始まりの日
使用人の朝は早い。
主人のために朝食などもろもろを用意しなくてはならないからだ。
しかし、それは使用人を何人も雇えない、小さな屋敷でのことだ。
だから、すべての仕事をこなすことに慣れないリンネはまだ眠い目をこすりながら、お仕着せを着こんで身なりを整えた。
このお仕着せ一枚にしても、職人の手がけた布で縫製もきちんとしていて袖や襟に上等なレースまであしらわれていて、およそ食事の用意から掃除まで行うメイドに与えられるものとは思えない。
町外れのこの屋敷に連れてこられて一週間が経った。
リンネは自分の荷物は何もないまま連れられてきてしまったので、何か着替えをと雇い主となってしまったジルラールに尋ねたら、良家のお嬢様が着るようなお仕着せばかりが出てきてしまった。
それ以外に服はないというので、自分の式典用の服である喪服よりも上等なお仕着せを着ることになってしまったのだ。
そう、ジルラールが雇い主となってしまったのだ。
何か間違いが無いかと契約書を見直していたが、リンネでは間違いを見つけることはできず、それどころかこの国の商業を取り仕切る商業組合の組合長の一人の刻印まで見つけてしまい、ますます契約書が本物めいて見えてきたのだ。
組合の押印がある紹介書や契約書は偽造が難しく、その押印自体も特殊なインクで押されているので光にかざすと不思議な玉虫色の色合いになる。今まで幾つかの奉公を経験してきたリンネだからこそ、この刻印の信頼性を無視できなかった。
(ハウスリング様を信用したわけではないけれど……)
台所の窯に薪を並べながら、リンネは渋々と自分を納得させるしかなかった。
この屋敷に連れてこられてしまった翌日には、奉公先の奥様から手紙が届いたのだ。
それに書かれてあったのは、リンネを労う言葉と一緒に、かねてからの約束通り解雇するという内容だった。
リンネには、祖父のエンドラン以外に親戚縁者もない。
とどのつまりこの屋敷で働く以外に行くところがないのだ。
納得できなくても、ここでやっていくしかない。
リンネは自分で自分を理論でねじ伏せるようにして、昨夜から寝かせておいたパン生地を窯に並べた。
古いが良く使い込まれた窯だ。
窯は大きなものと小さな物とあって、リンネが使っているのはもっぱら小さい窯だ。
台所の様式も一昔前の物で、鍋を火にかけるにはいちいち薪をくべなければならないが、小さい窯に火を入れておけば、いっしょに火が使えるようになっているので湯を沸かすぐらいは簡単にできる。
水は外から汲んでこなければならないが、ハンドルを回せば引き上げてくれるので、リンネが自力でつるべから引き上げる必要はない。
前の奉公先では水汲みは下男の仕事だったが、その家ではつるべがあるだけだったので、とてもではないがリンネのような娘ができる仕事ではなかった。
パンが焼ける間にもやっておくことがある。
届いた新聞にアイロンをかけなければならないのだ。
新聞屋はこんな町外れの屋敷にも新聞を届けてくれるようで、毎朝リンネが受け取っている。
窯が静かに火を蓄えているのを見届けてから、一緒に焼いておいた炭をバケツに入れて、リンネは隣のアイロン部屋へと向かった。
本当ならこの役目は主人にもっとも近しい仕事をする執事か家令の仕事だ。
朝起こすのも、支度を手伝うのもそれは同様で。
アイロン部屋で炭をくべ、鉄の重たいアイロンが温まるのを待ちながら、リンネはようやく牛乳を口にする。
これも以前の奉公先では考えられない。普通、奉公人は屋敷の貴族よりも早く食事をとることが許されていないからだ。
しかし、ジルラールは片付けが面倒だからと最初は朝食の席を共にするよう言ってきた。片付けるのはどのみちリンネなので、やんわりと断ると、朝食はリンネの好きな時間にとっていいという。
これが最初の命令だというのだから、おかしな話だ。
(不思議な人だわ)
リビングの大きな一人掛けの椅子にリンネを座らせて彼女を諭すように言ったジルラールの真面目くさった顔を思い出して、リンネは思わず頬がほころぶのを感じながらすっかり温まったアイロンを手に取った。
布をあてて丁寧にアイロンをかけた新聞を丸盆に乗せて、今度は台所でやかんに湯を沸かす。
そうしている間にティーセットを用意するのだ。
朝の茶葉は早摘みのまだ青さが残る茶葉を蒸した爽やかな味のもの。
鮮やかな絵付けのされた磁器のティーセットと新聞と共にワゴンに乗せる。
そして大きな屋敷では珍しく台所からほど近いダイニングへと押していく。
この距離ならそうそう料理は冷めない。
もしかすると相当グルメな人物がこの屋敷を作ったのかもしれない。
普通の貴族は炊事場が近いことを嫌うので、どうしても料理が冷めてしまうのだ。
ダイニングに入ると、舞台の垂れ幕のようなカーテンを開けなければならない。
これが意外と大仕事だ。
丁寧にドレープを作りながら畳んでいかなければならないので、まるで貴婦人のドレスのように慎重に、しかし緞帳のような生地なので重い。
一苦労だが、急いでダイニングに朝日を迎えると、三十人は席につけるようなダイニングテーブルが姿を現す。
その長いテーブルを雑巾で清めて真っ白いクロスを敷いて、朝日は入るけれど直射にはならない位置にカトラリーを並べる。
そうしてワゴンを脇にやって、再び外の井戸から水を汲み、今度は桶と洗面器とタオルを持って二階へと登るのだ。
この屋敷の主人を起こさなければならない。
とはいっても、
「おはようございます。旦那様」
「ああ、おはよう」
ノック越しに返ってくるのは、いつも通りのジルラールの声。
許可を得て寝室に入ると、すでにシャツとズボン姿の主がにこやかにリンネを迎えた。
「やぁ、今日も愛らしいね。リンネ」
「ありがとうございます。ところで今日の朝食はいかがなさいますか?」
「相変わらずつれない子だ」
そこもいいところだけれど、という伯爵の軽口にも一週間でリンネは慣れた。
この程度のことは貴族ならばいくらでも言えるのだ。嘘の方便にいちいち付き合っていては仕事にならないことは経験上知っていた。
洗面所に洗面器を置いて水をたたえ、その脇にタオルを置く。
だいたいは歯を磨くなり髭を剃ることも使用人に手伝わせるが、ジルラールは嫌がった。
そのため、リンネは彼の上着をクローゼットから取り出す作業に移る。
どうやら、ジルラールは身の回りのほとんどのことを自力で出来るらしく、リンネの祖父であるエンドランが他界した一時は自分で生活をしていたらしい。
リンネでも初めて一日の作業をこなした時にはヘトヘトになったというのにだ。
「さ、今日の僕はどの上着が一番似合うかな?」
髭をあたってすっかり身支度を整えたジルラールはそんなことを言いながら寝室に戻ってくる。
何でも自分でやりたがるジルラールだが、リンネが選んだタイやコートに文句をつけたことがない。
むしろリンネが選ぶことを気に入っているようだ。
リンネにとって、彼はまったくもって不思議な伯爵なのだった。
ご指摘いただきまして一部修正いたしました。
大ボケかまして申し訳ございません。