かぜの日
リンネは、使用人という仕事に特別な誇りや名誉を持っているわけではないが、それなりに仕事はできると自負していた。
それは、厳しい祖父が居たからでもあったし、自分でも努力をしてきたつもりだったからだ。
けれどそのささやかな自信は、雨と一緒に流れてしまった。
ジルラールの部屋を辞してから、風呂の用意をするために暖炉で石を温めて温石を作ったり、温かいスープやココアを作ったり、嵐がひどいので今晩は泊まるという客人のための部屋を用意して、夕食の準備をしたりして、ようやく大きな広間の暖炉に火を入れて洗濯物を吊し終えた頃には日はすっかり暮れて、体は冷えきっていた。
昼から降り続いている雨はまだ止む気配がない。
洗濯物に覆われた薄暗い部屋で暖炉の面倒を見ながら毛布に丸まっていると、リンネは自分が何のためにこの屋敷に居るのか分からなくなってくる。
先ほども、夕食の準備を整えたらジルラールにもうリンネの手は必要ないとダイニングを追い出されたのだ。
ついでというように、片付けも案内もいらないからと告げられて。
(これからどうやって暮らそう)
ゆらゆらと揺れる暖炉の炎を見つめて、リンネは今後のことを考えてますます暗い気持ちになった。
この屋敷を辞めさせられても、勝手に出ていったとしても、紹介状もないのに次の奉公先は見つからないだろう。
だいたいのことはあまり気にしない体質の貴族だが、出自や身分にはこだわる人種だ。彼らに奉公するには、彼らが認める貴族や有力者の紹介が必ず必要だ。
不安で押し潰されそうになりながら溜息をこらえていると、懐かしい声が頭の中に響いた。
何事にも落ち着いて、冷静に。
怒鳴ることはなかったが、厳しかった祖父の口癖のような言葉だ。
あまり記憶にない両親に似たのか、リンネは真面目だがそそっかしいところがある。
それを見咎めて、祖父が何度も口にした。
(落ち着いて)
深呼吸をするような心地で、リンネは毛布に顔を埋めた。
たとえば、ここを辞めるようなことになったとしよう。
この屋敷でしばらく働いた給金がなくても、無駄遣いはしない方なので蓄えはある程度持っている。
新しい仕事を見つけてはどうだろう。
この領地を離れて、知らない土地で仕事を見つけてもいい。
(でも)
そもそもジルラールにここを辞めろと言われたわけじゃない。
解雇通告をされるまで働いてもいい。
(だって)
ジルラールは、祖父を看取ってくれた人なのだ。
「リンネ」
どこか、怒ったような声が広い部屋に響いた。
毛布から顔を上げると、声と同じくしかめ面をした銀髪が、部屋いっぱいに吊された洗濯物を避けながら大股でこちらにやってくる。今日は、この人の色々な顔を目にするものだ。
「どうしてこんなところに居るんだ」
リンネは怒鳴り声に近いジルラールの苛立った声を受けながら、毛布を畳んで立ち上がる。しかし自分の今の格好を思い出して、少しだけ恥ずかしくなる。急いで着替えたのでレースのついたお仕着せのままだが、エプロンはしていないし、洗った時のようにいつもはまとめている髪を下ろしたままだ。
下ろし髪で出かける女性は少なくないが、祖父にきちんとまとめなさいとしつけられたためか、リンネはなぜか抵抗があった。
「申し訳ございません。他に洗濯物を干せる部屋が無くて……」
「そういうことじゃない」
苛立つ言葉に遮られ、リンネは黙った。
(そういえば、どうしてこの人は怒っているんだろう)
使用人が言うことを聞かないからと怒る人ではないし、癇癪持ちでも当然ない。
今のジルラールは確かに怒ってはいるが、絶対に解けない無理難題でも持ち出されて答えあぐねているような顔だ。
そんな顔に見えてくると、ますます不思議に思えた。
(この人は、いったい何を考えているの)
いつだってリンネの思いも寄らないことを考えつく人だ。
今、このときも。
ゆっくりと、正面に立った難しい顔をした人の手が持ち上がったかと思うと、そのまま何を思ったのかリンネの頬に触れる。
冷たい手だ。
指先で頬を撫で、そしてリンネのまだ湿っている髪に添わせる。
今は、いつもまとめている髪を下ろしているので、腰に届くほどある。
その長いひと房を取り上げて、白い親指が髪をゆるりと撫でていく。
「……まだ湿ってる」
憮然と、という言葉がぴったりくるような顔で、ジルラールはリンネの髪を自分の指に滑らせる。
「僕は、もう仕事をしなくていいと、言ったはずだ」
髪の先まで指が滑り落ちていくのを目で追いかけて、リンネは静かに口を引き結ぶ。
白い指先からこぼれる自分の髪は、なめらかでもないのに溶けるように見えた。
「……いらないと言うのなら、はっきりとおっしゃってください」
何も考えないまま、そんな言葉が口をついて出た。
「私がいらないなら、仕事を取り上げたりしないで、もう必要ないから出ていけって言えばいいのよ!」
叫ぶと、毛布を取られた。
ああ、放り出されるのか。
まだ雨は降っているというのに。
しかし、とっさに目を閉じたリンネを包んだのは、罵声でも最後通牒でもなく、
ぼふ!
ふかふかとした毛織りの毛布だった。
頭から被せられたので空気を求めてもがくと、頭だけが抜け出すことを許される。
顔を出したリンネに向かって苦笑したのは、先ほどまで怒っていたはずの人だった。
「僕の負けだ。悪かった」
少し屈んでリンネを覗き込むように目線を合わせると、ジルラールは彼女に被せた毛布の端をしっかりと握る。
「君のことを知られたくなかったんだよ」
「……どういう、ことですか?」
ジルラールはリンネの暴言など気にした様子もなく、ただ困ったように笑った。
「今日の客に、君のことを見られたくなかったんだ。わがまま奴だからね」
今日の客というのは、恐らくあの金髪の貴族だろう。
「でも、知ってる? 応接間から少し角度を変えて窓を覗くと、屋敷の裏が見えるんだ。ああ、本当に覗こうと思わないと見えないんだけど、今日に限って運の悪いことに君が洗濯しているところが丸見えでね」
リンネがスカートをたくしあげて一心不乱に洗濯物を踏みつけているところを彼らに見られていたということだ。
穴があったら入りたい。
そのまま毛布の穴へと首をすくめたいが、ジルラールが毛布の端を握って緩めてくれそうもない。
「そうしたら、雨が降ってくるだろう? もう放っておけないし、僕は飛び出した」
苦笑して、いつものように胡散臭いというのに、ジルラールはリンネを毛布に閉じこめたままだ。
(実は怒ってる?)
晴れた海の双眸の中にもリンネは閉じこめられている。
その目がふと細められて、片手でリンネの髪が撫でつけられた。
「我が家のお姫様はとっても頑固だったんだね。驚いたよ」
「誰のことですか?」
「リンネのことに決まっているじゃないか。可愛いレディ」
「私は使用人です」
お姫様でも、レディでもない。
慈しまれるいわれはないはずだ。
リンネの代わりは幾らでもいる。
「お姫様だよ」
撫でるような声がリンネの鼻先を掠めた。
「大事なお姫様に風邪なんかひかせたくないだろう?」
微笑んだまま、嘘のように見えるというのにジルラールの声はやたら静かだった。
「……風邪はひきません」
「そうかな?」
笑うジルラールに、毛布でくしゃくしゃと髪をかき混ぜられた。
やっぱり、彼は少し怒っているようだ。
乱暴にかき混ぜられた髪を手櫛で整えながら、リンネはいつものように笑う胡散臭い人を見上げた。
少しだけ、このジルラールという人のことが分かったような気がした。
祖父が亡くなったのは、リンネが他の奉公先でいつものように仕事をしていた時だった。
突然の訃報は、リンネを驚かせた。
手紙が来るより一年前に会った時には元気だったのだ。
それが、しばらく床に伏して起き上がれない状態が続いていたらしい。
そんな手紙をリンネへ送ったのは、ジルラールだった。
その当時は手紙の送り主のことなど気にする暇もなくて、ただお礼の手紙を送っただけで、送り主が誰なのかということさえ考えもしなかった。
リンネが手紙の送り主のことに気がついたのは、この屋敷に連れて来られてから送られてきた少ない自分の荷物を整理していた時だ。
ジルラールは、リンネに一言も話さない。
恩着せがましいことどころか、祖父を看取ったことも、リンネに手紙を送ったことも。 それを、リンネが何も言い出せないことも。
変な人だ。
普通ならば、手紙を出したのは自分だと言うぐらいはするだろう。
けれど、彼は何も言わないでリンネを雇い入れた。
いったいどういうつもりなのか。
ジルラールの正体が分からない。
分かっているのは、伯爵であること、ハウスリング領の領主であること、そして変人であること。
それから、人の心を癒せる人だということ。
少なくとも、何も言わないでリンネを振り回す彼との日々の中で、祖父を突然失ったたとえようもない喪失感にたった一人で暮れることはなかった。
気がつけば、そばに居てくれる。
そういう人だと、少しだけ分かった気がした。
大雨の翌日、リンネは熱を出した。
それでも動けないほどではないと顔を赤くして広間に干した洗濯物を取り込んでいたら、苦虫を潰したような顔をしたジルラールが現れて命令してきた。
今日は一日ベッドから出てはいけない。
そんな命令は聞いたことがない。
しかしリンネの反論もろくろく聞き入れないで、ジルラールは彼女をベッドに押し込んだ。そして彼の読み通り、リンネの熱は昼を回る頃に上がりだした。
起き上がれなくなったリンネに代わって、ジルラールはタオルや水を換えたり、リゾットまで作ってかいがいしく立ち回った。こうなってはどちらが使用人か分からない。
「お客様はどうなさったのですか?」
「奴なら今朝、迎えが来たから帰ったよ」
気にしないでいいとリンネをベッドに押さえつけてしまうので、結局リンネは客人の名前すら聞けないままだった。
失礼ばかりをしたと反省しながら、リンネはその日一日を寝て過ごした。
そうして、リンネの熱が引いて元気になってから数日経って、再びジルラールが来客を告げた。
「今度は、お茶の用意を頼むよ」
何をされるか分からないからね、と言う主に釈然としなかったが、リンネは表面上は大人しく肯く。
リンネはあくまで使用人だ。
先日と同じ応接間にティーセットを盛ったワゴンを押してリンネが入ると、すでに客人は応接間でくつろいでいた。
リンネが毎日磨いている一人掛けの肘掛け椅子に座って長い足を組んで、ジルラールと向かい合っていたが、彼女を見つけるといつかのように手を振ってみせる。
先日の、金髪の貴族だ。今日も良い仕立てのコートを身につけているのに、相変わらずどこかくだけた雰囲気だ。
「やぁやぁ。この前は大変だったね。もう具合は大丈夫かい?」
「はい。おかげさまで。先日は失礼いたしました」
リンネの丁寧な礼に口笛を吹くような顔をしたが、そこは貴族なのか、さっと構えを変えて彼女に「おいで」と手招きする。
「先日は、私も失礼したね。私は、ミシェル。君の主人とは長い付き合いでね」
と、鮮やかな緑の瞳が自分に向くと、ジルラールはあきれたように「腐れ縁でね」と溜息をついた。
「可憐な君のお名前を伺っても?」
その問いはどちらかというとリンネに、というよりもミシェルの後ろでテーブルに肘をついて不機嫌な様子を隠そうともしないジルラールに向けられているようだった。
どうしたものかとミシェル越しにジルラールを伺うと、彼はしょうがないなというような顔で頷いた。答えろということか。
「失礼いたしました。ミシェルさま。わたくしはハウスリング様にお仕えしております。リンネと申します」
「リンネか……。うん、可愛い」
口の中に含むようにリンネの名前をつぶやいて、ミシェルは笑顔でリンネの手を取ろうとしてくる。何をするつもりか見当はついた。使用人のリンネに淑女の挨拶でもしようというのか。
付き合っていては茶が冷める。
「すぐお茶をご用意いたします」
失礼にならないようミシェルをかわして、リンネはテーブルの上にティーセットを並べ始めた。
くすくすと忍び笑いが聞こえるが、知らないふりだ。
「……手強いな」
所在のない手を引き戻す苦い顔のミシェルに、ジルラールはいつもの胡散臭い笑みを浮かべる。
「我が家の大事なお姫様だよ。気安くしないでくれ」
誰がお姫様だ。
「それは失礼した。レディ・リンネ」
どこのお姫様が茶を注いでくれるというのだろう。
リンネはただの使用人であって、彼らのおもちゃになるつもりもない。
(この、変人貴族たちめ)
苛立つ言葉を口にできるはずもなく、リンネはただ黙って変人たちに紅茶を注ぐのだった。