05. 誰が為の説教
よし、最悪だ!
見事に紅葉を刻まれた左頬を押さえながら、俺は双樹別荘のロビーでその元凶と向かい合っていた。
黒い革張りのソファーに深く腰掛け不服そうにしている沙羅だが、俺への謝罪ではなく、お気に入りの服が燃やされたことに対する愚痴と呪詛を延々と唱えている。
白い壁とガラスで構築された建物には、朝の光が差し込んで、鳥の声や紅茶の香りが夏の朝に爽やかさをもたらしていた。
そんな情緒とは裏腹に、状況はドロドロのギスギスを極め、縺れに縺れまくっているのだけど。
そして俺は沙羅の愚痴をBGMにして、もはや「だよな! そうこなくっちゃ!」ぐらいに思っていた。
優月、陽子、沙羅が一堂に会していながら、楽しいバカンスなどありえないのだ。
俺は心のどこかでソレを知っていて、覚悟があって、何事もないからこそ疑心暗鬼になりすぎて、落とすなら早く落としてくれとすら願っていたのかもしれない。
「でもまぁ、これにて一件落着!」
「どこがだよ! 不祥事大爆発だよ!」
「沙羅の服を犠牲に、禅ちゃんは晴れて"付き合うに値しない浮気性最低男"ってことになれたわけでしょ?」
「まさか、お前……見計らったように出てきたとは思ってたけど……」
「そだよー、見計らったよ! これで二股の泥沼もリセットされたじゃん」
「これは"リセット"じゃなくて、"メチャクチャ"っていうんだ」
「だって、楽しいんだもん~。ゆづきちの顔みた? 強がってるのも可愛いし、強がれなくなるくらいイジメるとスッゲェー気分いい! 沙羅は早くベッドの中でゆづきちをイジメたいな~。禅ちゃんがハッキリして順番まわってこないかな~」
「お前、もしかしてそっちが目的じゃないだろうな……」
「え~?」
珍しく生返事した沙羅はガラステーブルに華やいだ皿からマドレーヌをつまみ上げ、味わう素振りもなく、むしゃむしゃと頬張った。
磁器のカップから絹のような煙を立ち上らせている鮮やかな紅茶で――高級茶葉なのだろうが俺には品種なんてわからない――ひと息つくと、沙羅は断固として俺と視線を合わせないつもりか、高い天井を見上げている。
やりすぎて少々反省している……ように見えなくもなかった。
「にしても、ヨコたんも女だねえ、泣いて出て行っちゃうなんて。可愛いよね~!」
俺の追及を避けるように、沙羅は話題を翻す。
朝のボヤ騒ぎの結末はというと。
あまりにも意味深な状況で出てきた俺と沙羅に対して、真っ先に感情を露にしたのが意外にも陽子だった。
目の周りを真っ赤にして前に出てきて、弱々しくペチリと俺の頬を叩いた。
そして「ごめん! ちょっとだけ、気分転換してくるや!」と声色だけは明るく言いながら、背中を丸め出て行ってしまったのである。
ちなみにその後、見事に紅葉を刻んだのはやっぱり優月で、それはもうバシャアアアアンッという遠慮の無い音だった。
やっぱりパーで殴った。
やっぱり俺は吹っ飛んだ。
いつもの「最低」に加えて「信じない」と吐き捨てて部屋に戻り、一升瓶を抱えながらベトナム帰還兵が平和な日常に馴染めないジレンマを描いた映画を見ているらしい。
実にいつも通り、かつ期待通りのリアクションだった。
つーことで、優月のことはそのへんの床にでも置いといて。
となると、わからないのは陽子のほうだ。
器がデカいと言ってしまえばそれまでだが、あの単純でお子様な陽子が感情を押し殺したことに、俺は面食らっていた。
「いやさね、ヨコたんって禅ちゃんの前では明るく振舞ってるけど、なんか悩んでるみたいだったし。昨晩だってディナーのあと、部屋に戻るときにこのくらいの白いカードみたいなの持って思いつめた顔してて……すぐ隠されちゃったけど」
と、沙羅は両手の親指と人差し指で長方形を作った。
白い、長方形のカード。
もしかして……。
俺はその色形に、心当たりがあった。
なんせ俺も持ってる。
昨日、海岸でピンク色の淫獣が配っていた、アレの二つ綴りだ。
陽子はあっちこっちウロウロしていたようなので、淫獣と遭遇しアレを受け取っている可能性はある。
アレを持って思いつめていたとすれば……既成事実を作ろうと――いや、言い方が悪すぎる――オトナの階段を上る覚悟を……!?
「そんなはずは……お子様の陽子に限って……!」
「お子様、お子様って、ほんと女を見る目がないなあ。ヨコたんはオトナよ。殴らなかったのは、禅ちゃんが悪くないって信じようとしてるからじゃん」
「実際、俺はなにも悪くないんだが」
「殴っちゃったら、疑ってるってことだもんね」
「殴った人がいるんだが」
「でも安心して。沙羅は最低男な禅ちゃんも大好きよ」
最後のはどうせウソなので聞かなかったことにした。
確かに最低男としてこのまま嫌われれば、俺は二股問題を解消できるかもしれない。
だけど、俺はそういう去り際こそ、トラウマになることを良く知っている。
実例が目の前にいる。
「最低男と純粋なヨコたん。不幸なカップルがひと夏の思い出をトラウマにしてしまう前に一肌脱いでリセットしてあげた沙羅、ほんと優しいなあ~」
続いた沙羅の厚かましい小言を聞き流している間、俺の背中を後押ししたのはヒーローの言葉だった。
「俺、誰かが困ってる横で、幸せになれないよ。救えるときに救わないと後悔する」
ちょっともったいない気もするけれど、俺は程よく冷めた紅茶をそのままに立ち上がった。
沙羅はようやく視線を俺に合わせて、ちょっと不服そうに「バッカじゃないの」と吐き捨てる。
さすがにムッときたものの、言い返せない俺の変わりに、通りかかった赤い影が反論していた。
「何を今更。誰がどう見てもこいつは折り紙つきのバカだ。バカだが思慮はある。バカだから思慮に振り回される。そういうバカなのはお見通しじゃないのか」
「おい、今、何回バカっつった!」
まさか私服も赤ジャージの赤羽根は眼鏡のブリッジをあげて「四回だ、バカ」と嫌味の追加ボーナス。
「他人の思慮を振り回すよりは、いくばくかマシだと言ってやっているんだ」
そしてこれ以上会話する意思が無いことを、背を向けて示した。
沙羅も口を一文字に結ぶ。
俺とてその場に残っても楽しい会話なんて出来る気がしない。
まるで追い出されるかのようにエントランスから炎天下へと足を踏み出した。
*
えてして、俺は以前から悩んでいた、優柔不断と偶然が織り成した二股状態を、沙羅という爆弾によってブッ壊されたわけだ。
しかし馬鹿馬鹿しいことに、いまは二股状態を修復しようと汗水垂らしながら炎天下を歩いている。
単調な波の音とココナッツオイルの甘い香りに意識がぼんやり霞みながらも、金髪の女の子の姿を目で追うこと小一時間。
いまだに、らしき姿は見えない。
もしかしたら運悪くすれ違って、陽子は別荘に戻っているのかもしれない。
今頃、あの連中は俺を抜きにして優雅にブランチをはじめているかもしれない。
俺が帰ると「お前のメシ無ぇから!」ってことになっているのかもしれない。
だとしたら……まあ、それなら……いいんだけど。
しかし、携帯電話に連絡がない以上、もう少し探さないと。
先に進もうと顔を上げたところだった。
突然に分厚い熱風が吹きつけ俺の身体を横薙ぎ、思わず目を閉じる。
すると、しゃらしゃらしゃらと。
聞き覚えのある錫杖の音が耳に飛び込んできて、俺の心臓は大きく拍動する。
目を開くと、白いフードが煽られて高く結った銀髪が風に舞っていた。
「ようやく、お会いできましたね」
非現実的な幻想存在は、淡々と語りかけてくる。
チュンディーを倒し、共生救済をもたらすと宣言した怪仏。
こんなところで……。
ギュルギュルと、サイレンのようにベルトが唸る。
「聖観音アーリヤ……!」