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サンドイッチの日

 そういえば、とリンネは窓の外の日の加減を見つめた。

 掃除につい夢中になっていたが、そろそろ昼食時だ。

 昼食の用意をしなくてはならない。

 ジルラールは貴族としては珍しく好き嫌いもなく三食をきちんと食べるので、リンネは彼の希望を聞くだけでいい。

 

(変わった方だわ)


 以前の奉公先で数十に上った注意事項を思い出してリンネはうんざりとなった。

 しかし、このハウスリングの屋敷もうんざりするほど広いので、どちらがいいとも言えない。

 何せ、どれだけリンネが手早く掃除をしたところで、一週間経った今でも未だすべての部屋を回ることはできていないのだ。


 家具の雑巾がけを終えると掃除道具入れとバケツを手に部屋を辞す。

 この部屋は客室に続く応接間だ。

 来客もないので、掃除の必要はないと言われたが、手入れをしなければ荒れるだけだ。

 どうやら祖父もこうして一日の大半を掃除で費やしていたようで、あちこちに祖父がわずかに残した掃除の跡が残されていた。

 まるで、故人の軌跡をたどるような心地で、リンネは毎日掃除道具を手にしている。

 

 掃除道具を廊下の隅にある物置に片付けて、リンネは身形を整えながら階段を上がった。

 この二階の客室から上がって三階、日のほどよく当たるサンルームがジルラールのお気に入りだ。

 けれど、今日はノックをしても返事がない。

 あと彼がいるとすれば、リンネが思い当たるのは一つしかなかった。

 二階の書斎だ。

 

 思い当たって階下に降りて、部屋の前に立つと何やら叩く音がする。

 不思議に思いながらノックをすると、返事はすぐに返ってくる。静かにドアを開くと一緒にぱちぱちという音が大きくなった。

 

「……お仕事中でしたか」


 ジャッという音と共に機械の留め金が紙を押し出して、行を変えている。


「ああ、リンネ」


 銀色頭を上げもせず、ジルラールは軽快に幾つも並んだボタンを長い指で押しながら応えた。

 リンネの記憶が確かなら、紙より少し広い幅の置物はタイプライターという代物で、主に新聞記者や記録係などがペンを使わず文章を作るものだ。

 ボタンの先に金属の文字が印刻されていて、ボタンの文字を押せばそれが紙に印字されるという。

 しかし、その配列は複雑で、特殊な技能が必要だと聞いたことがある。

 そのうえ貴族はそういった庶民の発明を嫌う人が多く、リンネがタイプライターの形を知っていたのはたまたま行った文房具屋で大仰なケースに入っていたのを見たことがあるからだった。

 

 そんな代物を軽快に操って次々と文章を打ち出しているジルラールは、リンネにはやはり奇異に見えた。


「もしかしてそろそろ昼食かい?」


「はい」


「なら、手早く食べられるものをお願いできるかな」


 もしかして、ここで食べるつもりなのだろうか、とリンネが献立を頭の中で立て出すと、ジルラールは手を止めないまま続けた。


「私はね、常々自分は文筆家に向いているのではないかと思っているんだ」


「は?」


 思わず問い返したリンネを咎めもせず、ジルラールは歌うように言う。


「世界は美しいもので溢れている。その奇跡のような事象を私はこの文章で写し取りたい。――絵は苦手なのでね」


 なるほど。

 何となく納得ができるような、どうでもいいような。


 とりあえずリンネは頷くことにしておいた。

 貴族が趣味と称して様々な事をやってみせるのはままあることだ。

 何せ彼らは金と時間が余っている。

 彼らは特権階級であると同時に文化の担い手だ。

 要は彼らのようなパトロンが居てこそ、絵描きが食べていけるのだ。

 金も時間も才能も、どの能力にもあたらなかったリンネはこうしてあくせく働いて、世の中が回っている。


「そうは思わないかね」


「はい?」


 まだ何かしかをジルラールが述べてくれていたらしい。しかし、彼はリンネが使用人としての礼を失しても怒る気配はない。


「この世や人生は美しいと思わないかい、と言ったんだよ」


 ああ、なるほど。

 しかし、限られた世界で生きてきたリンネには世界の美しさなど分かろうはずもない。 ただ、一つ言えるとすれば。


「世の中は不思議なことで溢れておりますものね」


「それは、妖精や怪物のことかね?」


「それも不思議といえば不思議ですが」


 不思議そうな顔のジルラールに思わずリンネは言葉を続ける。


「こうしてジルラール様のお屋敷に奉公させていただくことになったご縁も不思議だなと思いまして」


 人と人が出会うのは、とても不思議だ。

 もしもリンネがあの教会に残っていなければ、こうしてジルラールに突然連れてこられることもなかった。


 今度はジルラールの方が「なるほど」と言って肯き、いつものように胡散臭い笑みを浮かべた。


「生意気を申しました」


「いや。実に良い着眼点だ。きっと、君の瞳には僕の知らないことがたくさん見えているのだろうね」


 感慨深げに言われてリンネは少しだけ目を伏せた。

 どういうわけだか、この胡散臭い伯爵には心の中を見透かされているような気分になる。


「もしや君も小説家に?」


 やっぱり自分の思い違いか。


 リンネは途端に冷静になった頭でそう断じて、丁寧だがきっぱりとジルラールの言葉を否定した。


 そしてリンネが作ったサーモンとタルタルソースと新鮮なレタスやトマトなどを挟んだ大振りのサンドイッチを、ジルラールは大層喜んで食べ、執筆活動を再開させた。



   

 それから数日のあいだ、ジルラールは夜も昼もなくタイプライターに向かい続け、リンネも紅茶のおかわりを注ぎ続け、サーモンやらチキンのサンドイッチを運び続けた。


 何日かして、ようやく何かを書き終えたらしい彼は、三日に一度この屋敷にやってくる野菜売りのおじさんに頼んでわざわざ馬車を用意して、ひとり街へと出かけていった。

 

 どうやら出版社に持ち込んでみたらしい。

 ジルラールは貴族なので、出版社の方も無碍にできなかったのか、貴族の書き物をしたというのが興味を引いたのか、話は始終朗らかに聞いてくれたようだ。


 そんなことを話しながら、リンネに土産だというクリームのたっぷりと乗ったケーキを差し入れてくれたので、リンネは行商人から買ったコーヒーを入れて差し上げることにした。コーヒーの豆は高いので、ジルラールの好物だがあまり出すことがないのだ。


 そんな日からさらに数日後。

 一通の手紙が届いた。



「紅茶を入れてくれ」


 最初こそそわそわと手紙を読んでいたジルラールだったが、読み終わるとサイドボードへ手紙を放り投げてしまった。

 リンネが掃除したばかりのサンルームのソファに深く腰掛けると、足を組んで不機嫌に目を閉じてしまう。


 どうかしたのだろうか。


 不思議に思ったもののリンネは言われた通りに紅茶を用意してテーブルに並べてやると、何だかジルラールがじっとこちらを眺めてくる。


「……どうかされたのですか?」


「そうなんだよ!」


 やはり何か聞いてほしかったのか。

 げんなりとした気分のリンネを後目にジルラールは憤慨やるかたないような顔で投げ出した手紙を指さした。


「あの手紙はね、僕が先頃小説を持ち込んだ出版社からなんだ」


 なるほど。

 どうりで始めは機嫌が良かったわけだ。


「だがね、あろうことか先方はね……」


「あろうことか?」


 話は長くなりそうだったので、リンネは適当に相づちを打ちながらポットにカバーをかけた。


「僕のブロマイド付きなら本を出してもいいと言ってきたんだ!」


 笑っても、良いのだろうか。

 

 リンネは口元を引き絞るようにつぐみ、改めて新しい雇用主を眺めた。


 貴族のあいだでもあまり見かけない青みがかった銀の髪は長く、まるで澄んだ水のようで、片眼鏡の奥の双眸は切れ長で、晴れた海を思わせるコバルトブルーだ。高い鼻も薄い唇も少し広い額も、見事に整った配置と形をしていて、白いかんばせは中性的にも見えたが美しいと評するべき男の顔だった。

 リンネが毎日選んでいるもののクローゼットの中のコートやタイはどれも趣味の良いもので、彼の長躯を包むにふさわしい。一見ひょろりとして年のよくわからない姿形であるものの、ジルラールは実に貴族らしい、絵から抜け出たような貴公子だった。

 

 確かに、世の女性を騒がせるにはもってこいの逸材だ。

 それに昨今流行った恋愛小説のほとんどが禁断の身分差ロマンス。

 ジルラールほどその偶像にしやすい貴族もいないだろう。

 

 妙に納得してリンネがジルラールからさりげなく目を逸らすと、彼はすねたような顔で言う。


「紅茶を淹れてくれ」


「かしこまりました」


 主に掃除や炊事を手伝っていたメイドのリンネは来客の接待をするような侍女ではなかったので、紅茶などの用意はあまり得意ではない。

 一応は祖父に叩き込まれているものの、慣れないものは慣れない。

 事実、こうして誰かにふるまうことなどほとんど皆無だった。


 それでも、ティーカップを受け取ったジルラールは慣れないリンネの様子を知っているだろうに文句をつけるどころか、どこか満足そうに口をつける。


「うん、旨い」


 本当だろうか。

 リンネは自前で茶葉やポットを買って淹れてみたことがあるが、祖父には遠く及ばなかったのだ。


「エンドランの紅茶はそれは旨かったけれど、君の紅茶は落ち着くんだよ」


 そういって、先ほどまでの不機嫌が嘘のように収まっているのだから、ジルラールの言うことはそう嘘でもないのだろう。


 リンネは二杯目の紅茶がとろりとした色でカップに満たされるのを眺めながら不思議な心地でいると、忍び笑いが吹いてくる。


「僕の絵姿なんかで本が売れると思っているのかね。おかしな奴らだ」


 確かに、とリンネは心の中で同意した。

 外見はどうあれ、ジルラールは物語の中の貴公子などではない。


 乙女の心を騒がせる形をした、ただの変人だ。




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