第15話 明けない夜に
聖神暦時代の第六海域における『大型艦』の規模は、かつて陸が存在した時代の大型空母や豪華客船と比べると数分の一にも届かない。
三段重ねに連結している石棺の合計はせいぜい数十基で、軍事上の攻防においても、輸送の利便においても、それ以上の大きさは必要とされなかった。
騎甲を十機、兵甲を三十機ほど積載できるなら、艦数を増やして上陸地点を分散できるほうが運用しやすい。
アリハたちが乗るグオツーク公国の船も甲板の全長は石棺七基ぶんの35メートル、全幅は五基ぶんの25メートルしかない。
簡単に声をかけあえる距離だが、周囲で鎧が爆音をあげていたり、風が強い時のために半鐘や警笛も使われていた。
台風や落雷も発生する……ただし聖神暦時代の海は、気流や海流がぶつかる大陸を持たないにも関わらず、陸が存在した時代に予測されていたような超巨大規模の波や台風は発生しない。
それどころか内海のように波は低く、海流も穏やかだった。
しかし漁は低空から網を吊り上げる手法に限られ、浮遊船を海面へ接触させることは避けられている。
石棺には漁獲物の選別を自動で済ませる機能まで備わっていた。
直接的な収穫はほとんどが小魚だったが、食用にならなくても堆肥にできるものならなんであれ、浮遊島から失われ続ける土壌の追加として常に大量に必要とされた。
そしてこの時代の漁獲物を人間の手で選別することは困難だった。
あらゆる海水には堆肥にもできない、しかも石棺を痛めてしまう微細な無機物が大量にまぎれこんでいる。
ある程度の気象制御もできるほど大量に。
この時代でも海は貴重な食料をもたらしていたが、生命の源という印象は薄くなっていた。
石棺は万能に近い生存基盤だったが、それも損傷が進んで浮力を失えば、最期はゆっくりと海水に蝕まれるしかない。
遺体も水葬が一般的で、身投げによる流民の集団自殺が絶えないことからも、海は直接的な死後の世界であり、浮遊島でしか生きられない人類にとって、身近に目視できる冥界になっていた。
犬や猫よりも大きな海洋生物は、石棺に残された記録でしか見ることができない。
まだ石棺がなかった太古に生息していたクジラやウミガメなどは、人類史以前の恐竜や、神話の火を吹く竜と大差がない、幻想的な存在になっていた。
数十メートル上空の甲板から見下ろす『制御された海』には目視できる魚影もなく、ひたすらのっぺりと水平線のかなたまで広がるばかりで、時おり海面に浮き漂う石棺が自身の分解を待つだけの姿も、その下に眠る無数の遺霊を想わせる墓標になっていた。
アリハは流民だったアズアム族の出身だが、赤ん坊のころからギアルヌ本島とは地続きの生活で、百メートル四方しかない集落の全方位に海しか見えなかったころの生活は知らない世代だった。
それでも物心ついた時から食卓で、あるいは漁や耕作の作業中に、当時の苦労を上の世代から聞いている。
そして海や船の話になると、クローファが表情を失ってうつむく姿も見続けている。
苔粥ばかりでしのぐしかない食事、細々と集めた土地やどうにか育てた作物すら空賊に奪われる不安、逃げきるためには少ない人数でも交代で見張るしかない負担。
そして漂流生活からの脱出に不可欠な新しい石棺を集めるには、国家や空賊と奪い合わなくても済む、遠い海へ出る必要があった。
そこでは閉塞感が深刻化する。
はるか遠くまで『死後の世界』だけに囲まれた毎日で、たいした収穫もない状態が何ヶ月も何年も続くと、石棺の医療装置で情調不安定だけは沈静化できても、冷静に身投げを選ぶ者が増え続ける。
感情をだまし続けても、消せずに積もる絶望が、断崖への足どりを軽くした。
アズアム族の漂流小島は少しずつでも畑を広げ続け、わずかでも兵甲戦力を維持できていたが、そこまで順調に発展できる流民は極めてまれだった。
しかも長老ドリスパは空賊稼業にも手を出さないで規律を維持し、その高潔と統率に対し、ギアルヌ国王マクベスは対等な国家としての敬意を払い、一時的な商取引だけで関係を終わらせることを惜しんで引き止めた。
ちょうどアリハとビスフォン、そしてリルリナが生まれた年のことだった。
それから数年後の日没後、たった四基を連結させた流民の石棺がギアルヌ王国へ近づく。
空賊ではないことを示すために石棺の内部をさらし、離れた位置で呼びかけ続ければ、ほとんどの国では援助物資を渡す慣例になっている。
内容や量は決まっていないが、釈放する囚人へ渡すものとそう変わらない。
国により、あるいは応対する役人によっては露骨に蔑み罵った。
恥を忍んで慈悲へすがるだけでも、気力体力は必要なものだった。
商取引は断られることが多く、行商人には不利な相場を強いられ、国家からの保証がない闇商人にいたっては取引中に空賊へ化けかねない。
「もう売れるようなものはありません。ただ、まだ生きようとする者も残っておりますので……」
その漂流船はギアルヌ本島の南側へ近づいていたため、救助にはアズアム族の小船が向かっていた。
アリハの父、族長マスアドは大きく開けられた石棺の内部を見まわす。
ベッドにうずくまり、頭部を壁にめりこませて医療機能を使いっぱなしにしている者が六名。
座りこんで視線も向けない者が四名。
立ってまともに出迎えた五名も、あまりに生気のない顔をしていたため、マスアドは『すでに限界を超えたあと』と察する。
「元は何人いたのかな?」
「最も多い時には五十名ほど……」
子供はひとりだけ座りこんでいたが、いつの間にか立ち上がって出迎えの列に加わり、暗い無表情のまま片膝をついて礼を示した。
マスアドは持っていた袋を差し出す。
「これだけ持って立ち去れ……そう言われたことにしてくんねえかな?」
漂流者の長老格だった中年男は意味をはかりかねた。
「今夜の風呂とメシを用意させるから、そのまま寄っていってくれ」
袋の中には焼き菓子がつまっていた。
「とりあえず、着くまではそれでも食って……着いたら樽ひとつくらいはなにか用意できるから」
「でもそんなに、いいのですか?」
「だめだな。ギアルヌの王様は貧乏なくせに、流民の面倒を見すぎる。それでこの国がつぶれたら、同じように流れてきた連中に、オレらは一晩きりの歓迎もできなくなるのに」
「わかりました……夜明け前には、見つからないように出発しましょう」
漂流船には樽三本の物資が運ばれ、アズアム族の自警団だけでささやかな歓迎会が開かれる。
「どう感謝していいのか……しかし厚かましいようですが、もしお願いできるようでしたら、あとひとつだけ……いえ、我々はもう十分すぎるほどですが、この子だけは……」
「その子ひとりだけならたしかに……しかしなあ……う~ん?」
マスアドは腕を組んで考えこみ、少年を観察する。
まともな食事はひさしぶりのはずだが、スープをほんの少しずつ口へ運ぶだけだった。
漂流船から出てこられるだけの気力が残っていた七人のうち、四人は同じ調子だったが、少年はまだ視線がいくらか動き、周囲への関心が残っているようにも見える。
積みこみ作業を終えた犬鬼兵甲からまだ八歳のアリハが降りてくると、特に長く見ていた。
「この子には……クローファには、生きる理由があります。家族をすべて失っていますが、この子の姉はとても強い娘で……誰よりもクローファを守り続け、最期は自分を犠牲にしてまで……」
少年の手が止まり、その瞳はスープの中に奈落の海を見出す。
母の手で引きずりこまれそうになった断崖と、身代わりになって助けた姉の両方を飲みこんだ嵐の荒波。
マスアドはじっとクローファを見つめ、視線が合うまで待ってからきりだす。
「だいぶ……大変だったらしいな? それならなおさら、ここへひとりだけ残されるより、顔なじみの人たちといたほうが落ち着くかもしれない……でも選べ。おまえはここに残れば、自分の土地を持てるかもしれない。そうなったら、またこの人たちが来た時に、家族として家に呼べる人も増やせるかもしれない。どうするか、出発までに考えろ」
クローファは困惑するが、食卓に加わっていたアリハは干物にかみつきながら、すでにいらいらとしていた。
「考えなくていいだろ。おまえ、ここに残れ。その人たちもみんな呼べるくらい、たくさん働けばいいだけだ。オレも手伝ってやる」
居合せた大人たちは呆気にとられるが、異論も出ない。
漂流者の長老も驚いていたが、我に返るとクローファの両手を握った。
「クローファ。ここまで言ってくれる人もいるのであれば、私はもうなんとしても、君に残って我々の希望になってほしいのだが、願いを聞き届けてもらえないかね?」
漂流者たちは夜明け前まで待たず、食事が終わるなり出発した。
見送るマスアドはクローファの肩に手を置く。
「私が息子としてあずかりますので……アリハも弟としてめんどう見てやれ」
「またか。わかった」
すでに二年前、ビスフォンも両親を失って養子になっていた。
「クローファ……良い息子、良い弟になるんだよ? その人たちのことは全力で大事にするんだ。これからはマスアドさんを本当の父、アリハくんを本当の兄と思って……」
漂流船が遠ざかってからアリハは小声で「またか」とつぶやく。
マスアドは「せめて目印に髪でも伸ばすか?」と心配する。
「まあ、もうすぐ胸もでかくなって、まちがわれないようになるだろ。それよりクローファ、おまえ、鎧に乗ったことあるか?」
クローファは無言で小さくうなずく。
声を出せるようになるまで数日、表情を見せるようになるまではその何倍もかかった。
その後は畑や牧場の仕事さえできる生活なら、朝から晩まで毎日、しあわせそうな笑顔を見せるようになった。
それから八年、クローファが乗っていた漂流船の消息は途絶えている。
アリハは漂流生活を知らないだけに、考えなければ気楽でいられるが、考え出すと恐怖の底をつかめない。
自分の体がだんだんと鎧に壊され、運が悪ければ短い人生になることは承知している。
しかし自分の家族や一族、同僚、それに王女リルリナと、リルリナが大事にしてきたギアルヌの住民を敗戦で『死の海』に漂わせ、生きる意志まで奪われる末路を思うと、やりきれなくなる。
そこまでして小国への侵略を続ける大国が、なぜ神の罰を受けないかはわからないままだった。
それでもアリハは一族から与えられた肉体と信義をもとに、一族を守り、王女リルリナへ忠誠をつくす決意を空へ誓いなおす。
石棺に手厚く保護された世界でも、祈るしかないことは多い。
石棺にすがるしか生きるすべがない世界でも、祈りだけは人が人であるための支えになりえた。
持つものが少ないアズアム族のアリハは、祈り以外に必要なものが少ないことを知っている。