穴倉の実験場
「ここには何人いますか?」
裏野ハイツを舞台に起きた凄惨な事件
青山刑事はその容疑者の取り調べを引き受けた
聞き込みで分かる容疑者の行動や過去
最後に容疑者自身が語った言葉とは
夏のホラー2016投稿作品
「ここには何人いますか?」
男が取調室に来てからはや30分。ようやく出た第一声が、その言葉だった。手足を拘束服に縛られ、動かせるのは首より上だけ。この部屋に人権なんてものは存在しない。それだけ目の前にいる男の凶悪性が高いという事の証だった。警察だって、何も片っ端からこんな事をしている訳じゃない。もしも脱走なんて事になってみろ、それこそ警察の信用も権威も地に落ちてしまうだろう。私はお世辞にも長いとは言えない足を組み直し、小さくため息をつきながら訊ねた。
「どういう意味だ」
しかし男は私の質問など耳に入らない様子で、忙しなく眼球を動かしながら先ほどの意味不明な言葉を繰り返す。
「ここには何人いますか?」
私は同じ取調室にいる部下の柏木とアイコンタクトを取り、パイプ椅子から腰をあげた。無意識に上着の内ポケットからタバコとライターを取り出そうとしてしまう。だが、どちらも取調室に持って入ることは許されず、外にいた黒服の男に預けてきたのだった。私はこれ見よがしに舌打ちをして、マジックミラーになっている鏡の前に立つ。恐らくこの向こう側には、県警にとどまらず、警視庁、その他もろもろのお偉いさんが覗いている事だろう。そういう意味で言えば、何人かと問われれば、「分からない」と答えるしかあるまい。
「ここにいるのは、私、あっちの机で記録を取ってる柏木、そしてお前。ちょっと待ってくれ、今数えてみる。ひぃ、ふぅ、みぃ、・・・分かったぞ。答えは三人だ」
私は男に折った指を自慢げに見せつけながら言った。
人は平気で嘘をつく。・・・いや、やっぱりちょっと待った。言い訳をさせて欲しい。考えてもみろ、ここで実は大勢に囲まれてるんですよなんて正直に話したところでどうなる。無駄にプレッシャーをかけて、居心地を悪くしてしまうだけじゃないか。音痴を理由に、おひとり様じゃなきゃカラオケにいけないなんて言ってる小心者を捕まえて、いきなり満員の武道館のど真ん中で歌わせてみろ。それはもう拷問以外の何でもない。そうだろ?・・・何?誰もカラオケの話はしていないだって?ああ、そうかい。じゃあ言わせて貰うよ。私は嘘つきだ。これでいいか?
「三人・・・、そうですか」
自由奔放に動き回る男の目玉がぴたりと止まった。真っ青だった顔色が、みるみるうちに良くなっていく。男は深く息を吸い込み、神に祈りを捧げるかのように天井を見上げた。ほらみろ、作戦成功だ。嘘も方便。これぞ一日の長、ってね。私が何年こんな穴倉で、毎日毎日頭のおかしな奴らと接してきたと思っているんだ。私は男とのやり取りを固唾を飲んで見守る柏木に向かってウインクをした。柏木は事件の資料を持ってくるフリをして、「青山さん、はじめは嫌がってたくせに、調子いいんだから。後で怒られても知りませんからね」と耳元で囁く。
柏木の言う通り、最初私はこの取り調べに乗り気ではなかった。そもそも何故これほど世間を騒がせた犯人が、中央へ連れていかれず、こんな辺鄙な警察署で取り調べを受けているのか。すでにそこからきな臭い。こんな危険人物、さっさとどこにだって連れていけばいいものを、管轄だか、縄張りだか、面子だか知らんが、とにかく上は頭が固すぎる。とは言え、私自身それでお金を貰っている一人の公務員に過ぎないのも事実だ。刑事といえど命令違反や問題を起こせば、簡単にお払い箱にされる時代。いくら怪しかろうが、上司からやれと命令されれば、やらざるを得まい。
「どうだ、何か我々に話したいことがあるか?」
こういう時は何でもいいからまず喋らせるのがいい。こちらの質問に答えさせるのではなく、自分から話すという事が重要だ。どんなに関係のない話でも、何か一つ、犯人の琴線に触れるものがあれば、そこから涙ながらに自供、なんてことはよくある事だ。私は相手の言葉を粘り強く待ちながら、男の目の前の席に戻った。パイプ椅子がぎしぎしと大きな音を立てる。いつになったらこのボロ椅子も買い換えてくれるのやら。深く腰掛けながら、私は資料を広げた。この事件、裏野ハイツ事件の概要に目を通していく。
まず現場となったのは、事件名にも使われている裏野ハイツ。築三十年で木造二階建。部屋は一階に三つと、二階にも三つ。交通の便が良く、家賃も安い。日当たりは、まあまあと言ったところか。周りは閑静な住宅街で、近くに小学校もある。これほど血生臭い事件が起きようとは誰も予想だにしなかっただろう。
被害者はこの建物に住む七十代の女性、を除くすべての住人。一階の三部屋、そして二階の一部屋から遺体が見つかった。第一通報者はとある宗教の信者だった。近所を一軒一軒回りながら宗教の勧誘活動をしていたところ、廊下に点々と続く血痕を発見。偶然開いていた扉の向こうに遺体を見つけ、すぐに警察に通報。我々が到着した時点で、すでに息の残った人間はいなかった。
凶器は、刺し傷の形状により一般の家庭にある洋包丁と思われる。しかし遺体によっては首筋を食いちぎったような跡や、手足をねじ切ったような到底人間の力では不可能と思われる形跡もあり、異常者の犯行である事が推測された。
捜査当初から容疑者としてあがっていたのが、202号室の住人、本田啓介(20)。大家によれば普段から全く表に姿を見せず、入居の手続きも親類の者が代わりに行ったそうだ。家賃の滞納はなし。大家ですらきちんと顔を見たことがなく、いるのかいないのか分からない生活を送っていたらしい。事件発生から丸一日経っても連絡が取れない事。深夜、付近でそれらしい男性が自転車を漕ぎ、走り去る様子が目撃されていた事(この件に関し、唯一の生き残りである201号室の住人から容疑者の学生時代の写真が提供された)。何より遺体の傍で発見された包丁から、本田啓介の指紋が検出された事。この三点において、最も事件を詳細に知る者、ないしその犯人ではないかと目された。
翌日になって、国道に異例の検問が張られた。今までにない数の応援が他県から派遣され、捜査には湯水の如く人員が投入された。全て上からの命令だ。これは私の勝手な憶測だが、この命令は我々では到底計り知る事のできない、遥か上から出された物ではないかと思う。その翌日には全国指名手配。いつもの愚鈍さは見る影もなく、捜査はスピーディーに展開された。
事件から四日後、隣町の公園にある遊具の中でうずくまっている所を、巡回中の警官が発見。即刻、逮捕。しかし激しい衰弱が見られたため、救急車にて病院に運ばれ、治療が施された。昨日退院し、今に至る。
この四日間というのは本当にあっという間だった。ベテラン刑事とは言えないまでも、そこそこ場数を踏んできた我々ですら、振り落とされないようにしがみついているのが精いっぱいだった。裏ではいくつかの組織が、我々に知らされず動いている気配がある。表側にまわってくるお役目と言ったら、聞き込みや張り込みといった足を使う仕事ばかり。だが、それに不満を抱く暇もないくらい、次々に上から命令が下りてくる。それがまあどれもこれも、・・・何て言うの?我々刑事のツボを押さえてるっていうかさ。とにかく細かいのに無駄がない。仮に予備校の教師なんかやらせれば、生徒全員東大に合格させられるんじゃないか?ともあれ、この指示を出してる奴は相当頭がキレる奴だ、間違いない。
私が最初に聞き込みに向かったのは、本田啓介が全国に指名手配される前日だった。向かった先は、本田啓介が学生時代を過ごした土地。同級生ってのは、大抵一人や二人はその土地に残っているものだ。電話でアポを取り、待ち合わせは午後3時。眼鏡をかけ、肩からバッグを提げた少年が公園の向かいにある横断歩道で足止めを食らっているのが見えた。
「あいつ、何かやったんですか?」
「いえ、まだそうと決まった訳ではないんですがね」
「あー、もしかして容疑者ってやつですか?」
「まあ、ええ」
私は苦笑いを浮かべ、言葉を濁す。その時点で本田啓介個人に対する聞き込みは、本当にただの取っ掛かり程度で、他の容疑者についても並行して捜査されていたからだ。まだマスコミにも情報が止められている。もし誤りだった場合を考えれば、事を大きくしないに越したことはない。
「へえー、あいつが容疑者ねえ」
「彼とはご友人で?」
「友人?よして下さいよ、ただの同級生です」
「そうですか。では、学生時代に何か変わった事がありませんでしたか?」
「変わった事?」
「ええ、例えば人とは違う趣味があった、とか。校内で何かしら問題を起こした、とか」
「ないですね」
少年の即答を受けて、私は一瞬言葉を失った。こちらの発言に被るほど食い気味の返事だったので、少年が何も考えず適当に答えたのかと思ったくらいだ。私はその一瞬で、思考をフル回転させる。本当に何もなかったのか?刑事の感が囁いている。こいつ、何か隠しているんじゃないか。考えれば考えるほど怪しく思えてきた私は、この話題を深く掘り下げることにした。
「全くですか?」
「ええ、全く。普通のいじめられっ子でしたよ」
「・・・ほぉ。彼はいじめられていたんですか」
私は上着のポケットから取り出した手帳に、ボールペンでメモしていく。
「ええ、普通にね。まあ明るい方ではなかったですし、実は僕もいじめられてたんですけどね」
「それはその・・・お気の毒です」
「学生だって、ストレスが溜まるんですよ。それを発散するのに小さないじめは日常茶飯事です。けど、一応うち進学校ですから。加減を知ってるっていうか、後で自分の不利になるようなところまではしないんですよ」
少年は中指で眼鏡を持ち上げながら、くつくつと笑う。その後に聞かされた話の中にも、さして本田啓介の性格や内面に迫る情報はなかった。・・・・・・刑事の感だって、時には外れる事もある。そういつもいつも当っていたら、犯罪なんてこの世からとっくになくなってるさ。私は手帳を上着に戻し、礼を言ってから立ち去ろうとした。その去り際、少年は何か重要な事でも思い出したかのように、「あっ」と大声をあげた。
「そうだ、そういえばあいつ背後から声をかけられると異常に驚くんですよ」
「・・・はあ。それで?」
「それを面白がられて、クラスのいじめっ子に何度も何度もやられてましたよ」
「そうですか・・・」
本田啓介の同級生と別れた足で、私は裏野ハイツの大家の元へ向かった。所有する物件で大量殺人が起きたのだ、すでに何度も何度も警察に話を聞かれた事だろう。こんな場合、入れ代わり立ち代わり現れる警察官に嫌気がさし、証言を拒否なんて事もしばしばある。私は聞き込みを円滑に進めるため、駅前で茶菓子の一つも選んで行くことにした。
「そう、急に来たのよ」
「はあ、急にですか」
前述した私の心配は杞憂に終わった。住所録を頼りに訪れた大家の家で私は今、自分が買ってきたはっさくゼリーに口をつけている。大家はアポもなしで訪れた私を微塵も怪しがる事なく、警察手帳を提出する前に家にあげてくれた。そして、まるで来る事を予測していたかのように熱々のお茶が運ばれてきて、私に向かって何の話が聞きたいのかと逆に迫って来た。
「それで、顔を見てもいまいちぴんとこないもんだから、名前を聞いてようやく分かったのね」
「そうですか。で、本田はここに何をしに来たんですか?」
「人数を聞きに来たのよ」
「人数?人数というのは一体何の人数ですか?」
「裏野ハイツに住んでる人数よ」
私は慌てて手帳を取り出し、大きな文字で書き込んだ。これはもしかすると重要な証言かもしれない。
「それで」
「答えたわよ。別に隠すようなことでもないでしょう」
いや、それは隠さなきゃいけない事だろう。今の時代、プライバシー保護法やらなんやらで情報の取り扱いが難しくなってきているんだ。これだからおばちゃんという種類の人間は・・・。
「教えてしまったんですね?」
「ええ。何でそんな事聞きたいのか知らないけど、めったなことはしないでねって言って、りんごを持たせて帰したわ。あ、そうそう。田舎からたくさん送られて来たりんごがあるの。あなた、よかったら持って帰る?」
私は読み終えた資料をそっと閉じ、机の上に投げた。真っ黒い冊子が、机の上でスピンして、止まる。こちらがボールを投げてから、また30分。男はセガールよろしく沈黙を続けている。私は時計に目をやり、その後で自分の腹時計に耳を傾けた。今日はここまでだな・・・。パイプ椅子を立とうとした時、狙いすましたように男が口を開いた。
「情動感染って知ってますか?」
どうやら男は、私をこの穴倉から出したくないらしい。期待させるだけ期待させた腹の虫に詫びを入れ、私はまたどっかりと椅子に腰を下ろす。
「知らんな」
私は柏木に目で合図を送ってみるが、同じく柏木も首を横に振った。
「心理学の言葉です」
連続して男が喋った事に、私は安堵した。一言喋るのに30分間のインターバルが必要不可欠だとしたら、私はすぐにでもあの扉を蹴破って、行きつけのうどん屋に直行していたところだ。
「心理学か。悪いが私にはそっちの知識がなくてね、どんなもんなんだい、その・・・あー」
「情動感染」
「そう、その情動感染は」
男はふぅーっと細く息を吐き出し、瞼を閉じた。1分ほどして、まさか寝たんじゃないだろうなと私が心配し始めた頃、唐突に目を開き、小さな声で語り始めた。
「ある高校でこんな事件があったのを覚えていませんか?一人の生徒が女の幽霊を見たと騒ぎ、倒れてしまった。すると周りの生徒までもが体調不良を訴え、救急車を呼ぶほど事態が大きくなってしまった」
男が話したのは、少し前に全国ニュースになり、世間でそこそこ盛り上がりを見せた事件の概要だった。オカルトチックな見出しや、内容のあまりの奇天烈さに、私自身未だによく覚えている。感受性が高い、と言えば聞こえはいいが、要するにそれほど周りの情報に流されやすいというだけの話。あの事件も、最終的には集団ヒステリックとかそんな言葉で片づけられたんじゃなかったか。
「あれが情動感染です。一人の強大な恐怖が、周りに伝染してしまった」
「ふーん、なるほどな。で、それが何だって言うんだ?」
「それは・・・」
ついさっきまで饒舌だったはずの語り口が、いっきに萎んでいく。
「なんだ、そこまで言ったんだ。最後まで言ってみろ」
「いえ・・・」
男は口を閉じ、がっくりとうな垂れてしまった。私は咳払いをし、脂でベトベトした前髪をかき上げた。この一週間というもの、捜査や後処理でろくに風呂にも入れていない。それもこれも、全て目の前にいる男のせいだ。その男の口から、情動感染だのなんだのと怪しげな言葉を聞かされても、もはや欠伸の一つも出てこない。私は机の上に置いた指を動かしてリズムを取る。まるで競走馬が走っているような音が、静まり返った取調室の中に響いた。経験上、追い込まれた犯人が支離滅裂な発言を繰り返すのは、よくある事。そうだとしたら、思ったよりも自白は近いかもしれない。
「実は」
「どうした」
「実は何も思い出せないんです」
「・・・・・・それは殺しのことか?」
「いえ、僕が思い出せないのは、その後なんです。その後の四日間が、ほんと頭ぐちゃぐちゃで」
男はぎゅっと目を瞑り、そして子供が駄々をこねるみたいに首を左右に振った。まるで首より下から這い上がってくる何かを振り払うように何度も何度も。私は急いでマジックミラーになった鏡の方を見た。ついに吐いたぞ。その後とは、つまり殺しの後の事。今こいつは自分で殺しの事は覚えていると認めたのだ。神経を研ぎ澄ました私の耳は、それをばっちり聞き逃さなかった。次第に男の息が荒くなる。過呼吸寸前まで悪化したのを見計らって、私は机に身を乗り出した。すでに自供はとれたんだ。あとはお偉いさんが止めに入るまで遊んでやるとしよう。
「そうか、じゃあヒントをやろう」
「ヒント?」
「君はお寺に行ったんじゃないか?」
本田啓介が全国に指名手配されたその日、私は午後から人と会う約束をしていた。何でもその人物は重大な手がかりを持っているとかで、署内でも指折りの精鋭である私が直々に出向くよう、上から命じられたのだ。重大な手がかりとは一体何だ。不謹慎かもしれないが、私の心は期待で高ぶっていた。待ち合わせの十分前、私は運転手付きの黒塗り覆面パトカーで、とある寺の駐車場に乗り付けた。
「それでしたら他の警官が話を聞きにきたんですがね」
「いえいえ、それでは困るのですよ。パトカーみたいな俗物をこの寺に入れてもらっては」
「はあ」
私の期待感は見事に裏切られた。身長がざっと小学五年生女子くらいのつるっぱげ親父、もとい徳の高そうな坊主が、我々をここに呼んだ張本人だった。チビのくせに態度が大きい。残念だが、私の嫌いな人間ランキングで上位に入っている。出来る事なら今すぐにでもお暇したいところだが、この際ランキングの事は一度忘れよう。我々が欲しているのは手がかりだ。もしこの坊さんの口から私の期待に沿うような、逆転満塁HR級の手がかりが飛び出したとしたら、そのツルツルピカピカした頭にキスをしてやってもいい。何なら身長も2,3センチ分けてやろう。しかし、肝心の手がかりの方も聞く限りでは無駄足と言わざるを得ない。この坊さんは、自分がお祓いをした男が容疑者に似ていたかもしれないというだけで、署内でも指折りの精鋭である私を呼びつけたらしい。防犯カメラなどの記録は一切残っておらず、頼りになるのは人の記憶力だけ。なお悪いのは、応対したのがこの坊さん一人だけで、他の人は誰一人目撃していないというのだ。
「ちなみにその男には霊が憑りついていたんですか?」
「ええ、女性の幽霊が完璧に憑りついておりました」
「祓えたんですか?」
「当然でしょう」
坊さんはやたらと威張りながら言ってのけた。
「かなり切羽詰まっているご様子でしたので、私直々にお祓いをして差し上げましたからね」
帰りの車中、我々は坊さんの悪口で盛り上がっていた。
「もしも胡散臭さが罪になるとしたら、真っ先にあいつからしょっぴいてやるのに」
「まったくですね」
運転席に座る柏木はハンドルを右に切りながら、私の言葉に賛同する。
「パトカーが俗物だ?宗教には詳しくないが、そんなの聞いたこともないぞ。偉そうに」
「偉そうって、青山さんも時々あんな感じですよ」
「よせよ、冗談でも」
私は後部座席の窓を少しだけ下ろし、タバコに火をつけた。こういう肩透かしを食らった後のタバコは、どうしてこうも体に悪そうな味がするのだろう。
「なあ、柏木。お前、幽霊って信じるか?」
「青山さん、もしかして飲んでます?駄目ですよ、職務中に飲んじゃ」
「あほ、飲んでないわ。・・・・・・幽霊、いるんだよなー」
「うっそ。まさか青山さんって幽霊信じてる系の人ですか?」
「だって前の飲み会の時、財布から一万円なくなってたもん。ありゃ絶対に幽霊の仕業だね」
「え゛っ」
「おい、え゛っ、ってなんだよ。お前まさか盗んだんじゃないだろうな」
「ちっ、違いますよ。青山さん覚えてないんですか?べろべろに酔っ払って、隣で飲んでたお姉ちゃんの胸揉みながら、気前よく一万円あげてたじゃないですか」
「・・・・・・記憶にございません」
本田啓介の親は両方とも他界していた。しかし母親の方に妹がいた事が分かり、私はアポを取ってからその自宅に向かった。自宅前の路上には記者と思われる人間が数名、何をするでもなく居座っている。どこで情報を嗅ぎ付けてくるのか知らないが、そのうち犯人ですら見つけてくれないものかと私はいつも思う。だが、無理だろうな。こいつらにそんな根性ある訳がない。
「ええ、私が代わりにハイツの契約をしました。死んだ姉のためですから」
キッチンから戻ってきた女は、慣れた手つきでエプロンを外し、自分の据わるソファーの脇に畳んで置いた。私は窓越しに広がる大きな庭を眺めながら、スプーンでカップの中をゆっくりとかき混ぜる。白いミルクが螺旋を描き、コーヒーの色に染まった。私はカップを持ち上げると、香りを楽しむようにしてから口に運ぶ。たまには砂糖を入れ過ぎたコーヒーというのも悪くない。
「・・・私たち本当に困ってるんです。警察が来たと思ったら、次々にマスコミが集まって来て。ご近所にも迷惑ですし、あまり周りをうろうろされても」
「奥さん、我々も迷惑をかけたいがために何度も押しかけているんじゃないんですよ。これが仕事なもんですから」
「ううっ・・・」
女は気まずそうに視線を下げた。確かに最近のマスコミは相手が一般人であっても昼夜問わずの張り込みが常態化している。それは全く関係のない人間からしたら迷惑以外の何でもなくて、ご近所の中で多少の風当たりが強くなるのは避けられない。だがしかし、だ。我々警察は、マスコミのような屑共とは違う。何故なら我々は社会の秩序を守るという責務の元に、仕事を全うしているのだ。それなのに煙たがられるのは甚だ遺憾である。市民はもっと我々に快く協力して貰わなくては。
「それで、本田啓介さんと最後に会ったのはいつですか?」
「ハイツに引っ越した日です。それ以降は一度も会ってません」
「その時、何かおかしな様子はありませんでしたか」
私の問いに対し、女は言葉に詰まる。異常なまでの瞬き、急激な発汗。どれをとっても、やましいことがあるのはバレバレだ。まさに今、満を持して私の刑事の感が叫んでいる。この女、何かを隠しているぞ。
「おかしな様子、あったんですか?」
「それは」
「あったんですね?」
「・・・・・・姉から聞いたんです。実はあの子、生まれながらに幽霊が見えた、って」
肘の痺れを感じた私は、一旦前傾姿勢をとるのをやめ、パイプ椅子を引こずって男の隣まで移動した。俯いたままの男の顎をつかむと、力任せに持ち上げた。
「お前、薬でもやってんのか?」
すぐそばで聞こえた声に男が反応して、ぶるぶると小刻みに震えはじめた。私はそれが妙に面白おかしくて、何度も何度も繰り返し男に声をかける。
「く、薬なんてやってませんよぉ。薬どころか、お酒だってほとんど飲んだことないし」
「そしたら、あれだ。精神鑑定狙ってんだろ?あんなにたくさん殺しちゃったもんな」
「え?え?そんな」
「じゃあ一体これは何なんだ!」
私の怒声が、男の泣き言をかき消した。同時に一冊のノートを机の上に叩きつける。ふん、この異常者が。警察相手に言い逃れなんて、百年早いんだよ。私はB5サイズのノートを拾い上げると丸めて筒状にし、男の肩や頭を順々に叩いていく。しばらく男は私の顔から目が離せない様子だったが、次第に息が荒くなり、もう見ていられないという風に顔を背けた。私は男の髪を掴み、強引に前を向かせる。あらかじめ張っておいた付箋を頼りに、あるページを開いた。
「ここだよ、ここ。『人間と幽霊の隔たりが曖昧になってしまった。僕にはもう二つの違いを見分ける事が出来ない。怖い怖い怖い怖い怖い怖い』。これは何だ」
「何って」
「何だと聞いている!」
「そのままの意味ですよ!僕は目の前の人間が人か霊かも分からなくなってしまった。お陰で精神状態は無茶苦茶。部屋の外に出る事さえままならない。もう・・・、お願いですから耳元で叫ばないで下さいよ!」
「それで?」
「・・・それで?」
「いいから話を続けてみろ。今度こそ最後までじっくり聞いてやる」
どうせその妄言が、お前の最後の与太話になるんだからな。
両親が事故でこの世を去ったのは二年前。二人は生まれつき幽霊が見えた僕を、暗闇とは無縁の明るい光の下で育ててくれた。その両親が、昨日はいたのに今日いない。僕の現実はそこでぷっつりと途切れてしまった。
ただぼーっとベッドの上で天井を眺める毎日。何度も両親の元へ行きたいと願った。だが、僕には最後の一歩を踏み出すだけの勇気がなかった。暗闇から守ってくれる両親がもういないという事実は、僕をひたすら恐怖の中に引きずり込んでいく。僕はその沼の中で身動きが取れず、ただ腐るのを待つだけだった。
おばさんの勧めでハイツに引っ越した。僕は両親と過ごした家を離れるつもりはなかったんだけど、おばさんが勝手に契約をすませてしまった。環境を変えれば気分だって変わるかもしれない。おばさんの言う事は至極最もらしく聞こえて、でも結局何も変わらないまま。毎朝、目が覚めた事を悔い、運び込めなかったベッドの代わりに四畳半の部屋の隅っこが僕の居場所になった。その頃からだ。僕が人と霊を見間違えるようになったのは。
最近になって、縦に置かれたトイレットペーパーの芯から男が現れた。それはもうにゅるにゅるっと、分かりやすく言えばランプの魔人みたいな感じで。僕はびっくりして、その場でひっくり返った。でも僕以上にびっくりしたのが僕の体で、久しく運動なんてしてなかったもんだから、体中の筋肉がつって床の上を転げまわるはめに。激痛が収まり顔を上げると、そいつはもういなくなっていた。
男は次の日も次の日も現れた。トイレットペーパーの芯に限らず、穴という穴から男は現れる。時にコンセントから、時に着ている服のボタンから。出てきた男は、何故かいつもめそめそと泣いていて、僕はそいつが現れる度に目をぎゅっと瞑った。怖い者が見えた時はそうすればいいと、昔お母さんに教わったからだ。数分もすれば、このすすり泣きも聞こえなくなる。それまでは絶対に目は開けなかった。
二十歳の誕生日。深夜のコンビニでビールを一本だけ買ってきた。初めて口にするアルコール。一口飲むなり嫌になって、僕はトイレに駆け込んだ。だが、僕はその一口で見事に酔っぱらった。つくづくどうしようもない。意識が朦朧とし、世界が僕を置き去りにしてぐるぐる回る。その日、とうとう僕は男に話しかけてしまった。
どうして泣いているのかと訊ねた僕に、男は怖いからだと答えた。怖くて怖くてたまらないのだと言う。何がそんなに怖いんだと訊ねると、「この建物には住人が多すぎる」と言った。
「僕にはよく分かりませんけど、そんなに多いですか?」
「何を言っている。見えていないとは言わせないよ」
男は突然泣きやむと、さっきまでの涙が嘘みたいに腹を抱えて笑った。僕は唖然とし、しかしはっとする。この男にも見えている。僕にしか見えないあれらが、この男には見えているんだ。
「物にはちょうどいい数というのが必ずある。スイカの種だって、多すぎると見ていて気味が悪くなってくるし、貯金の残高が減ってくると不安になるだろう?」
「・・・住人にもちょうどいい数があると?」
「その通り。だって本当は居ちゃいけない奴までここには居るんだからね。そりゃあ息も詰まるし、怖くもなるさ。だから君がほんの少しだけ勇気を出して、本当の住人以外を追い出してやればいいのさ。ちょうどいいと言うのは、とてもいい。多くもなく、少なくもなく。元より異常な状態を、正しい状態にしてあげるだけの事さ」
僕はくらくらする頭を抱え、「ちょっと考えさせて下さい」と言い残し、目をぎゅっと瞑った。数分後、目を開けると男は、・・・・・・まだそこにいた。
「決まったかい?」
「す、すいません。僕には無理です」
「どうして?」
「怖いんです。僕は・・・、もう誰も僕を守ってはくれないから」
「・・・そうかい」
男は肩を落とし、床に転がった缶ビールの中に消えようとした。その際で、小さく呟いた。
「君も怖いのか」
その言葉を聞いて、僕はある考えを抱いてしまった。もしかして、この男には僕の恐怖が伝染ってしまったのではないか。僕の愚かで滑稽で、巨大すぎる恐怖が、彼を恐怖の沼に同じく引きずり込んでしまったのではないか。だとすれば、悪いのは・・・。
「待って!」
「・・・」
「どうせ誰かがやらなきゃいけない事なんだ・・・」
「そうだ、でも怖いんだろう?」
「僕が、僕の恐怖のせいだから。誰かじゃなくて、僕がやらなきゃいけないんだ」
「・・・その意気だよ」
「教えてください。僕はどうすればいいんですか?」
「そうだな、じゃあ秘訣を教えてあげよう。これは門外不出、他の人には絶対に内緒だ。約束を守れるかい?・・・いい目だ。よし、教えよう。ちょうどいいというのは本来とても難しい。何故ならどの程度がちょうどいいのか、見極める必要があるからだ。ちょうどいいと一言で言っても、その数は主観や客観によってズレが生じる。しかし今回に関しては幸運な事に、多すぎるという事がまず分かっている。そして基準とすべきちょうどいい数が、見極めるまでもなく決まっている。本来の住人の数は大家から容易に聞き出せるはずだよ。あとはその数に揃えるよう君が努力すればいいだけだ。さてここまでの話を踏まえて問題だ。さっきの君の問いでもある。君はこの後、どうすればいいんだ?」
「・・・多すぎるなら、減らせばいい」
僕の答えを聞いて、男はニヤリと笑った。
「正解だ」
だから僕は住人の数を、本来の住人の数に合わせた。その男にも協力して貰って。だって僕のせいだから。僕の恐怖が、他の誰かを恐怖に沈めてしまうから。僕の恐怖が、広いお庭で遊んでくれたお父さんや、ソファーに座って微笑んでいたお母さんを殺してしまったから。ちょうどいいのは、怖くないはずだから。
「先に大家さんには忠告したんです。あの建物には住人が多すぎるから何とかして貰えませんか、って」
男の顔は、体中の水分を全て吐き出したんじゃないかってくらいに涙や鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。私はその迫力に押され、パイプ椅子を少しだけ後ろに下げる。知らず知らず、私の右手は上着の内ポケットに突っ込まれていた。おいおい、あのおばちゃんの証言にはそんなの一言もなかったぞ。ちっ、きっと自分は喋るだけ喋って、相手の話を聞いてなかったんだろうな。これだから本当におばちゃんという生き物は・・・。
「ねえ刑事さん、ここには本当に三人しかいませんか?」
「こ、怖い事言うなよ。いねえに決まってんだろ。いねえよ!」
パイプ椅子を後ろに蹴り飛ばし、後ずさる私。指先から一本、男の髪の毛がはらりと床に滑り落ちた。すると男の足元に何か細長い物が落ちた。椅子に括り付けていたはずの腰紐が切れ、床に落ちたのだ。
「おいおい、何がどうなってる!?」
男の拘束服のベルトがひとりでに緩む。布とバックルが擦れあう、しゅっしゅっしゅという音。するりと、それこそ一人で着替えのできない子供が母親に服を脱がしてもらうみたいに、椅子に座ったままの男から拘束服が脱げていく。それは蛇の脱皮のようでもあった。
叫び声をあげながら、一目散に柏木がドアの方に走った。ガチャガチャと何度も何度もドアノブを回すが、向こう側から鍵がかかっているため、いくらやってもドアは開かない。
「何をしてる、早く開けろ!」
私は柏木を横に突き飛ばし、同じくドアノブをひねるがやはり何度やっても開かない。私は渾身の力で、肩からドアにぶつかった。こんな事、到底無駄だって事は分かっている。この特別製のドアは、例えゴリラがぶつかろうがびくともしない。すると隣で震えていた柏木が、まるで吊り上げられた糸人形のように宙に浮き、すごい音を立てて天井にぶつかった。その後、重力を無視するようにゆっくりゆっくり床めがけ落ちてくる。布団の上に寝かせるみたいに、優しく着地した柏木はその場でぴくりとも動かなかった。詳しく調べずとも分かる。あれは気絶なんかではない、死んでいる。私はマジックミラーになっている鏡の方に向かって叫ぶ。「助けてくれ、出してくれ」
これは刑事の感だ、いや生き物としての本能だ。この後、私は間違いなく死ぬ。
「ねえ刑事さん、ここには何人いますか?」
あなたは「穴倉の実験場」の意味が分かっただろうか?
このお話は夏のホラー2016の裏野ハイツ住宅情報を参考に書かれています
もしあなたがそれをしっかり読んでいたなら、明らかにおかしな部分や、このお話の別の一面に気づくことができたでしょう
「赦し屋とひこじろう」、「未成年委員会による日本の壊し方」という二つの作品を書いているので、よかったらそっちも読んでみてください




