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猫が泣いた日

 にぃ。


 

 そのか細い声につられて茂みをのぞき込んだリンネは「あっ」と声を上げた。

 そして、手にしていた洗濯物をかごへと放り込んでしまった。


 茂みに居たのは、


「子猫?」


 珍しく書斎で書き物をしていた屋敷の主は、これまた珍しくひどく申し訳なさそうな、不安げな、この屋敷でただ一人のメイドを見遣った。


「拾った? 子猫を?」


「……はい……」


 いつもならはっきりと物を口にするリンネが、今にも縮んでしまいそうな様子にジルラールはペンを書斎机に置いた。


「いいよ」


「はい……え?」


 驚いたように顔を上げるリンネに、ジルラールは頷く。


「だから、その子猫、飼いたいんでしょ?」


「え、はい……。いえ!」


 流されるように応じかけ、リンネは慌てて首を振った。


「親とはぐれて弱っているようなので、少しのあいだ面倒を見たいのです」


「あとで僕にも紹介してね」


 にっこりと笑ったジルラールに、リンネは「ありがとうございます」といつもより少し丁寧に礼を言って、書斎をいつもより足早に辞していった。


「……お願いは珍しいから嬉しいけど、ちょっと妬けるな」


 うーんと唸ったジルラールの呟きは、幸か不幸かリンネの耳には入らなかった。


 それから、リンネは親猫となった。

 薄汚れていた体を洗い、目やにで開かなくなっていた目を優しく拭ってやると、ぼろ雑巾のようだった子猫は、真っ白な毛を震わせて、オッドアイの瞳をぱちぱちとさせた。

 右は鮮やかな青かと思えば、左は収穫期の麦畑のような黄金だ。

 その不思議な色合いの猫は、始めこそリンネを怖がったが、三日もすれば彼女の足下をついて回るようになった。

 

「エーデルベルグ」


 暇になったジルラールはご大層な名前で子猫を呼んだが、かの猫はお気に入りの窓のそばで大きく欠伸をするだけだった。


「おいで、ブラン」


 猫といっしょになって、日向に座り込む主人を尻目に、リンネが呼ぶと子猫はしっぽを掲げて彼女へと走っていく。


「ずるいぞ、リンネ。餌でつるなんて」


「旦那様のお食事の用意も整っております」


 走り寄ってきた子猫の喉を撫でてやりながら、目を細める猫にリンネは手にしていた皿を床に置いてやる。


「現金なやつだ」


 勢いよくミルクをなめ始めた子猫に向かってジルラールがふてくされた顔をするので、リンネは呆れて猫の頭を撫でた。


「お前をこの御屋敷に入れてくださった方よ。愛想良くね」


「その言い方じゃあ、僕がとんだ暴君のようじゃないか」


「あなたはこの屋敷の中では一番偉い君主さまですよ」

  

 淀みのないリンネの言葉に、ジルラールはますます眉をしかめた。だが、子猫が満足そうに口の周りについたミルクをなめるのを見て、肩をすくめる。


「僕はまるで裸の王様だね」


 床から腰を上げたジルラールは、ズボンを軽くはたいて身形を整えるとベストのポケットにしまっていた手袋をはめる。そして「さぁ」と淑女にやるように猫といっしょにしゃがんでいるリンネへ手を差し出した。

 その優雅な所作からは先ほどまでのふてくされた様子を連想できない。

 リンネはどこへ出しても恥ずかしくない貴公子とその手を見比べていたが、どちらもそのままにして立ち上がる。


「では、ご案内いたします」


「君も猫なら良かったのになぁ」


 完全に空振りのていのジルラールだったが特に怒る様子もなく、さっさとドアを開けるリンネに苦笑する。


「似たようなものです。私はあなたに拾われましたから」


「僕に望まれて、だよ」


 ドアノブを手に主の退室を待つリンネを横目にジルラールはゆっくりと歩き出す。


「それに君が猫なら、もっと僕に甘えてくれただろからね」


 くすくすと笑うジルラールに、リンネが不思議そうな顔を返すのを見て、彼はいっそう笑みを深くした。


「信じてないな? 僕はね、こう見えて生き物から好かれる性質なんだよ」


 見ててごらん、と笑う主人のあとをリンネは怪訝な顔で追った。

 

 そうして、数日後。

 サンルームで一匹と一人が仲良く昼寝をしている光景を彼女は目にすることになった。



「ケッヘンリッヒ」


 以前とは違うが、またいかめしい名前で子猫を呼ぶジルラールをリンネは呆れた様子が出ないように見遣った。

 その視線に気がついているだろうに、ジルラールの方は気にせず、日向で大欠伸をする子猫にねこじゃらしを向けている。

 この猫の方はといえば、すっかり手足も元気になって、今では洗濯かごに潜り込んだり、由緒正しいタペストリーに爪を立てたり、といたずらし放題となっていた。

 そのくせ甘える仕草は愛らしいので、ジルラールとリンネは叱ることもしたがそれ以上に可愛がった。

 今日はジルラールが外で食事をとりたいと言い出したので、サンドイッチやタルトをバスケットに詰め込んで草原へと出ている。

 屋敷の周りをぐるりと巡る森を抜けると、牧草地に繋がる草原が広がるのだ。

 温かな日差しが降る草地で、低い木の下にシーツを広げて弁当を並べると、それはちょっとしたご馳走のように見えた。

 ひとしきり子猫にからかわれた後、ジルラールがようやく昼食にありついた頃には、子猫の方が疲れて丸くなっている。


「あまりいじめないでください」


 小さな体を撫でてリンネが呆れると、ジルラールはサンドイッチを頬張りながら「だって」と子供のように口を尖らせた。


「僕が呼んでも来ないんだよ」


「慣れない名前でお呼びになるからです」


「リンネは何て呼んでいたっけ」


「ブランです」


「ああ、ブランいから?」


「……ひねりが無くて申し訳ございません」


「そんなこと言ってないよ」


 今度はリンネがそっぽを向いたのを見て、ジルラールが苦笑した。

 

 昼食を終えると「僕は少し寝るよ」と言って主人が猫の隣で寝てしまうので、リンネはすっかり手持ちぶさたになった。

 いくら無責任な主でも、放って帰るわけにもいかない。

 片付けられるものを全部バスケットに詰め込んでも猫も主人も起きないので、草原の果てをぼんやりと見つめていたら、リンネの方も眠くなってくる。

 



 気がつけば、誰かに肩を揺すられていた。


「リンネ」


 ジルラールだ。

 リンネはぼんやりとする頭を振って、体を起こした。どうやら眠っていたらしい。

 草原に落ちる日の傾きが目に見えて進んでいる。


「リンネ。ブランが見あたらない」


 一瞬にして顔色を変えたリンネを落ち着かせようとするように、ジルラールは彼女の肩に手を置いた。


「もうすぐ日も暮れる。子猫の足だからそう遠くはいけないだろうけど、森は広いから、どこかに迷い込んでいるかもしれないね。名前を呼んでいればすぐに見つかるよ」


 ジルラールの言葉を刻むように頷きながら、リンネは努めて冷静になろうと胸を押さえた。

 二人で離れて探すには森も草原も広いので、ジルラールがバスケットを持って二人で猫を呼んで回ることになった。


「ブラン!」


 草原で呼んで回ったが小さな猫の鳴き声すら聞こえず、ただ風の鳴る音が響いた。

 日差しが夕日に変わると、民家もない辺りは暗闇が迫る。

 広い草原を小さなランプ一つで探し回ることは出来なくて、仕方なく屋敷へ帰る森の道々で猫を呼んだ。


「ブラン」


 リンネの細い声は森の木々の合間に響いたが、ざわざわと梢が鳴るだけだった。

 唇を引き結ぶリンネをジルラールは横目で見ていたが、彼も彼女に倣って猫を呼ぶのに専念した。

 やがて日が暮れて暗闇に覆われると、森は物音一つしない夜の顔になる。

 

「リンネ。もう帰ろう」


「でも」


「夜は獣たちの時間だからね。人間が居ていい時間じゃないんだ」


 遠くで何かの鳥の声がする。

 昼間には現れない鳥だ。


「昼間は人の時間、夜は獣の時間。それがこの土地のルールだよ」


 ジルラールの言葉にリンネは静かに夜の森を見つめた。

 

「お腹を空かせているはずなのに……」


 そろそろ夕食を与えている時間だ。

 リンネでも寒いほどだ。きっと凍えている。

 


 にぃ。



 それは小さな声だった。

 リンネが振り返ってランプの明かりをかざすと、白い耳が茂みから現れた。


「ブラン!」


 青と金の不思議な色の瞳が、ランプの明かりがまぶしいのかぱちぱちと瞬く。



 にぃ。



 子猫はリンネがひざまづくと走り寄ってきて、彼女の指をざらざらとした舌で舐める。

 しかし、リンネの手の中に収まろうとはしなかった。


「ブラン?」


 そろりとした気配がしてランプをかざすと、子猫の後ろから優雅な風体の白猫が遠巻きに現れる。



 にぃ。



 子猫はリンネの指を舐めて、そうしてきびすを返した。

 白猫も子猫を連れだって尻尾を翻したが、少しだけリンネとジルラールを振り返る。


「……この子を探していたのね」


 呟いたリンネをじっと見、やがて白猫も子猫も森の茂みの奥へと消えていった。


「リンネ」


 ジルラールが呼びかけるが、リンネは茂みを見つめて息をついた。


「……良かった。人の匂いのついた子猫は、親猫が嫌がるって聞いたことがあるから」


「リンネ」


 振り向かせるような強い口調だったが、リンネは振り向かなかった。

 あの子猫は、ひとりではなかったのだ。

 

 リンネのように。


「リンネ」


 リンネの視界を遮るようにベストとタイの胸が現れて、彼女と同じようにひざまずく。


「おいで、リンネ」


 どこか、懐かしい声だった。

 リンネの祖父はこんな風に呼ばない。

 いつも「こちらに来なさい」と目線で示すだけで。


 長い指がリンネの目尻をかすめる。

 その指先に大粒の水滴がこぼれ落ちていて、リンネはまばたきした。


(ああ)


 泣いているのか。


(でも、どうして?)


 あの子猫が森へ帰っていったから?


(違うわ)


 急に目の前が澄んで開けたような心地で、リンネは頬を伝う涙を流れるに任せた。

 子猫は、リンネを眠りから起こしたのだ。


 祖父が死んだこと。

 ひとり見知らぬ土地に連れられてきたこと。

 突然解雇されたこと。


 今まで穏やかな日々の中でおざなりにしていた、その全部の不安や恐れがないまぜになって、リンネを襲った。

 生まれたての火のような感情は、むせかえるほど熱く、リンネの胸を突き破っては涙を吐き出させる。

 言葉にもならない嗚咽は嵐のように激しかった。


 そんなリンネを捕まえて、ジルラールは荒波が過ぎ去るのを待つように彼女をしがみつかせて抱き寄せる。

 リンネは、湯立つようにぼんやりとした頭で、ただ自分の涙がジルラールのシャツに染みこんでいくのを見つめていた。

 


 それから、白い猫の親子は時折、この町外れの屋敷に遊びにやってくるようになった。

 ある時は他の子猫を連れて、ある時は友達を連れて。

 町に住んでいるのか、森に住んでいるのか。彼らの居所は定かではなかったが、気まぐれなオッドアイの白猫たちをリンネもジルラールも歓迎した。

 



「旦那様」


 日の暮れたサンルームにランプの明かりを持ってリンネが入ると、屋敷の主が猫のように大きく伸びをしていた。

 明かりを入れると、オットマンに白い毛がついている。


「ブランが来ていたんですか?」


 毛をつまみながらリンネが言うと、ジルラールは「おや」と呟いた。


「ヘンリエッタは、君のところに挨拶に行かなかったのか」


 相変わらずジルラールはあの白猫のことを好き勝手に呼んでいる。なので、いつまで経ってもかの猫は彼に返事をしない。


「さぁ。今日は風呂場の掃除をしていましたから」


 リンネの言葉に、ジルラールは顎に指をやって「なるほど」と笑った。


「風呂場に行くと一緒に洗われてしまうから、逃げてきたな」


「そんな、旦那様じゃあるまいし」


「僕がいつ君から逃げたっていうんだよ」


「私がお背中をお流ししようとしたら、閉め出されてしまいます」


 ジルラールは身支度のほとんどを自分でやってしまうので、リンネの仕事はほとんどないのだ。

 せいぜい背中でも流そうかと思ってみても、早々に風呂場を追い出される。


「妙齢の女性に、男の背中を流させる趣味はないよ」


「女性だなんて。私はメイドです」


 リンネが実に模範的な返答をしたというのに、当の主は悪い冗談でも聞いたような顔をする。


「君のおじいさまの心配が手に取るように分かるよ」


「祖父の……?」


 ゆったりと長椅子から足を下ろして立ち上がると、ジルラールはいつものように自分で身なりを整える。


「そういえば、エンドランの話をするのは初めてだったかな」


 言われてリンネは思い至る。

 そう、初めてだ。

 後にも先にも今までジルラールが祖父の名前を自分から口にしたのは、リンネを連れてきた日以来だ。

 そして、彼の口から祖父の思い出を聞くのは初めてだった。


「エンドランがどうして僕のところに君を寄越したのか、気になるでしょ」


 ランプの明かりを受けてコバルトブルーの瞳がきらりと光ったような気がした。


「僕は理由全部を知っているけれど、エンドランの気持ちまでは知らなかった」


 理由とやらが気になったが、リンネは別のことを口にしていた。


「祖父の、気持ち?」


「そう」


 頷いて、ジルラールは目を細めてリンネを見下ろしてくる。


「君は、実に人を心配させる子だ」


「は?」


 思いがけない言葉にリンネは思わず声を上げたが、ジルラールは「これだから」と溜息をつく。


「リンネは普段しっかりしているから余計に心配だよ。見ていてハラハラする」


「どういう意味ですか」


 リンネの声が、いつもより低い声になったのは気のせいでもないだろう。

 しかし、ジルラールが態度を改めることはなかった。


「ヘンリエッタの方がまだ僕の扱いを心得ているよ。甘え上手だしね」


 可愛い白猫を思い浮かべて、リンネは何ともいえない気分になる。

 猫と比べられては、リンネなど三食の用意と掃除をするだけの存在だ。


「……猫でなくて申し訳ありません」


「僕は、甘えられるならリンネがいいって言ってるんだよ」


 あっと声をあげる暇も無かった。

 

 ジルラールがリンネの手を取ったかと思うと、リンネの指先に彼の唇が乗っている。

 ちゅっと形のいい唇から音がして、リンネはようやく自分の荒れた指先に主人が口づけたと知った。見る見るうちに頬に朱がのぼる。


「なっ」


「何をするかって?」


 普通、淑女に挨拶するときは実際に口づけたりしない。唇を近づけて口上を述べる。そういう、基本的な挨拶だ。

 にやにやと笑うジルラールが知らないはずはない。

 だがジルラールがやったのは、まるで猫か何かを慈しむような、口づけ。 

 

「君は可愛いよ。リンネ」


「私はブランじゃありませんよ!」


 もちろん、とリンネが手を振り払うに任せて彼女の手を放すと、ジルラールは意味深に微笑んだ。


「僕にはリンネが居るからね」


 猫が満腹になったような顔の主人をリンネは火照る顔で睨んだ。

 それすら楽しげに見つめてくるのだから、リンネは口づけられた指先を握りしめるしかできない。

 まるで子猫の反抗を楽しむような戯れだと知っていても、リンネはこぼれ落ちる羞恥をとどめることができなかった。


(この人の冗談は、たちが悪いんだわ!)


 ますます心を堅くしたリンネを横目に、ジルラールはいつものように手招きする。


「おいで。夕食にしよう。僕の可愛いお姫様」


   


 

一部改訂しました。内容に変更はありません。

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