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初めての休みの日

「ああ、あんただね。伯爵さまの新しいメイドって」


 見ない顔だから、もしかしたらと思ったんだよ。

 町の雑貨屋でそんなことを言われ、リンネは目を瞬いた。

 リンネの疑問を察したのか、雑貨屋の中年の主人は弁解するように続ける。


「八百屋のベニーがあんたのことを話していてね」


 どうやら、リンネのことは本人の預かり知らぬところで噂になっているようだった。

 ハウスリングの領地はそこそこ広いが、領主の足下である町はそれほど大きな町ではない。住んでいる人のほとんどが顔見知りなのだろう。

 だから、リンネのような者は噂になりやすいのかもしれない。

 日用品を買うのも楽ではない。

 以前の奉公先ではほとんどが街中に近い場所だったので、すれ違うのはほとんどが知らない人々だった。


「ああ、そうだ」


 カウンター越しにリンネから代金を受け取りながら、雑貨屋の主人は思い出したように言い添えた。

 

「あまり外で伯爵様に奉公していることを言わない方がいいよ」


 一瞬、言葉の意味を捉えかねた。

 あの伯爵は、確かに貴族的で変人で何を考えているのかわからないうえ短い付き合いだが人を驚かせることが好きな性質だとは思うが、残酷な人ではない。

 しかし、リンネはここにきて彼の仕事ぶりを自分の目で見たわけではないことに気がついた。

 彼は朝にきちんと目覚める、貴族としては珍しいほど規則正しい生活をしているが(たいていの貴族は朝に弱い)リンネが掃除を終えて食事の用意をする頃には、すでにサンルームで猫のように昼寝をしていることがほとんどだ。


(もしかして、領主の仕事をおろそかにしているとか……?)


 しかしそれにしては、この町は普通だ。道行く人々は穏やかで、活気が特別にあるわけではないが、豊かな暮らしが見てとれた。


 リンネの曇った顔に気付いた店主は、慌てたように、しかしどこか楽しそうな顔で手を振った。


「誤解を招くようなことを言ったかもな。悪かったね。そういう意味じゃないんだよ」


 リンネが不思議に思って店主を見やると、彼は面白半分、心配半分といった様子だ。


「伯爵さまは人気のあるお方でね。この地を治めてくださる手腕は確かだし、あのご容姿だろう? 性格はあれだけど、基本的に気安くて優しい方だから、憧れの的というやつなんだよ」


 なるほど、とリンネは何となく納得する。

 確かに、性格はあれだが容姿は抜群だ。

 何しろ、どんな三文小説でも、彼のブロマイドさえつければ本が売れると出版社が太鼓判を押すほどだ。


(でも、領民にまで変人だと思われているのね)


 何となく疲れた気分にもなって肩を落とすリンネに店主は苦笑した。


「だからね、あんたみたいな若い娘が伯爵のメイドだって知れたら、とんでもない噂になってしまうから」


「伯爵さまのメイドがうちに来てるってホント!?」


 ドアベルがけたたましく鳴ると同時に、そんな甲高い声が駆け込んでくる。

 ゆるく波を描く亜麻色の髪の少女だ。若草のドレスをまとっていて、いかにも町娘風で可愛らしい。

 どこかからの帰りらしく大きな鞄を持っていたが、それを放り出すように店主に詰め寄っている。


「ミナーゼ、どうしたんだ。帰ってくるなり」


「そんなことはどうでもいいのよ、お父さん! それより聞いた? 伯爵さまが新しいメイドを雇ったんだって! しかも若い女の子で今日それらしい人をエデランが見かけたらしいわ!」


 どうやら店主の娘らしい。

 とっさにカウンターの正面を彼女に譲ったリンネは、店主がこっそりと手を振っているのに気がついた。

 この場を逃がしてくれるというのか。

 確かに、尋常ではない様子の娘の相手をするのはごめんだ。

 リンネはそっと気配を殺して、ドアベルが極力鳴らないように雑貨屋を後にした。   

 店を振り返らないように今しがた手に入れた日用品の入った紙袋を抱えると、我とも知れず溜息が漏れる。

 こんなことになるなら、町になど来るべきではなかったのかもしれない。


 今日は、屋敷に勤めて初めての休日だ。


 基本的に、メイドに定期的な休みはない。皆、交代で休みをいただく。

 しかし、あの屋敷に居る使用人はリンネただ一人だ。

 休日は初めから期待していなかった。

 だが、昨日の夕食時になって突然、伯爵が言い出したのだ。

 明日一日、羽を伸ばしておいで、と。

 何かあるのかと思ったが、それを尋ねるのは使用人として許されない。

 リンネは疑問は口にしないでただ頷いた。

 それに、せっかく休みをくれるというのだ。

 ありがたく頂戴しておいた方が利口だ。

 

 利口だと思ったのだが、リンネは特別に趣味を持っていない。

 花や庭木をいじるのは屋敷の維持に必要だからであるし、日がな一日書斎で読書をして暇を潰す伯爵のような知識欲もない。料理は美味しいものを食べたいが、基本的に口に入るのは粗食だ。

 それから、あまり自分を飾りたてることにも興味を持てなかった。

 これは、メイドとしては失格だ。

―――と、昔、先輩メイドから注意されたことがある。

 美的センスを磨いておかなければ、こと美容や装飾に興味の大半を傾けている貴族にうまく仕えることはできないからだ。

 だから、よりよい雇用先を得るには必然的にお洒落の技術が必要になる。

 多くはない給金の中で自分を磨くことに長けていた先輩たちは教えてくれたものだ。

 

 使用人として、長く勤められるのはほんのひと握りの幸運な人々だけだ。

 大方は、体力が衰えたりすれば解雇されてしまう。

 それを思えば、祖父は非常に幸運な人だった。

 長く一つの家に仕え、最期まで看取られ、惜しまれさえしたのだ。

 祖父が優秀だったこともあるだろうが、ああして孫娘の面倒を見てくださるのだから、まるで家族のように思ってくださっていたのかもしれない。


(あれ?)


 何となく、違和感が。


 いくら祖父の遺言だからといって、あの伯爵が破格の待遇で孫娘を雇う必要などない。

 もっと別の、リンネよりも優れた人はたくさん居るし、もっと使用人の数を増やすべきだ。

 彼は、どうしてリンネを連れ去るようにして雇ったのだろう。


 そうやって考えながら町の石畳の数を数えるようにして歩いていたから、気付かなかったのか。

 背の高い影がふっとリンネの目の前に現れて、突然、彼女の腕を取った。


(誰) 


 大声を出そうと息を吸ったリンネの口を手触りのいい手袋が塞いでしまった。    


「静かに。私だよ、リンネ」


 連れ込まれた路地は薄暗い。

 だが、目の前の人の髪はうっすらと淡く光っているようだ。

 片眼鏡の奥で微笑んだ晴れた海色の瞳を見て、丸くしていた目を落ち着ける。

 自分のことを認めたことが分かったのか、ゆっくりとリンネの口元から手袋が去っていく。

 それを何となく目をで追いながら、リンネは努めて呆れた声の出ないように向き直る。


「―――何か御用向きがございましたか。旦那さま」


「有無を言わさず連れ込んだことは詫びるよ。そんなに軽蔑した目で見ないでくれ。それに、その呼び方は好きじゃないと言ったはずだよ」


 噂の渦中の人であるジルラールはのんびりと、しかし少しだけ不機嫌を表すように眉を少しだけしかめた。

 彼は、リンネに尊称で呼ばれることをことのほか嫌う。ご主人さまと呼ぶことも、伯爵さまと呼ぶことも、気に入らないという。

 困ったリンネがハウスリング様と呼ぶことにしても駄目だと駄々をこねた。

 そうして彼も妥協したのが、旦那様だ。

 しかし、この呼び方も彼はあまり好きではないらしい。

 ある意味で、今まで出会った雇用主の中で一番厄介なご主人様だ。

 何しろ、迂闊に機嫌を損ねかねないので、呼ぶことができない。


(どう呼べっていうの)


 半ば怒りだしたい気分になる。

 いっそ騎士が使う尊称のようにロードとでも呼べばいいのか。

 

 路地裏でお互いに不機嫌になりかけたが、ジルラールの方が先に溜息をつく。この話はひとまずおしまいということだ。


「リンネは、―――ああ、買い物の途中だったんだね」


 リンネの手にある紙袋で合点がいったのかそう言ったが早いか、手袋の手にさっと奪われてしまう。


「何をなさるのですか」


「僕も買い物に来たんだ。一緒に行こう」


 今し方、まさにこの伯爵のせいで雑貨屋から逃げてきたというのにどうして噂の的となるように宣伝して回らなければならない。

 

 そう思ったことが顔に出ていたのだろうか。

 しかし、相手は変人だった。


「もしかして、僕の格好が気に入らない? せっかく今朝、君が選んでくれたのに」


 今の伯爵は、今朝、リンネが彼に選んだコートとタイの貴族の姿ではない。

 タイをしているのが奇跡のような、ラフなズボンにベストだけを着た非常に砕けた格好だ。

 こんな格好は、常日頃、屋敷に居てさえ見たことがない。

 だが、そういうことを気にしているわけではない。


「あなたさまのような方が供もつけずにフラフラと出かけることがいけないのです」


「どうして。この前、出版社に出かけた時はそんなことは言わなかったじゃないか」


「あのときは御者がおりました」


「平気だよ。僕がこうして歩くのはいつものことだから」


 この領地は結構安全なんだよ、と笑う顔に見とれる女性の気が知れない。


(どこがいいの、こんな変人)


 こめかみが痛むような気がしながら、リンネは根気強く説得することにした。

   

「そもそも、伯爵ともあろうお方が軽々しく町におひとりでおいでになることがおかしいのです。ご入要の品は届けさせます。お出かけになる場合は供をつけてください」


「供はつけようがないだろう。今日の君は休みなんだから」


 そうだった。

 リンネが唯一の使用人だ。


「……分かりました。わたくしと供に屋敷へお戻りください」


「ええ? 僕の買い物は?」


 リンネだけずるいよ、と言われてリンネは目眩がした。

 しかし、リンネは使用人だ。


「―――――かしこまりました」


 無言の抵抗も空しく、結局リンネがお供をすることになった。


 リンネの懸念どおり、ジルラールは町の真ん中を当然のように闊歩するものだから、リンネはあちらこちらから向けられる好奇の視線と目を合わさないようにうつむきながら歩かねばならなかった。

 しかし、彼は目的であるはずの本屋に着くまで、果物を見たり雑貨を覗いたりするので、遅々として進まない。

 しかも、先ほど雑貨屋の店主が逃がしてくれたというのに、とうとうその娘に見つかってしまう始末だ。


「あーっ! あなたが伯爵様の新しいメイドだったのね!」


 大通りで後ろ指をさされれば、嫌でも誰の耳にも入ったことだろう。


(私はよく我慢していますよね。おじいさま)


 祖父はよく、使用人は我慢が一番大事だとリンネに教えたものだ。

 羞恥に耐えたリンネを祖父は誉めてくれるだろうか。

 そんなことを考えながら、リンネはどこか楽しげに歩く元凶を恨めしげに眺めた。

  



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