誘拐された日
「僕は、ジルラール・ド・ハウスリング」
教会の外であっと言う間に辻馬車をつかまえた紳士は、御者に何事かを告げて走らせてから、座席につくとそう自己紹介した。
「しがない田舎貴族だよ」
ハウスリングとは、この教会のある領地の名前だ。
山に囲まれた交易要所で、のんびりした土地だが鉱山を多く持つ豊かな土地でもある。
「……はぁ……」
領主の名前を持ち出されて、リンネはますます疑いの心を強くした。
もしかしたら、とんでもなく悪い人の誘いに乗ってしまったのかもしれない。
ごめんなさいおじいさま、と心の中で詫びて、自称貴族の紳士をリンネは胡乱な顔で見つめる。
見目だけならば領主一族にふさわしい貴族らしく整った顔立ちだ。
「あの、ハウスリング様はわたくしにどのようなご用件なのでしょうか」
不作法と怒られても構わないと思いながら尋ねたリンネを、紳士はじっと見下ろしたかと思えば「なるほど」と一人納得した。
「君はもしかしておじいさまから何も聞いていない?」
何を聞いていればよかったのだろうか。
ますます怪訝顔になったリンネに紳士はもう一度なるほどと言って胡散臭く笑った。
「君のおじいさまはね、ずっと私の家令だったんだ」
家令といえば、その家の主人家族の次に権限を持つ使用人のことだ。たかが使用人と侮ってはいけない。火急の際には、主人に代わって家を取り仕切ることもできるのだ。
それほど信頼の置かれていた身分でもあった。
「けれど、彼が亡くなってしまったからね。私一人では屋敷の維持が難しくなってしまった」
一人?
怪しくなってきた雲行きに、リンネはとうとう苦虫をつぶすような顔になってしまう。
「だから、君に当家の使用人になってほしいんだ」
「はぁ……」
リンネはすでに他家の奉公人だ。礼儀作法まで仕込んでもらった奥様にはご恩がある。
今回の祖父の葬式も、奥様の厚意を多いに受けている。
お屋敷に帰ったらますますのご奉公をと考えているのだ。
「あ、君のおじいさまはその辺はぬかりないよ。君の奉公先すべてと、自分の死後は私の元に寄越す契約をしていたから」
なんですと。
リンネが口をパクパクさせているのを後目に、貴族を名乗る紳士はそれを興味深そうに眺めている。
「あ、あなたは一体誰なんですか!」
思わずそう尋ねてしまったリンネに、紳士は社交界でもさぞ騒がれるだろう笑顔で答えた。
「知らない人の馬車に乗るのは関心しないよ。君」
助けてーっ!
窓の外に向かって今にも叫びそうなリンネの喪服の肩にやんわりと手を置いて、どうどうと座席にいとも簡単に押さえつけながら、紳士はにこやかに続ける。
「私はハウスリング家の当主、ハウスリング伯爵なんだよ」
どこかしらを走っていた辻馬車が止まって、御者が到着を告げる。
紳士はさっさと自分で馬車の戸を開けて降りてしまうので、リンネも御者も一瞬ぽかんとなった。
普通、貴族は自分で馬車の戸を開けたりしないのだ。
唖然としているリンネに、胡散臭い紳士は淑女にするように手を差し出してくる。
にっこりと笑った笑顔は、リンネには詐欺師にしか見えなかった。