって、いつの間にかそれが当たり前になっていて。
でも今、この戦いから降りる気なんて毛頭無い。
俺がいなきゃ、優月は……!
「俺が戦うのは……」
「……うん」
なんて言ったらいいのか、わからない。
下手な言い方すれば、陽子を傷つけることになる。
海の生臭さが鼻を刺し、塩辛い砂を噛み、数え切れないほど沈黙が刻まれて、それから……。
それから――。
「ブバアアァァァァァァァアアッ!!」
――!?
車道……いや、山の斜面から聞こえた咆哮はあの巨大イノシシ。
「禅兄ッ!? こ、この鳴き声もしかしてお祭りのときの!」
ベアトリーチェ……!?