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雨の日

「今日は客が来るけれど、何の気遣いもいらないから君は他の部屋の掃除でもしていて」


 朝食を食べ終えた雇用主に言われた言葉を、リンネは半ば呆然と聞き、肯いた。

 どのみち使用人に肯く以外の選択肢はないのだが。


(珍しいこともあるのね)


 この屋敷への来客と、ぶっきらぼうなジルラールは珍しい。

 というより、リンネが目にするのは初めてだった。

 この屋敷への来客は、野菜売りのおじさん以外にリンネがやって来てから初めてだ。

 屋敷の主はこのおじさんと大変懇意にしているようで、細々とした用事を頼んだり頼まれたりしている間柄らしい。ジルラールがおじさんに馬車の手配を頼んだりもするし、時々、おじさんが離れて暮らす娘への手紙の代筆を伯爵に頼んでいる。

 領民に代筆を頼まれる領主というのは大変滑稽で普通ならあり得ないことだが、ジルラールという人は、おじさんに限らず他人には大層愛想のいい人で、領民から親しまれている。

 出版社からブロマイドをと言われた時にも不機嫌だったが、それはそれほどのことではなかったのだろう。紅茶を飲んでけろりとしていたものだ。

 そのジルラールが胡散臭い笑みを苦くしてリンネに顔を出すなとまで言うのだ。


(どんな客なんだろう)


 気にはなる。

 だが、お願いではなく、珍しく向けられた命令だ。

 手早く朝食の後片付けを終えたリンネだったが、ふと思い至る。

 おじさんが来る時は、ジルラールはわざわざ客が来るとは言わない。

 彼が来た時にその場でお茶を用意してくれと言うぐらいだ。

 前もって分かっている来客であるなら、ジルラールの客は貴族だろう。


(お茶の用意ぐらいはしておくべきかしら)


 どこで来客を迎えるつもりなのかは知らないが、玄関に一番近い応接間の前に置いておけば、ジルラールも気付くだろう。

 そこまで考えて、リンネは溜息をつく。

 こんな三文推理をしなければならないなら、逆に客の相手をしろと言われた方が楽だったかもしれない。


(おじいさまなら、きっとこれくらいのこと当たり前なんでしょうけど)


 祖父はいつでも一つの事柄の三歩先を考えて動くような人だった。

 彼にリンネは厳しくしつけられたが、当の本人は結局リンネの成長を見ないまま逝ってしまった。


(まだ怒られている方がいいわ)


 もう居ないと知っている人にいくら何を見せても、自分にはかの人の言葉を受け取ることはできないのだから。


 リンネは手早くお茶の用意をしてワゴンに乗せると応接間の前に置いて、いつものように洗濯室に向かった。

 今日はいい天気なのだ。

 シーツも洗ってしまおう。

   

 普段使わない部屋のシーツまではぎ取ってきて、桶に山のように積んで水場まで運び、リンネは一心不乱に洗濯桶の中でシーツを踏み洗う。

 この前買った洗剤はよく汚れが落ちる。

 これならリネンを吹き付けておけば使わないシーツももしもの時に綺麗に使えるだろう。

 水を何度も汲み上げて洗い、洗剤を濯ぎ落とす時には、リンネは肩で息をしていたが、達成感に満足して、額の汗を拭った。

 そうして屋敷の裏にある物干しいっぱいにシーツや洗濯物を全て干す頃には、太陽はすでに真上に昇っていた。


(そういえば、昼食はどうなさるおつもりなんだろう)


 今日は客が来るとしか言われていない。

 いつもであれば、サンルームで昼寝をしている伯爵を起こしに行くのだが。


(軽食でも用意しようかしら)


 洗濯かごを洗濯室に片づけて、台所へと入ると、今朝リンネが選んだ黒に近いグレーのコートの背中がうろうろと戸棚を眺めてはぎこちなく触ったりしている。

 どうやら自分で窯に火を入れて湯を沸かしているらしい。

 鍋を取り出して何をするつもりなのか、野菜かごを覗いたり戸棚を覗いたりしている。

 そういえば、リンネが来るまで彼は一人で生活をしていたのだ。


「申し訳ございません、旦那様。すぐにお支度します」


 リンネにようやく気付いた銀の髪の人は彼女を見て少しだけバツの悪そうな顔をした。


「ごめん。客が何か食わせろってうるさくて」


 ということは、すでに客は来ているのだ。


「お出迎えもせず、申し訳ございません」


「いや、それは僕がいらないって言ったんだから、いいんだよ」


 いらない。

 

 そうか。要らないのか。


 どういうわけだか、要らないという言葉がリンネの頭をぐるぐると巡った。


「リンネ?」


 不思議そうな声で、リンネははっとする。

 そうだ。仕事をするべきだ。


「すぐ何かご用意いたします」 


 リンネはさっと野菜かごを覗いていくつか取り出して溜めておいた桶の水で洗い始める。

 客が待っているのだ。

 手の込んだものは作れない。

 そもそも、リンネはコックではないのだ。

 庶民の料理に少し手を加えたような物が作れるぐらいで、専門職には遠く及ばない。

 夜に出そうと思っていた鳥のローストがソースに漬けてある。それを切ってお出ししよう。今朝焼いておいたパンを出せばいいし、もう一品にはサラダを作ろう。幸い昨日、野菜が届いたばかりだ。

 煮込んでいる暇はないから、ベーコンと芋でスープを作ればどうにか形になる。

 ピクルスも常備してあるから、付け合わせにいい。

   

「僕も何か手伝うよ」


 てきぱきと動き始めたリンネに、そうジルラールが手を差し伸べた。

 台所仕事をするつもりだったのか、彼は手袋をしていない。

 彼は貴族らしくないことをたくさんするが、手袋は常に身につけている。

 それが今、手袋の下から現れたその形のいい広い手に、リンネはどういうわけだか怯えた。

 

「……すぐにお持ちしますから、お部屋でお待ちください。お持ちする場所は、一階の応接間でよろしいですか?」


 普段通りに答えたはずだ。

 けれど、伯爵はリンネは少しだけ見つめて、「ああ」とだけ言って微笑みもせずに台所を出ていった。

 

(胡散臭くてもいいから、笑ってくれればいいのに)


 そんなことを思う自分はどこか変だ。

 いつもなら、へらへらと笑ってばかりいる主を無視しているというのに。

 

 リンネは自分に困惑しながら、昼食の用意を整えてワゴンに乗せた。

 どうやら、ジルラールがワゴンをわざわざ戻してくれたようだ。

 本当なら、リンネが元に戻さなくてはならなかった。

 洗濯に夢中でそんな簡単な事に気付けなかったのだ。

 悶々としながら応接間に辿り着くと、驚いたことにジルラールが廊下の壁を背に待ちかまえていた。


(何か言わないと)


 謝る?

 それともお礼を言う?


 迷っているうちにジルラールがリンネからワゴンを取ってしまった。


「ありがとう」


 それだけ言って、リンネを追い払うように応接間へと入っていってしまう。

 取り残されてしまったリンネは、離れ小島の無人島にでも置き去りにされたような心地で、何も言えずに背中を見送った。

 

 いったい、何を言えば良かったのだろう。


(おじいさま)


 きっと祖父なら最善の言葉を言えたはずだ。

 初めてのお客様にも、初めての主人の不機嫌も、上手に宥めて。

 たいていの事なら上手くこなせる自信がある。

 困った主人にも貴族にもたくさん出会ってきた。

 しかし、こんなにも虚しい気持ちになったのは、初めてだった。

 ささいなことでの文句も、同僚との面倒な付き合いも、これほど心を穿つことはなかった。

 

 いらない。


 いらないと言われた。

 やはり伯爵は、リンネがどこにも行く宛がないことを知って、引き取ってくれただけなのだろうか。

 破格の給料と正式な雇用証書を用意してまで拾ってくださっただけなのか。

 

 何気ない一言だった。

 だから、驚いた。

 

 そのたった一言にうろたえるほど、リンネはあれほど疑ったあの変人伯爵を、いつのまにか信用していたのだ。   

 

 何か考えることが嫌で、とぼとぼと廊下を歩いていると、水滴が窓を打った。

 我に返って窓の外を覗き込むと、青空だったはずの空が暗い雲に覆われてまるで夜のようだ。

 暗雲の中に稲光まで見つけた気がして、リンネはとっさに駆け出した。

 物干しにはたくさんの洗濯物が下がったままだ。雨に濡れては台無しになる。


 これ以上、いらないと言われたくない。


 リンネのはやる脳裏をかすめたのは、そんなことだった。

 

 台所の裏口から飛び出して、リンネは屋敷の裏へと走る。

 すでに雨は大粒になって降り出し、風がごうごうと屋敷の周りの木々を揺らしている。

 ゴロゴロとうなり声を上げているのは雷か。


(早く!)


 物干しに着く頃には、リンネの息は上がって雨に濡れた体は震えた。朝には晴れて暖かかったというのに、今は雨のせいか凍えるようだ。

 肺の中まで凍ったような冷たい息を切らせながら、リンネは大きく腕を広げて、洗濯物を一気にもぎ取った。

 普通の洗濯物はまだいい。

 大きなシーツがまだ何枚も残っている。

 強かに体を打ち始めた嵐の中で、リンネは半ば途方に暮れた。

 とにかく洗濯物を手近な屋根の下へと運んだが、止めどなく落ちる雨にリンネの足は間に合わない。

 滴るほど濡れて重いシーツを取り込んで、リンネは自分の心の穴がじわじわと広がっていくのを感じていた。


(何をやってるの)


 何が気に入らなかったのか、ほとんど腹いせに無茶な洗濯をやって疲れ果て、主人の言葉に勝手に傷ついて挙げ句の果てがこの失態だ。


(傷ついた?)


 あの変人伯爵に何か言われたからといって、リンネが傷つくいわれはないはずだ。

 何でも一人でやってきたはずだ。

 祖父は厳しいばかりで、リンネを助けてくれたことなど一度もない。

 それでも。


(おじいさま)


 このどうしようもない虚しい心をどうすればいいのか尋ねたかった。

 しかし、故人に尋ねるすべなどリンネは知らない。


「リンネ!」


 ばさり!


 シーツがひとりでにはためいて、白い手に引き取られていく。

 そしてグレーのコートが目を丸くしたリンネの前に現れて、暗い空の下でも映える銀髪が雨に濡れている。

 ああ、なんてことを。

 そのズボンに跳ねた泥をどうやって落とそう。

 くだらないことを考えた次の瞬間には口を開いていた。


「何をなさっているんですか!」


「何をしているんだ!」  

 

 ほとんど同時に二人で怒鳴った。

 しかし、驚いたのはリンネだけで、普段は穏やかな猫のような人が今は嵐に負けないほどのしかめ面で唸った。


「こんなこと、一人で出来るはずがないだろう! どうして僕を呼ばないんだ!」


 怒鳴られて、初めてこの伯爵の低い声が耳を突き抜けるようにひどく透ることを知った。


 呼ぶ?

 使用人が、主である雇用主を?


「出来ないなんて言わないでください!」


 悲鳴みたいだ。

 自分の声がガンガンと心に空いた穴に響くようで、リンネは顔をしかめた。


 なんて最悪な初めての日なんだろう。  

 初めての来客、初めての主人の不機嫌、そして、初めて怒鳴られた。


「要らないなんて言われた挙げ句、出来ないなんて言われたら、私はいったい何のためにここに居るんですか!」


 リンネは自分の顔が赤いことを自覚しながら、初めて雇用主を睨みつけた。

 

 これで解雇されても構うものか。


 しかし、今度はジルラールの方が先ほどまでの怒りを忘れたように目を丸くしている。

 そしておもむろに口を開けて、


「―――続きは屋敷に入ってからにしようよ。お二人さん」


 知らない声に遮られた。

 

 シーツをつかんだまま声の主を探すと、近くの窓から身形のいい男が顔を出して手招きしている。

 リンネが自分を見つけたことに気がついたのか、彼はやんわりと笑って手を振った。

 どことなく、ジルラールとは違った意味で胡散臭く笑う男だ。


「行こう」


 そう言うが早いか、大きな手がリンネが抱えていたシーツまで持って、足早に先を行く。

 待って、と言いかけて、リンネは屋根の下に置きっぱなしだった洗濯物を思い出してそれを持って裏口をくぐった。


 洗濯物は、全滅だった。

 絞れるだけ絞って水気を抜いて、暖炉のある部屋に思い切り吊しておくしかない。

 幸いなのか、この屋敷には使われていない部屋など幾らでもある。

 リンネは洗濯物を大きな桶に溜めこんでから、自分の部屋に戻って手早く濡れた服と下着を脱ぎ捨てて着替えると、リネン室から乾いたタオルを何枚か抱えて出た。

 リンネも髪から水が滴るほどなのだ。ジルラールも同じ有様だろう。

 台所に寄ってやかんを火にかけてから、リンネは急いでジルラールの寝室に向かった。 彼も着替えるつもりらしく、水を含んだ泥だらけの足跡が絨毯に染み込んでいる。


 足跡の消えた寝室へとノックもそこそこに入ると、ジルラールがシャツに手をかけたところだった。

 彼のシャツ姿などベスト一枚でふらふらしているので幾らでも見たことがある。

 だが、ベストがないだけでこうも違うのか。

 水の染み込んだシャツが体に張り付いて、うっすらと透けている。

 シャツの下の体が見えるようで、リンネはそれとなく目を逸らした。


「タオルをお持ちしました。風呂の用意をいたしましょうか」


「ああ」


 いつもの短い返事とは、どこか違うような気がした。

 リンネはジルラールと目を合わせないように、彼の腕へとタオルをかける。

 そして、これも失敗したと思った。

 細いと思っていたその腕は、濡れたシャツ越しには思いのほかしっかりとしていて、それが目に入ったからだ。


「それでは、風呂の用意を」


「リンネ」


 先ほど怒鳴られた声に名前を呼ばれて、リンネは肩がびくりと震えた。


(ああ、また失敗したわ)


 今日はなんてひどい日だ。


 顔を上げられず、「はい」と答えたままうつむいていると、彼女の頬を冷たい何かが触れた。

 張りつめた糸を這うような、そんな冷たい何か。


「あーっ! 疲れた!」


 ガタンという大きな音と共にドアが開くと、雨合羽を着た男がノックもせずに両手に桶を持って入ってくる。


「まったくどういう神経してるんだ! 俺も一応公爵なんだぞ? それを水汲みに使うなんて!」


 桶を床に置いて、ばさりと合羽を脱いだのは、先ほど窓から手招きをしていた男だった。

 雨合羽を脱ぐと、男の身形はやはり整っていて、仕立てのいいコートは彼の長身によく似合っていた。

 リンネと目の合った男は、彼女をじっと観察したかと思うと、やはり胡散臭く微笑んで彼女と視線を合わせるかのように少し腰を折る。

 柔らかな短い金の髪は整えられていて、その瞳は鮮やかなピーコックグリーン。どちらかというと優雅な面立ちのジルラールと違い、精悍に整った顔立ちだ。

 しかし何を思ったのか、自分のその貴公子ぶりを知り尽くした微笑みで、どう見ても使用人のリンネに「お名前は」と手を差し出してくる。

 その手に荒れた自分の手を重ねるほど、リンネは身分があるわけではないし、アバンチュールを楽しみたい使用人でもない。


「何かご用がございましたら、お申しつけください」


 リンネは恭しく頭を下げて、貴公子から一歩下がる。

 その様子を見て取ったのか、ぶっきらぼうのままの主人の声が降ってくる。


「もうここはいいよ。自分で出来るから。風呂の用意をしてくれ」


 それと、とリンネの頭にばさりとタオルが被せられる。


「タオルはもういいから」


 まだ濡れている髪から、リンネの何かと一緒に水が吸われていくようだ。

 リンネは唇を噛みそうになって、口元を引き結ぶ。


「かしこまりました。失礼いたします」


 そのまま、部屋を辞した。



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