神様を恨んだ日
その屋敷は広かった。
部屋数はゆうに百を数え、そのうえ部屋はベッドとチェストだけではあまりあるほど広い。そして収められている調度品は、花瓶の一つ、ドアノブに至るまで名のあるものが揃えられていて、伯爵家にふさわしい装飾と歴史をたたえていた。
しかし、その大半は今は白い幕がかけられて眠っている。
ひと昔前には数十人の使用人がかしずき、少なくとも四人ほどの伯爵家の家族が暮らしていたらしい。
社交の季節になれば貴族は皇都にあるメインハウスへと移り住むので、森と牧草地に囲まれた屋敷はいわばカントリーハウス、田舎の保養地だった。
だった、と聞かされてリンネが納得せざるをえなかったのは、現状を自分の目で見て確認したからだ。
「今使っているのはキッチンとダイニング、書庫に僕の書斎と寝室、たまに温室に入るぐらいかな」
あとはオープンテラスの椅子で昼寝もするよ、と案内してくれたのは、現在の屋敷の持ち主であるジルラール・ド・ハウスリング伯爵さま自身だった。
猫のしっぽのようになびく優雅な銀髪について廊下を歩きながら、リンネは無駄に広い屋敷を眺め回した。
人は居ない。
窓から見える範囲の庭は整えられているが、木々の奥は藪で覆われていて向こう側は暗くて見えない。
これからリンネに契約書を確認させるからと書斎へ連れていかれているが、やはり目の前の年のよく分からない男は貴族には見えるが伯爵には見えなかった。
リンネの祖父、エンドランがさる貴族に長年仕えていることは知っていた。
けれど、まさかあの厳格な祖父はこんな型破りな屋敷に仕えているとは思ってもみなかった。
五歳で両親を亡くしたリンネはエンドランに引き取られたが、彼の職場である貴族の家にリンネが住むことは許されず、平民でも通える寄宿学校を十歳で卒業し、リンネはすぐ奉公に出された。
だから、祖父とは暮らすどころか滅多に会うことさえなかったのだ。
奉公に出て八年が経った今では、小さな子供の一人ぐらいはどの貴族でも働き手として受け入れてくれることは分かっている。
それにそちらの方が学校へやるよりも安上がりだ。しかし祖父はわざわざ自分の仕えている家から遠い寄宿学校へとリンネを通わせた。
幼い頃は祖父に嫌われているのだと思いこんでいたリンネだったが、今では学校である程度学んだ初等教育が役に立つことが多いので感謝はしている。
だが、もうすでにない祖父の真意はとうとう分からずじまいだ。
(もっと、話ができれば……)
あるいは祖父の考えの一端でも見出すことができたのではないか。
(……無理だったかも)
祖父は厳しい上に無口な人だった。
行儀については平手打ちがあったわけでもないが、厳しい叱責を受けたし、成績はいつも上位に居なければ無言で睨まれた。
だからリンネは幼い頃から祖父は大の苦手だったのだ。
唯一の家族だったが、離れて暮らすことに何の寂しさも感じなかったことも事実だった。
むしろたまの休みに祖父の元へと帰ることが憂鬱だったこともある。
(とにかく契約書を確認しなきゃ)
祖父からの遺言はないが、このハウスリングという家に本当に仕えていたのなら、リンネには契約書とやらを確認する必要がある。
猫一匹居ない屋敷の二階に差し掛かって、リンネは我知らず丁寧に絨毯の敷かれた階段の先を睨んだ。
「さぁ、どうぞ」
伯爵と名乗った男、ジルラールがリンネを連れてきたのは、立派な屋敷の主にふさわしい書斎だった。
それは見るからに重厚な作りの本棚が壁にぎっしりと詰まっていたり、年月を感じさせる老人のような書斎机だったり、そこかしこから歴史ある貴族の香りが漂ってくるようだ。
(今の旦那さまの書斎とだいぶ違うわ……)
今現在リンネが仕えている屋敷の主は、新しい物が好きな性質なのか、机も家具も毎年流行の形に新調しているので、いつも新しい木の香りが充満している。
それに書斎で酒もたしなむので、机の脇の飾り棚には酒瓶が並べてあるのだ。
しかし、この書斎にはそういった物は一切なく、机と本棚の他には革張りの肘掛け椅子が幾つかあるだけだ。
部屋を見回していたリンネに椅子を勧めて、勝手知ったるといった調子で書斎机の引き出しからジルラールは一枚の書類を取り出してきた。
「どうぞ、確認して」
自分もリンネの向かいの肘掛け椅子に腰掛けて、今持って疑いの目を向けるリンネに軽く微笑む。
(お年の分からない人だわ)
青年のように若く見える。だが、笑顔の裏にある老獪にすら見える貴族の顔は、百戦錬磨の当主のそれだった。
リンネは勧められるまま椅子に浅く腰掛けて、渡された契約書に目を落とす。
契約書は、使用人契約の一般的なものだ。雇用責任のこと、使用人としてふるまう雇用要件のこと、あまり見かけない病気や怪我の時の保障についてまで書かれてあって、リンネは少し目を見張った。
病気や怪我をした際には見舞金を支払うというのだ。貴族の使用人にまったく危険がないとは言わないが、それでもこんな保障は危険の伴う煙突掃除夫にだってつかない。
給料も破格だった。今までの給料のほぼ倍はある。
最後にジルラールの署名と、見知った署名があった。
(これは、おじいさまの……)
寄宿学校での手続きの時などに見たことのある、右端が少し傾いているが厳格で美しい祖父の字だ。
しかし祖父の契約証明の一文にリンネは目を剥いた。
「こ、この、“ エンドラン・ガーランドが死亡した際には、孫娘リンネ・ガーランドがすぐ後任に付く ”って何なんですか!」
「だから、言ったじゃないか」
のんびりとジルラールは笑って、腹でゆったりと指を組む。
この一文には、“ いかなる奉公先ともこの条件に契約を結ぶ ”とある。
つまりは、だ。
「私って、このお屋敷にくるためだけに、今まで奉公に出されていたってこと!?」
五歳からのリンネの人生は、丸々このお屋敷に仕えるためだけに費やされていたとも言える。
使用人として口をつぐむことも忘れて愕然としたリンネを、ジルラールはたしなめもせずに面白がるように笑った。
「私に会うために今まで生きてきたなんて、なかなか情熱的なことを言うね。リンネ」
「そんなことは言ってません!」
そもそも、このジルラールが本当に伯爵かどうかも分からないのだ。
確かめなくてはならない。
「あの……他の使用人の方は休暇でも取られているのですか?」
疑い半分、困惑半分のリンネが冷や汗を拭いつつ伺ったジルラールの顔はいたって平然としたものだった。
「いないよ」
「は?」
これももう言ったよ、と首を傾げる銀髪がさらさらと彼の肩で流れた。
「だから、エンドランが居なくなった今、僕一人ではこの屋敷を維持できないから、君の助けが必要だと言ったはずだよ」
今、なんと。
非常識な伯爵の型破りな言葉を噛むように、リンネは頭の中を必死にたぐった。
この屋敷で、一人?
「………では、この屋敷の使用人は」
「今日から君だよ。リンネ」
祖父が死んでしまった今、めちゃくちゃな契約書は遺言だと思おう。色々納得なんかできないけれど、リンネが今まで勤めてきた使用人としての人生は無駄ではないと思いたい。それから目の前の傲慢かつよく分からない男が伯爵だと百歩譲ってそう信じよう。
しかし。
「じゃあ、これからよろしくね」
にっこり微笑んだジルラールの顔を殴らなかったのは、大衆から喝采を浴びてもいいと思った。
彼が伯爵で、この屋敷の主だとすれば、リンネはこの広いお屋敷のただ一人の使用人で。
(実働人数が、たった一人ってどういうことですか、おじいさま)
幾らなんでもあんまりだ。
慎ましやかに生きてきたリンネに何の落ち度があったというのだ。
手の中の契約書を破り捨てればなかったことにならないか。
リンネは、あまり働かなくなってしまった頭でぼんやりと運命をなじった。