11. こんな気持ちを止めないで
華武吹祭りに足を踏み入れるのは、何年ぶりになるだろうか。
蝉時雨の昼下がり、祭囃子もピーヒャラと絶えず踊り続けている。
屋台立ち並ぶ境内には人々が不規則に流れて、あちこちが賑わっていた。
子供たちがはしゃぎまわり、オジ様オバ様たちは役員テント下を占領してビール片手のいいご身分だ。
避けていた華武吹祭りの彩りは、記憶の中のソレと、ほとんど変わりなかった。
しかし、陽子が毎年の面白エピソードを語ってくれたお陰で、モノクロに沈んでいたイメージは一気に鮮やかさを取り戻していく。
その一方で、仏殿の前、大提灯に掲げられた曼荼羅条約加入組織の名前だけは、俺にとって意味が塗り変わったわけだけれど。
大人達が耳タコになるまで教えてくれた五十年前の英雄達は、忌むべき要因を作った大罪人だったのだから。
小一時間もしないうちに屋台を見廻った俺たちは、予算も多くないので早々に休憩所に落ち着いていた。
俺は財布事情から、腹が減ってないと言い張って瓶のラムネをちびちび傾ける。
陽子が掲げた焼きとうもろこしから漂う、醤油バターの香りに耐えながら。
雑談に間が開いたと思うと、陽子は右に左に視線を送り確認すると、ひそひそ声で言い出した。
「お似合いだったよなあ、あの二人! オトナの恋人同士って感じで!」
「そ、そうかなぁ?」
二人、というのは優月と……氷川さんだ。
俺としては、なんともはやという話だが。
寺に到着してから陽子は「優月さんも一緒に行く?」なんて恐ろしいことを、あっさり言ってのけた。
一緒に行くなんて約束をしていた俺は、その空気に耐えられるか否かなんて怯えたものの、優月は穏やかに首を横に振る。
「少し歩いて、雰囲気を味わったら帰る。それでは」
からん、と悲しげに下駄を鳴らして方向転換した彼女の目の前に立っていたのが、犬猿の仲である一〇一号室の氷川武人。
氷川さんはテキ屋で働かせている子分の見回りをしていたらしい。
「おい、ブス。あぶれてんのか」
「…………」
荒んだ空気が走りいつもの罵り合い……とはならず、優月はコクリと頷き、氷川さんの見回りに合流することになった。
実にすんなりと。
意味ありげなほどに。
我が物顔で優月の肩に手を回し、ちらっと俺にあてつけの視線を投げた氷川さんの態度から推察するに、優月を狙っているのはほぼ確定だ。
そんな退場をしたものだから、陽子が誤解してその上、憧れに目をキラキラさせて物語るのも頷ける。
陽子、違うんだ。
あの氷川って男は、他の女の家に泊まって平気な顔で朝帰りした上に優月にちょっかいを出しているロクでもない……あれ、これ俺じゃね?
「ほんとのこと言うとアタシな、禅兄は優月さんのことが好きなのに、嫌々彼氏ゴッコに付き合わせちゃってんだって思っちゃって……ほら、じっちゃもばっちゃも強引だからさ」
ぎぃくッ。
突然の打ち明けに俺は背筋を正した。
幸いにして、ラムネを舐めるように飲んでいたため噴出すことなんて無かったが、心臓がせわしなく働き始める。
「禅兄。ゴッコ、じゃないんだよ……ね?」
「……ぅう~ん?」
ぱっさぱさに乾いた笑いで返事を濁した俺。
「アタシ信じてるけど、ちゃんと、はっきり、言ってくれないと……」
顔面は乾いているのに、熱気によるものではない汗が背中にまとわりついていた。
こいつぁ、マズい。
非常に。
梵能寺で首肯しなければ――ましてや二股状態なんてバレたら、じっちゃやばっちゃが登場して俺を八つ裂きに。
祭りが血祭りになりかねない。
寺に坊主に墓まで揃っている。
葬式まで至れり尽くせり、一直線だ。
「あ~、ええとぉ……?」
頭の中には言い訳で溢れかえり、胃は罪悪感と焼きとうもろこしの香りにぎゅうぎゅう絞られる。
オーバーヒート寸前の俺を救ったのは、安っぽいスピーカーの音だった。
『納涼カラオケ大会実行委員のみなさんはステージ裏に集まってください』
アナウンスを聞き終える前に中腰になる陽子。
幸いにも質問……いや、詰問は宙へとブン投げてくれたようだった。
「あ、ごめん……禅兄、シャイなのに問い詰めちゃって。禅兄はそんな人じゃないって、アタシが信じないとね。へへ、行かなきゃだ! 緊張しちゃうから応援してな!」
そうか、カラオケ大会がどうのって言ってたな。
緊張しちゃうなんて、いじらしいところもあるものだ。
陽子は焼きとうもろこしをゴロゴロと回し口の中に詰め込むと、頬が膨れた状態から顔の前で両手を合わせ、にっこり笑う。
可愛い。
どちらかというとハムスターみたいで。
レディとしてのなんたるかが欠落している様をまざまざと見せ付けつつ、陽子は仏殿にほど近いステージのほうへと駆け出していった。
一時的にではあるが、解放されて安堵の溜息。
汗と胃酸が一斉に噴出して胸よりも下、腹を撫で下ろした。
そう。
そうなんだよな……。
陽子はそりゃあいい子で可愛いんだけど、ありていに言えば、妹や小動物って感じ。
下半身が反応したところで、じっちゃやばっちゃの顔がちらつくし。
見守っていたいし、出来れば早く目を覚まして俺みたいなクズからもっといい男に乗り換えてほしい。
俺はいつまでも、陽子の禅兄なんだ。
陽子を独占したいとか、自分色に染めたいとか思ってないんだ。
じゃあ、優月は……?
俺は今も、こんな状況でも、優月を諦められない。
そうじゃん。
確定じゃん。
今まで気がつかないフリしてたけど。
煩悩とかそんな言葉で誤魔化してきたけど、俺は優月のことが――!
「禅、聞いてんのかい?」
「あ、はい」
野太い声に呼ばれて、詰みあがった決意は積み木の如く落ち崩れ、掃き捨てられた。
目の前に聳え立っていたのは、巨躯を薄紫のドレスに詰め込んだシャンバラのママ。
「アンタ、アケミとウンケミ見なかった? ステージで出し物あるんだけど、急に居なくなっちゃったのよ。まだカーニバル衣装だったから、目立つと思うんだけど……」
「アケミとウンケミ? いんや?」
アケミウンケミといえば、ド派手な緑とピンクのセットだ。
そりゃあ目に入ったら気がつくはずなんだが……。
「そう、邪魔したわね。ったくあいつらは……」
用件はそれだけのようで、ママはのしのしと人波の中へ入っていった。
そうか、宣伝目的なんだろう。シャンバラのおネェさん方も忙しいもんだ。
……で。
ええと。
なんだっけ。
それとなく周囲を見回す。
いつの間にか優月と氷川さんの姿を探していて、思考が元のレール上に戻った。
この広くない境内で見かけないのだから、もしかしたらどこか――オトナの男女に相応しい場所にシケこんで……。
んなもん、華武吹町で一つしかない。
俺が優月を連れて行った場所だ。
だったら……俺、こんなところで何してんだ。
探しに行かなきゃ!
陽子には悪いけれど、俺、やっぱり優月のことが――!
「おい、鳴滝」
「あ、はい」
またしても俺の思考を冷淡な声が粉砕した。
ママと同じように突如現れたのは赤羽根・ジャスティス・正義。
蒸し暑い夏日だというのに赤いジャージを羽織ったいつも通りの姿だ。
場に合わせて服を選ぶという生活能力さえ無いらしい。
俺が嫌な顔をする前に赤羽根は焦燥めいた早口で説明しきった。
「白フードがいる。アキラが怪仏化しているとは考えたくないが、ヤツが唱えていた真言は聖観音のものだ」
「白フード……えっと?」
「ふざけたことにあちこちで盗み食い働いてるらしい。無銭飲食は古来よりの悪だ」
「盗み食い……」
白フード。
ベアトリーチェをブン投げたアイツか……。
明らかに人間ではない。
でなければ、怪仏の線は濃い。
「警察に保護されていたベアトリーチェも行方不明らしい。警戒しろ、悠長に遊んでいる場合ではないぞ」
さっきから大事なところで思考をブツ切りにされていたせいで頭が回らず、俺は反抗もなく「はあ、そっすか」と素直な返事をする。
そんな俺のぼんやりした態度に舌を打ち、赤羽根は「状況を真剣に考えろ」と吐き捨て去っていった。
俺が真剣に考え事してたところに割って入ってきたのはテメェのほうだ!
なんだよ、その感じの悪い舌打ちは!
俺の真剣がどれだけ重要なことか――で。
ええと、なんだっけ。
何のことを真剣に考えていたんだっけ。
…………。
加えてカラオケ大会の進行が流れ始め、周りの席も親子連れやカップル、友人のグループが着席。
お囃子、蝉時雨、歌謡曲に興味のない他人の雑談。
俺には微塵も関係の無い音が、次から次へと流れ込んでくる。
ぐずぐずに煮崩れた思考を立て直そうと、一人頭を抱えたが取り戻せそうになかった。
そうこうしているうち、ステージ側で「陽子ちゃーん!」なんて茶化すおっさんの声が沸き立った。
カラオケ大会はようやくトリの出番らしい。
壇上の陽子は俺が一人で頭を抱えていたところから見ていたのか、含み笑いをしながら手を振る。
そのサインに、ステージ下で男たちの腕が波立った。
「陽子ちゃーん! おじさんはファンだぞ~!」
「よっ! 町内会のアイドル!」
「今日も可愛いよ!」
どれもオッサンたちのダミ声だが二号の俺よりずーっとファンがついてて、ずーっと意思的エネルギーを集めるのに向いてそうだ……。
こうなってくると、アイドルもヒーローも似たようなものなのかもしれないな。
ほどなく、俺でも知っている昔懐かし歌謡曲のイントロが流れ出し――流れたまま……陽子はマイク片手に唖然とした様子で梵能寺の門を見ていた。
どうしたのかとざわつくステージ側。
マイクのハウリング音の中、陽子の揺らいだ声が呟く。
「怪仏……!」