私はモンスターを飼っている
母から見せられた一枚の写真。あの時の衝撃は未だに鮮明に思い出すことが出来る。
私が小学校の入学式から戻った時のことだ。
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その一月くらい前から、繰り返し鼻血が出たと騒ぎ出していた母。はじめは少量で鼻に傷でも出来たんじゃない? で、済ましていたが、何度目かの鼻血は鼻血と呼べないようなものだった。
階下から沸き立つ尋常ではない父と七歳上の姉の気配で、目を覚ました私が母の元へ行って見ると。
母は鼻はおろか口からも血を吐き出し、あてがったタオルやちり紙がすぐ赤くなった。あわてて抱えた洗面器が、ダラダラと流れる血を受け止めていた。
夜風に遠くから聞こえるサイレンの音が一際かん高くなった時、ようやく大変な事態であると認識したような気がする。
洗面器にたまった血だまりをじっと見据え無言でいると。
「みーちゃ、大丈夫だから。それ全部が血じゃないから」
姉がそう言った。そう言われてみれば洗面器の中は、赤い絵具がついた筆を洗った水のように若干薄い色合いだ。
両親の寝室へやってきた救急隊員たちがきびきびと動き回り。テレビドラマのワンシーンでも見ているようで、どこか現実味を伴わない私の前から、母をあっという間に救急車で連れ去っていった。
走り去る救急車を見つめる私が、脳裏に思い描いたのは、間もなく身につけるはずの真新しい洋服とランドセルだった。
あの時、私の中にいるモンスターが目覚めたのだと思う。
母が不在の数日と、家へ戻ってから床で寝起きしていた間、父と姉が母の仕事を全て仕切っていたのだろう。私は平常と何一つ変わらない日を過ごしていた。
やがてやって来た入学式の朝、私は父に手を引かれ学校へ向かう。無言で一本道の坂を登る。
思い出せる光景といえば、見まわした父兄席にはたくさんのお母さん。その中で、ぽつんと端っこに座る父の能面のような表情だけ。
帰り道、配られた教材で背中は重たくなったはずなのだが、そんなことは覚えていない。小学校の入学式で父の表情に次いで脳裏に浮かぶのが、一枚の写真なのだ。
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母から見せられた写真には白いガーゼ地の産着を着た生き物が写っていた。小さな老人のように顔は皺くちゃで、白から突き出た握りこぶしもどこか不自然に見える。
「生まれたばかりのみーちゃよ? ちっちゃくて、お腹が空くと全身を真っ赤に染めて泣いてたわ。いつの間にかこんなに大きくなって」
真っ赤な小猿としか思えないそれを、母はいとおしそうに見て笑っていた。
「やだ、これ、わたしじゃない」
私は母似で、「黒くて大きい瞳が親子だね」とよく他人からいわれていた。母の横顔と写真の小猿が重ならない。私は写真から目を背けた。それ以上にそんな写真を愛おしがる母を見るのが嫌だった。写真の中にいるのが生まれたてのモンスターに見えたからだ。自分は生まれた時からモンスターだったのかと思えたからだ。
その後数年間、母は年に一度か二度床に伏せることを繰り返す。不思議とそれは私の学校行事と重なった。だからといってそれが私の「特別な日」に影響することはなく。物理的なもので不足や不自由を感じたことはなかった。
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最後に母が倒れた時のことは、よく覚えている。夏休みの夜、小学校高学年が参加する流し踊り当日だ。その日、母は朝から私の浴衣を直し縫いしていた。夜の流し踊りを観ることを楽しみにしているようで。私は駄々をこねはしなかったが、不機嫌だった。浴衣が姉のお下がりだったからだ。丈を合わせよう? と言われたが返事もせず外遊びに出てしまい。
昼になり帰宅すると、玄関を飛び出す父と出くわした。
「診療所へ行く!」
そうとだけ告げて去っていく背には、ぐったりと目を閉じかろうじて父の肩にしがみついている、塊のような母が乗っていた。
玄関で靴を投げ脱ぎ居間に行くと姉が振り返り。
「みーちゃ、お母さんね……」
「知ってる! どうしよう、浴衣。今夜の流し踊り」
「……出来てるよ! ……昨日から調子悪そうだったのに、それ縫うために無理して倒れたんだよ!」
姉に一喝され、私は私の中にいるモンスターを再び認識してしまう。母の体調より自分の都合を優先する自分勝手なモンスター。
その夜私は流し踊りに参加した。一生懸命練習したし、上手いねとみんなからも褒められていたし。だから両親や姉、特に母に見てほしいと思っていた。母は遠くの病院へ送られ父はそれに着いていき、私を見守ったのは姉だけだった。
母が半年ほど入院している間、一度だけ病院へ連れて行ってもらった。
「みーちゃ、母さんね、卒業式も入学式も、行けないみたいなの」
母がどんな顔をしていたのかは覚えていない。私はその直後に病室を飛び出したからだ。
モンスターを消したかった。私の中にいる大っ嫌いなモンスターを。母に返事をしたらモンスターが表に出てきそうで怖くなったのだ。
夏を前に母は退院し元気になった。根治治療が出来たらしい。母と父と姉と私。中学、高校と穏やかな日々が積み重なっていく。
歳月を重ねれば誰でも大人と呼ばれるようになる。私は大人になったと思える気がしていた。通勤事情から一人暮らしをはじめたことも大きく作用していたかもしれない。その折母に持たされた私のアルバムを開くと、幼い頃の晴れやかな記念日には、いつも父が隣に立っている。それを昔の笑い話と一蹴出来るようになった私がいる。
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やがて一緒に暮らしたいと思える相手も出来た。その相手ともうすぐ結婚式をあげる。恐らく私が主人公の華やかな舞台はこれが最後だろう。
私と彼は双方の家族公認で真新しいマンションで同居を始めている。彼は家族と住んでいたが、交際期間の後半は私の狭いアパートに住みついているようなものだった。新居と結婚式の準備を同時進行させるには二人とも忙しすぎる。そんな状況で先に新居に引っ越したのだ。
披露宴の準備は思いの外手間がかかったが、彼の代わりに母が同行してくれるのが嬉しかった。母はすぐ人酔いしてしまうので、休憩がてら何度も二人でお茶したり、話したり、笑い合ったり。そんな時間が貴重に感じられ。
私の中に住んでいたモンスターは、消え去ったのだと思えるようになっていた。
だから披露宴当日、母が輸血を要するほどの貧血で、来れなくなったと聞いた時の落胆は大きかった。
披露宴の最後を飾る両親への花束贈呈の時。父と並んで立った人は母の姉だった。招待客、特に彼側の来賓への手前……それは私の面子への配慮が一番なのだとは納得していたが。
叔母に花束を渡す彼を見ながら、義母へ笑顔を向ける私の胸中でざわめきだす声があった。
私の心にまだいる。昔の昔のモンスターは消えていない……。
ハネムーンを終えて私たちは真っ先に私の家へ出向いた。旅行中に電話の向こうから聞こえた母のすすり泣きに、「大丈夫ですから」と私に変わり応対していた彼の提案だった。
母は居間に急ごしらえした床の中にいた。昼も夜もなく、そこで、披露宴の様子をDVDで繰り返し見ていたらしい。それは彼の友人が披露宴の翌日届けてくれたのだという。彼が頼んだのだろうとはすぐに察しがついた。
「綺麗だねぇ。白も素敵だし、みーちゃが真っ先に選んだワイン色のドレス。とっても似合ってた」
母は招待客の一挙手一動を解説しては笑い、親友のスピーチを褒め、ありがたい、を何度となく口にする。当事者の私より披露宴を詳細に把握していた。十日の間、どれだけ再生していたのかと、呆れるくらいにだ。
「みーはすっげぇ愛されてんじゃん。母親が二人もなんて、あんまりないんじゃない?」
彼はそう言って叔母の家に向かった。母の代理を務めてくれた叔母、彼の言う二人目の母親に挨拶するためだ。
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先月の帰省は穏やかな気候に恵まれた。
私は自分の中に飼っているモンスターを彼に話したことはない。彼は帰省すると私以上に母と話しこみ楽しそうだ。母も娘である私より彼と話している方が楽しそうに見える。母を見ていると得体のしれない感情が蠢きだす。ざわりざわりと……。
父も姉も誰も彼も母を一番大事にする。私はいつも二の次だ。今は私の夫まで自分の親以上に母を大切にしているような……。
彼が笑うたび、私の中にいるモンスターがうねうねと動きだすのを感じている。
ありま氷炎さん、企画主催お疲れ様です。