10. 真昼の月を染め上げて
蝉の声が入り込んでくる、昼の明かりに頼って電気もつけない薄暗く狭い部屋の中、浴衣姿に着替えていた優月を見上げていた。
ヘッドスライディングから大福をキャッチしたのだから、そんな姿勢にもなる。
「…………」
「…………」
「ゆ、優月さん……やっぱ、和服が似合うな」
なんの捻りも無い俺の言い草に優月は「当然だ」と強気な返事を寄越した。
それから続けて「私は古い人間だから」と弱気な言葉も。
相変わらずヒットアンドアウェイがお上手だ。
卓袱台に獅子屋のビニール袋が置いてあるあたり、大福は沙羅が持ち込んできたのだろう。
「浴衣、汚れてないか……? 沙羅が押し付けてきて……しかし、借り物だから……」
優月がもじもじと言うものだから、俺は立ち上がりぐるりと一周しながら上から下までじっくりと遠慮なく鑑賞させてもらった。
水彩調の黒ラインで大胆に描かれた、シックな柄と市松模様の帯がレトロモダンなデザインだった。
フンワリと高くまとめた後ろ髪の下、汗ばんだ首筋が白くて……。
指先は艶やかな赤色のマニキュアで飾られ――いまだ乾かぬそれのせいで身動きが取れないらしい。
そして正面にしゃがんでご報告。
「優月さんの口の周りは白くなってる」
なんとも愉快な口紅だった。
白い大福のほうにも艶やかな赤い円が残っている。
「食べる?」
「朝帰りどころか昼帰りの不潔が握りつぶした大福なんていらん」
「……あそ」
とはいえ、気まずさの中、俺はいつまでも大福――特選いちご大福を握っているわけにもいかず、一つ千円の食べ物を捨てるわけにもいかず、紅色の丸いラインを気にしないフリで齧りつく。
「あ」
優月が物言いたげに睨むのはわかっていた。
「勿体無いじゃん! いらないんでしょ」
「いちごだけ食べる」
「…………」
あるまじき冒涜に俺は言葉を失ったし、真顔になってしまった。
いちご大福の、いちごだけ食べるとのたまうておるのか、この女は。
「優月さん。獅子屋の特選いちご大福はこのホワイトチョコレートと牛皮でコーティングされている大粒いちごが一番おいしいし、この酸味と餡子の調和があってこそ特選いちご大福として成り立って町の名物として長い歴史を築いているわけであって――」
「ぐだぐだうるさい、いちごだけ欲しい!」
「そんなワガママを俺が許すわけが……」
そこまで言葉が滑り出てから、俺は気がついた。
優月は別にいちごが食いたいわけじゃなくて、欲しがる行為そのものをやりたいのだ。
今までそんなこと滅多に言えなかったから。
いたたまれない事情の前に、特選いちご大福へのこだわりなど容易に粉砕され、俺は大福を差し出す。
本当に遠慮も色気もなく、優月は顔を伏せて中核、最重要地点、コアを口内に収めてしてやったりの満足げに顔をあげた。
「間接キッス~ってやつだぞ!」
「…………」
むっとしながら咀嚼する優月の上唇に、白い粉だけでなく、餡子までトッピングされていた。
俺は哀れに空洞を作った残りをもぐもぐと処分する。
「一方的に身勝手を働いてやった。存外、気分がいいな」
「……だろうな。冒涜だ。いや、暴虐だよ」
「禅、次は――」
少しだけ声を浮つかせた優月のわがままは、あまりにもどうでも良いものだった。
やれ口元を拭うティッシュを取れだとか拭けだとか、窓を閉めてすだれを下ろせだとか。
何の差し引きもなくただのわがままに俺をこき使うのが楽しいのだろう。
なんにせよ罵詈雑言や暴力よりマシなので、マニキュアが乾くまではわがまま初心者に付き合ってやることにした。
「テーブルの上に、紅筆がある」
「はいはい」
その流れであるから、まんまとしてやられたのだ。
テーブルに置かれていた指定のそれを掴みあげてから俺は緊張に固まった。
それで、これを。
この密室で、どうしろと……。
いや、わかる。
紅筆が唇に紅を塗るものだと。
「口紅が落ちてしまった……染めて、欲しい。禅、貴方に」
それは、どういう……。
「……早く」
すだれを下ろしたせいでさらに薄暗く、しかし相手の輪郭を判別するのに十分な視界。
窓の外の蝉時雨はまさしく他人事で、優月は無防備であることを示すように強く瞼を閉じ、艶やかなマニキュアを理由に動かない。
ザクザクと、便宜上のタイムリミットを刻む秒針の音に追い立てられて、俺はうつむいた優月の顎をすくいあげた。
果実のような唇から強張った眉間に視線を往復させ――逡巡。
それを素知らぬ顔で差し出すなんて、考えがあるとすれば……。
俺がじっと唇の縦皺一本いっぽんを見つめながら悶々とすることくらい、もはやポンコツ優月にも想像が出来るだろう。
つまり。
であるからして。
この前みたいに、雰囲気に流されてるとかじゃないよな、これ。誘われてる……よな。
だとすれば、焦りと精一杯の勇気に背中を押されて、これがやっとなのかとてつもなくわかりにくいけれど、優月は俺にサインを送ってきている。
考えてるうちに、俺は前述した通り優月の唇を凝視しながら悶々とし、気がつけば呼吸が触れ合った。
その最中――。
「ごめんくださいー、誰もいないんですかー! たのもー! 玄関バリバリ全開であいてますよー! 無用心だな……」
はっと優月の眼が開く。
玄関先からの声は誰のものだったか――陽子だ。
さらに逡巡が積まれると、今度は俺の携帯電話が味気ないコールを歌い始める。
奇しくも間近で見詰め合う形となってしまい硬直する中で、俺は優月の目の中に怒気が燃え上がり、すぐ寂しげに冷める様を見ていた。
そんな顔すんなよ……。
俺だって独り占めしたい。
俺は、優月が。
だけど――だからこそ俺は二の足を踏んでいた。
数ヶ月前の下半身の付属物でしかった俺なら、こんな美人が童貞卒業の思い出になってくれるなんてラッキー! ってくらいにしか考えていなかった。
今や"性欲"という煩悩が消えるどころか大きくなって、苦しくなるほど"執着"している。
そのせいで氷川さんや沙羅に干渉されるのが気分悪ければ、二股野郎の俺自身が優月を染めて、"浮気相手"や"二番目"の立場にしてしまうのも同じくらい……いや、それ以上に許せない。
だから。
だから、俺は視線を外し一呼吸。
表面上の要望どおりに、紅筆を唇に下ろした。
「……ちょっと待ってて。ちゃんと、するから」
「…………」
たぶん、俺の言葉の意味は正しく伝わっていなかった。
音さえ蒸し暑い中、静かに大した動きもないのに俺は歯を食いしばりながら、額面どおり優月の唇を紅筆で染めていた。
目を閉じて差し出された彼女の唇の感触。
指先に絡まる吐息に身体の芯が拍動する。
俺は生唾と我慢と溜息を飲み下す。
二度目の着信音に阻まれながら、紅の色が整うと優月は言った。
「そうか」
そっけない三文字。
「わがままを言い過ぎた、すまなかった」
可愛くない謝罪。
「優月さん、あの」
「使わないのか」
「はい?」
「電話。それは呼ばれている音だろう? ずいぶんと長い間、呼びかけてる。私が優先されては……悪い。ほら」
「…………」
促されるまま、俺は未だにコールを鳴らす電話に応答した。
『禅兄、アパートにいる? 暇になって来ちゃった、にひひ! あのさ、玄関が開いたままだよ!』
「ああ、うん。荷物取ったらすぐ降りるから」
『良かった、いるんだ! 待ってる!』
通話を切る。
俺は先に優月と一緒に行くって約束してたのに、断り切れなくてこの様だ。
かといって別々に行こうなんて、口が裂けても言えない。
苦言の十や二十を覚悟して、俺は代案を申し述べる。
「ごめん、優月さん……断りづらくて。一緒にいこっか」
優月は憤慨どころか思案した様子もなく、言われるがまま静かに頷いただけだった。
いっそ怒ってくれればいいのに。
もっと俺に執着してほしいのに。
そんなわがまま、言えた立場じゃないのだけれど。