09. 欲深き魔乳の采配
梵能寺の朝は早く、八時起床で「遅い」「最近の若いモンは」とばっちゃに叱られる。
何せ、俺が寝付いたのは夜中の三時くらいだから。
朝食までご馳走になって、一旦荷物を置きに望粋荘へ帰ると、冴えない木造建築の前にいかつい黒い高級車が幅を利かせていた。
運転席には品の良さそうな老執事が座っており、にこりと会釈。
俺も引きつり笑いで返すが、華武吹町でこんな羽振りの良い乗り物は……どう考えても双樹沙羅社長様だ。
昨晩は華武吹曼荼羅を背負う優月と、それに気付かぬ剣咲組幹部の氷川さんが二人きり。
そこに剣咲組みに狙われている双樹社長……?
取り合わせ最悪だ。
望粋荘自体、いままさにこの瞬間、爆破が起きても不思議ではない。
ブラックボックス状態だ。
その謎を明らかにすべく、俺は自宅アパートの奥へと向かった。
安閑としたいつもの風景だが、何が起きているのかわからない。
抜き足差し足忍び足で二階に上がると、優月の部屋から人を小馬鹿にした様子の高い声が貫通してきた。
沙羅だ。
「ほらあ、ゆづきちも聞いたっしょ。禅ちゃんって何年か前に死にかけて入院したって話じゃん。あれで身体が子孫を残さなきゃって変になっちゃったんだよ、きっと」
どうしてその話題に行き着いたのかはわからないが、悪口を言われていることだけは理解できた。
そして、優月が無事であることも。
粘度の高い沙羅の誹りは、ターゲットを優月に変更しながらなおも続く。
「なのに命を懸けて、性欲我慢して守ってあげてる女は指一本触れさせてくれない、それどころか罵詈雑言の嵐だなんて……はー、可哀想な禅ちゃん。沙羅ならお礼にいくらでもして あげちゃうのになあ。ゆづきちは禅ちゃんを都合良く使ってるだけだからなあ」
「そんなつもりは……」
「あるでしょ。別の女登場で"私は身を引きますぅ~"って態度を見せて、追いかけてくれないか試してるんでしょ! ちやほやされて追いかけてもらう気満々で、下手に出てくれたら、また冷たくして安心したいんでしょ!」
「だ、だから! そんなつもりは……! そんな……」
「ホンっト残酷で傲慢で意地汚くて嫌な女! こわーい! でも沙羅はそんな醜いゆづきちをイジメるのが大好き!」
「…………」
この沈黙。
優月はコケにされて相当怒っているだろう。
いや、沙羅の言葉がまさかの図星で……なんてことも、あるのか?
だとすれば、優月は俺を試していてキープしようとしていて、アリだと思ってるってことか……?
俄然気になって、俺はさらに耳をそばだてた。
「ゆづきちはバッカだなー。禅ちゃんが欲しかったら奪っちゃえばいいのに」
「人をモノのように言うな」
そうだそうだ!
「ゆづきち、欲しくないの?」
「いらない」
さすが優月。
手のひら返しが早い。
「あっそ、ふーん。そんじゃ、沙羅がそのコから禅ちゃんを奪っちゃうね。ゆづきちは身を引くし、欲しくないから文句ないね!」
「…………」
「なあに? 強張った顔して。ふん、まさかビビってんの?」
「…………」
「地主様としての上っ面と、心の底から湧いて出る欲望。今のあんたにとってどっちが大事なのよ。わがまま言えないコは食いっぱぐれるんだから。ばかね。ばぁーか」
なんと恐ろしい場面に出くわしてしまったのだろう。
ドアの開閉音で俺が帰ってきたことなどバレるだろうし、しかしこのまま廊下に佇んでいるわけにもいかないし。
「何してんだい、禅くん」
「おわッ!」
出し抜けに声をかけられ俺は声の主――天道さんを見て、さっと彼の背後に隠れた。
といっても、白髪ぼさぼさで背中が丸まったショタジジイに、一八○センチの俺が隠れられるわけもなく。
今の大声は確実に聞かれているだろう。
だが、社長は寛容だった。
「禅くん、覗き趣味あるよね」
「天道さんだって、いつも望遠鏡覗いてるじゃないですか」
「僕の崇高な研究を、君の生理的愚行と一緒にしないでおくれよ」
そんなやり取りする間を与えて頂いた上に、
「ほーら、マニキュアおしまいっ! 十五分はじっとしててね。あと、着物汚さないでよ。うちの試作品なんだから」
と、今から出て行きますよ、と言わんばかりの言葉。
そして、ゆっくりと開いたドアから現れた沙羅は、ニヤニヤと不気味に笑い、ニヤニヤを部屋の中まで配り終えると、ドアそのままで俺たちに向き直る。
絶えずニヤニヤと近づいてきて、ポンと俺の両肩に両腕を置いた。
「まだセックスしてなかったの?」
「言い方がダイレクトすぎんだよ! もっとオブラートに包めよ!」
「禅ちゃんニブいから、わかりやすく言ってあげたんじゃん。ゆづきちもアタマ古いから控え目で困っちゃう。ま、イジメたりワルい事教えるの超楽しいんですけど。今日も沙羅が色んなハジメテを教えてあげちゃった。アハ?」
「おい、優月に何をした」
俺自身さえ想像もしていなかった鋭く低い声が出た。
沙羅は目を丸くする。
そして、再びニヤア、と。
「えー、ウッソー。禅ちゃん、エッチな想像して喜ぶと思ったのに、怒っちゃうの? 沙羅がゆづきちのハジメテをアレコレ奪って嫉妬しちゃってるの?」
「……あれ」
自分の事にもかかわらず言われてから気がついた。
確かに、俺らしくなかった。
嫉妬。
そうかもしれない。
俺の心境は「何それ、楽しそう! 混ぜて! おっぱいおっぱい!」ではなかったのだ。
昨晩の氷川さんが電話に出たときと同じ、胸の辺りが黒くモヤつく、そんな不愉快さだった。
しかし、いま考えるには厄介な問題のような気がして、俺は話を逸らした。
「で、二人で何してたんだ」
「もう、怒らないで。お着替えついでにちょっと触っただけだよお。沙羅だって行儀よく順番待ちできるんだからね」
「順番って?」
「んもう、自分でオブラートに包めって言ったばかりのくせに。後が詰まってんだから早くゆづきちを女にしてやってよ。なんだかんだで禅ちゃんとお祭り行くの、超楽しみにしてたみたいだし」
あとがつまってる?
沙羅の言葉の意味を脳が咀嚼嚥下するのに時間がかかっていた。
その間に天道さんが「なるほど、禅くんのお友達か」と意味深な言い草。何か失礼な感じだった。
「なあに? ずいぶんマセた子供じゃん、ウケんだけど?」
であるからして、強欲にして率直な沙羅は不快感を露にした。
初対面だとこのショタジジイに対しては、そういうリアクションになるわな。
話の噛み合わない沙羅に、俺は天道さんの奇病について知っていることを話す。
といっても「こういうおっさん」という非常に雑な紹介なのだけど。
すると、天道さんは沙羅が静かになったことを見越してか、「さて、僕はもっかい寝るね」と素っ気無いものだった。
UFOを追い掛け回しているこのショタジジイは夜行性なのだ。
であるから、上の階がやかましくて苦言を言いに出てきたのだろう。
そりゃ悪いことしちまったな、おやすみなさい。
俺が手を振る一方、色んな意味で手の早い沙羅がその白衣を引っ掴んでいた。
「え」
あっという間に手繰り寄せ、天道さんの小さい肩を乱暴に揺さぶる。
「その病気の話、詳しく聞かせて! その若さの秘密を教えて!」
「ン……ガゅっ」
ばゆんばゆんと揺れる御御御乳が天道さんの顎を何度もアッパーしており、恐ろしいやら代わってあげたいやら。
乳撃を食らう中、ちら、と天道さんからSOSの視線が送られてくる。
「禅ちゃんはゆづきちの面倒みててね、二人っきりにしてあげてる」
「た、助けっ……おぱっ! おっぱいが、痛い! 禅くん!」
はて。
このショタジジイは、俺の事を助けてくれたことはあっただろうか。いや、無い。間髪入らぬほど無い。
そりゃあ些細なことはあったかもしれないが、俺は簀巻きにされたことを絶賛根に持ち中だ。
後ろ髪引かれていた優月に「過去にも将来にも責任もてない」とかいってイメージダウンを謀った張本人だ。
ならば答えは一つだ。
「さよなら、天道さん」
「禅くん! 裏切ったな! おじさんを裏切るとどうなるか覚えておいたほうがいいからね! 絶対に許さないよ、絶対に!!」
言ってる途中から沙羅に小荷物のように運ばれ、天道さんの遠吠えはどんどん小さく消え入った。
そのままリムジンに乗せられてブーンと双樹ビルまで連れて行かれるのだろう。
いい気味だ。
「ン――!」
俺だけが立ちんぼで静まり返った廊下に、優月の呻くような叫びが聞こえる。
沙羅のことだ、何か余計な事をされているのかと思って咄嗟に解放されたままのドアから覗き込むと、そこには浴衣姿の優月が肘掛つきの椅子に座っていて――何故か口を大福でふさがれており、縛られているわけでもないのにうーうー呻いていた。
さては沙羅にやられたな。
最近ぎくしゃくしてた分、入りづらいし、冗談がてらちょっと面白おかしく茶化してやろうと思ったそのときだ。
ぼろっと真っ白な大福が優月の口元からはずれて、膝の上に零れ落ちようとしていた。
浴衣、試作品――借金。
その言葉が脳裏にちらついた俺の身体は咄嗟に動き、頭から畳に突っ込むと同時に大福をキャッチ。
えてして、こんな乱暴なアクションで俺は優月の部屋に入り込んだわけだが……。
「…………」
「…………」
喋りづれぇ……。