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告白の日

 リンネは、ただの使用人の子供だ。どんなに祖父がジルラールと家族のように過ごしていたとはいえ、ジルラールにとっては他人である。幼い頃に会っていたからといって、こうまでリンネの面倒を見る必要はないのだ。

 ジルラールに出会う前から、リンネは一人で生きてきた。無論、それは祖父の助けも当然あったし、今までの奉公先でのたくさんの人々との出会いによって支えられてきたのは知っている。これからも彼らに感謝を捧げることに迷いはない。

 だが、ジルラールはどうだろうか。


「……グリーファさんたちから聞きました。祖父のお葬式に参列してくださっていたんですよね」


 少し考えれば分かることだったのだ。

 ジルラールは葬式のあと、すぐにリンネに声をかけてきた。

 誰にも告げず、たった一人で教会に残っていたリンネをわざわざ探しだしてまで。


「確かに私は、すでに祖父以外に家族の居ない身でしたが、そんな者は何処にでもいます」


 たとえ何も知らないリンネがジルラールの問題に巻き込まれてしまったとして、それが彼に何らかの影響を与えたとは思えない。

 だから、なぜジルラールはリンネを引き取るようなことをしたのか。


 ずっと聞けずにいた。


 でも、とリンネは少し思いなおした。


 秋を過ぎ、冬を越え、春を迎えて、ハウスリング領以外の人々と出会って、ジルラールをよく知る彼らがリンネを迎え入れてくれたように。

 リンネも、今まで知ろうとしなかったジルラールのことを知りたいと思った。


――その気持ちがどこからやってきたのかさえ、今はまだ分からないけれど。


 じっとリンネに見つめられ、ジルラールは珍しく目を逸らすように青い瞳を伏せた。それから静かに息をつき、視線はそのまま書斎の窓へと投げたまま。


「――僕は、少し浮かれていたかな」


 問いとも自問ともとれない呟きだったが、リンネは控えめに答えた。


「……少しだけ」


 本当は、きっと今までのジルラールからは想像もできないほどだったのかもしれない。皇都で見聞きするジルラールは、リンネの知るハウスリングの彼とはまったく違って見えた。


 リンネの答えにジルラールは視線を外に向けたまま笑って「そうだね」と頷く。


「君を連れて帰ったのは」


 口火を切って、彼はリンネに向き直る。静かなその視線を受け止めて、リンネは黙って言葉を待った。


「……エンドランの遺言があったからだ。孫娘を守ってほしいとね。前に話した通り、僕の家は少々複雑で、どんなことが起こるか想像もできたし、僕の知っている女の子が巻きこまれるのは嫌だったから、保護することはやぶさかではなかった」


 でも、と呟くように言って、ジルラールは自嘲するように笑う。


「本当は、君を家に連れ帰る予定じゃなかった」


 言われたことに反応できず、リンネは目をぱちぱちとさせた。

 連れ帰る予定じゃなかった?


「君に見せたあの契約書は、縁のない僕が保証人になって君の次の奉公先にあの雇用条件を呑ませて契約を結ばせるためのものだ」


 つまり、あの好条件はジルラールが自分で支払うために作成されたものではなく、他家に強要するものだったのだ。組合長の印まである契約書ではどんな家でも頷くしかなかったことだろう。いくら貴族とはいえ、皇家とも太い繋がりのある商業組合においそれと楯つくことはできない。

 二の句を告げないリンネを他所に、ジルラールは書斎椅子に深くもたれて告白を続ける。


「あの契約書をもって、僕は君にどこかもっと遠い、それこそ他国への奉公先か嫁入り先を探すつもりだった。嫁入りする場合ももちろん僕が媒酌人になって持参金も用意するつもりだったし、きちんと最後まで面倒をみるつもりだった」


「では…」


 ジルラールは、あの教会でリンネと会うまで、彼自身がリンネを預かるという選択肢を持っていなかったということになる。


「……そんな顔は見たくなかったな」


 苦く笑ったジルラールは、今にも泣きそうなリンネを見上げた。


(馬鹿みたい)


 ジルラールに連れられてきたリンネはさぞ滑稽だったことだろう。泣いたり、怒ったり、大わらわで、ジルラールに振り回されてばかりだったのだから。


「――あの日の君は、今みたいに泣きそうになることさえなかったけれどね」


 宥めるような声に、リンネは訝った。


「あの日?」


「エンドランの葬式の日」


 涙を押しこめるように瞬いたリンネを眺めて、ジルラールはゆっくりと彼女に微笑みかけた。


「あの日の君は、まるで人形のようだったよ。問いかけには応えるんだけれどね。目が、動かないんだ。――まるで、君の方が死んでしまったようだった」


 言われてリンネはあの日のことを思い出そうとするが、うまく思い出せない。


 あの日は、曇りだったのか、晴れだったのか。参列した客は多かったはずだが、そのほとんどが見知らぬ人々で、リンネを知る人もほとんど居なかった。祖父が亡くなるまでリンネと祖父がそろって誰かと会うことなどほとんどなかったのだ。祖父の知り合いがリンネを知っているのことは稀だった。

 気がつけば祖父の棺を墓に納めたあとだった。教会には神父もおらず、リンネは奉公先に帰ることも出来ずにいた。


「記憶にある小さなお姫さまは、笑うとそれは可愛かったのに、泣くこともできずにいる君を見ているとこのまま放り出してしまっていいのかと思った」


 途方に暮れていたのだ。


 祖父のことは、嫌いでも好きでもなかった。彼はリンネにとても厳しくあったし、それが嫌で煩わしいと思っていたことさえあった。

 しかし、厳しい祖父は確かにリンネの指針であり、道筋だった。

 そして、唯一の肉親がいるということは心のどこかで支えられていたのだ。

 それが突然いなくなってしまった。

 どうすればいいのか分からなくて、教会で座り込んでいたのだ。

 

 これからたった一人で、どう生きていけばいいのか。


 その真っ暗な不安に飲み込まれて。


「リンネ」


 あの日の記憶が始まるのは、いつも彼からだ。

 片眼鏡をかけた、風変りな紳士に呼びかけられる、その時から。


「僕が君を連れ帰ったことを、僕のわがままと思ってくれてもいい。さっきも言った通り、僕は少し浮かれていたんだと思う」


 けれど、とジルラールのコバルトブルーの双眸がリンネを見つめる。


「同情でも親愛でも何でもいいから、僕は君を連れ帰りたくなった。ただそれだけなんだよ」


 深い空のような瞳はどこまでも真摯だった。

 ともすれば、情熱的な告白のような。

  

 でも、とリンネも思う。


 この風変りな紳士の言うとおり、同情だろうと、憐れみだろうと、リンネを連れ帰る理由は何でも良かったのだ。


 ただ手を引いて帰るという、その事実だけで。


 ならば、とリンネも思うのだ。


「――連れて帰ってくださり、ありがとうございます。旦那様」


 連れ帰られたおかげでこうして微笑んでいられる、それも事実で。


 コバルトブルーの瞳がリンネを見つめ、不意に視線を窓の空へと向けてしまった。

 普段はうるさいぐらい雄弁な伯爵はただ「ああ」とだけ呟いて、


「――紅茶を入れてくれないか」


 空を眺めて見向きもしない。

 リンネはジルラールの様子をしばらく見ていたが、やがてゆっくりと一礼した。


「かしこまりました」


 こうやって退室を許されたのは、彼女にとっても都合が良かったのだ。


 静かに部屋を出て、リンネは頬に手をあてる。


(……真っ赤だったわ)


 顔を背けてしまったジルラールの耳は真っ赤だったのだ。

 そして、それはリンネも同じ。

 部屋に居る二人してリンゴのように真っ赤になっているなど、滑稽以外の何物でもない。

 恥ずかしいやら、情けないやらで顔の熱はなかなか引きそうになかったが、リンネは何故か後から後から湧いてくる笑いを必死にこらえなければならなかった。

 我慢していなければお腹を抱えて笑いだしそうになる。


(だっておかしいでしょう!)

 主人と使用人、二人が何だか恥ずかしい告白を聞いて互いに真っ赤になっているのだ。

 まるで子供のようだった。

 

 辛うじてはしたなく笑いだす前に部屋を出ることが出来たのは、ジルラールのおかげだ。

 普段よりも足取りも軽く台所へ向かいながら、リンネは紅茶ともう一品、スコーンでも添えようと笑みを深めて、書斎で真っ赤になった人と同じようにバラの咲き誇る庭を眺めた。


 この歪で、滑稽で、温かな時間を大切に思いながら。


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